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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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リョウちゃん、しおかぜに立つ ――美人店主と気のいいウェイター、島カフェ新体制はじめました

翌朝、「しおかぜ」は何事もなかったように開店した。


いや、何事もなかったわけではない。

何年も帰らなかった男が、突然、繁忙時間帯に現れた。

玲奈は泣いた。

亮介は、一番綺麗な皿で黒糖プリンを食べた。


それは、十分すぎるほど大事件だった。


だが、島カフェの朝は待ってくれない。


玲奈はいつも通り、黒糖プリンの仕込みを始めた。

カラメルの火加減を見て、冷蔵庫の在庫を確認し、コーヒー豆を量る。

そして、入口の看板を出す前に、亮介へエプロンを渡した。


「亮介さん。開店準備は九時からです」


亮介は、一瞬だけ戸惑った。


「……俺、今日も働くんですか」


「昨日の時点で仮採用です」


「仮採用」


「本採用かどうかは、勤務態度を見て判断します」


何年ぶりの再会の翌朝に言う言葉ではなかった。

だが、玲奈らしかった。


亮介はエプロンを受け取り、少し笑った。


「分かりました。頑張ります」


「“はい、喜んで”は禁止です」


「まだ言ってません」


「言いそうな顔でした」


その日から、亮介は「しおかぜ」に立つことになった。


そして、意外なほど使えた。


水を出す。

皿を下げる。

空いた席を案内する。

観光客に軽く声をかける。

常連のおばあの足元を気遣う。

おじいの新聞が風で飛ばないよう、さりげなく重しを置く。


大学時代、大手居酒屋チェーンで叩き込まれた接客は、体に染みついていた。

混んだ店内で何を優先すべきか。

どの客が急いでいるか。

誰が話しかけてほしそうで、誰が静かに過ごしたいか。


亮介は、それを自然に見分けた。


「黒糖プリン、今日はまだありますよ」

「コーヒーは少し苦めですけど、プリンと合わせるとちょうどいいです」

「おばあ、いつもの席、空きましたよ」

「写真撮りましょうか。海も入れますね」


声が軽い。

でも、不思議と嫌味がない。


玲奈の接客とは真逆だった。


玲奈は正確で、静かで、どこか調書のように固い。


「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、ブレンド一点。以上で相違ありませんか」


初めての観光客は少し緊張する。

そこへ亮介が柔らかく入る。


「うちの店主、確認はちょっと厳しめですけど、プリンは優しい味です」


店内に笑いが起きる。


玲奈は厨房から言う。


「余計な説明は不要です」


「はい。……承知しました」


「今、“喜んで”と言いかけましたね」


「言ってません」


「顔が言っていました」


常連たちは大笑いした。


三日も経たないうちに、亮介は「リョウちゃん」になった。


「リョウちゃん、水ちょうだい」


「リョウちゃん、今日のプリンまだある?」


「リョウちゃん、玲奈ちゃんに怒られんように働きなさいよ」


亮介はそのたびに笑って返す。


「はい、気をつけます」


「“はい、喜んで”言わんのね?」


「禁止されてます」


「玲奈ちゃん、厳しいさぁ」


玲奈はカウンターの奥から淡々と言う。


「業務規律です」


「もう夫婦みたいさぁ」


「違います」


即答だった。


亮介は少しだけ嬉しそうにする。

玲奈はそれを見て、さらに無表情になる。

だが耳だけ、少し赤い。


数日もすると、役割分担は自然に決まった。


玲奈は厨房。

黒糖プリン、コーヒー、軽食、会計管理。

亮介はホール。

接客、案内、皿下げ、観光客対応、常連のおしゃべり相手。


二人の動きは、妙に合っていた。


玲奈が何も言わずに視線だけ送る。

亮介はその先の空き皿を下げる。


亮介が「ブレンド追加です」と言う前に、玲奈はもうカップを温めている。


玲奈が黒糖プリンを皿に置く。

亮介は、客の表情に合わせて一言添える。


「これ、店主が毎朝かなり真剣に作ってます」


「余計なことを言わないでください」


「事実です」


「事実でも不要です」


そのやり取りが、いつの間にか店の名物になっていく。


口コミサイトにも、少しずつ変化が出た。


平久保岬方面の小さな島カフェ。黒糖プリンが絶品。美人店主はクール、ウェイターさんは気さく。


店主さんの注文確認はちょっと取調べ風。でもウェイターさんが柔らかくフォローしてくれるので、逆に楽しい。


黒糖プリン目的で行ったが、店の空気が良かった。美人店主と気のいいウェイターのいる店。


玲奈はそれを読んで、眉をひそめた。


「取調べ風とは失礼です」


亮介は笑いをこらえた。


「でも褒めてますよ」


「あなたの“気さく”評価が高すぎます」


「嫉妬ですか?」


「業務分析です」


「そういうことにしておきます」


「減点します」


「何の点数ですか」


「勤務評価です」


亮介は、少しだけ幸せそうに笑った。


だが、「しおかぜ」の常連たちは、何も知らないわけではなかった。


亮介がかつて、巨額詐欺事件の片棒を担いでいたこと。

玲奈自身がその被害者だったこと。

その男を、何年も待ち続けたこと。


島の人たちは、うすうす知っていた。


狭い島で、噂は潮風より早い。

それでも、誰も店でその話をしなかった。


それが島人の心意気だった。


過去を知らないふりをするのではない。

過去ごと、今の姿を見る。


亮介が水を運ぶ。

皿を下げる。

腰の悪いおばあに椅子を引く。

泣き出した赤ちゃんに困る若い夫婦へ、少し離れた席を案内する。

観光客に道を教える。


その一つ一つを、島の人たちは黙って見ていた。


ある午後、常連のおじいが、亮介を呼んだ。


「リョウちゃん」


「はい」


「昔のことは、聞かんさぁ」


亮介の手が止まる。


おじいは新聞を畳み、海の方を見た。


「でも、玲奈ちゃん泣かせたら、島中敵に回るよ」


亮介は深く頭を下げた。


「分かっています」


おじいは頷いた。


「なら、水ちょうだい」


「はい」


亮介は水を持っていった。

その手が少し震えていたことに、玲奈だけが気づいた。


厨房から見ていた玲奈は、何も言わなかった。

ただ、黒糖プリンを一つ余分に皿へ乗せた。


「おじいにサービスですか?」


亮介が小声で聞く。


玲奈は淡々と答えた。


「糖分補給が必要そうだったので」


「本当は?」


「聞かないでください」


亮介は、それ以上聞かなかった。


夕方、客足が落ち着くと、亮介は外の看板を拭いた。

門司港で身につけた作業の手つきは、意外と丁寧だった。

錆びたネジを見つけると、工具を借りて締め直す。


「いつ覚えたんですか」


玲奈が尋ねる。


「門司で。壊れたものは、直せるなら直せって言われてました」


「それは良い教えです」


「俺も、直せますかね」


亮介は、ぽつりと言った。


玲奈は少し黙った。


「人は、看板より手がかかります」


「でしょうね」


「でも、手をかける価値があるかどうかは、これからの働き次第です」


亮介は苦笑した。


「勤務評価、まだ続いてるんですね」


「当然です」


けれど、その声は以前より少し柔らかかった。


日が暮れる。

南ぬ島の夕暮れが、店の窓を淡い橙色に染める。


「しおかぜ」は、少しずつ変わっていた。


玲奈ひとりの店ではなくなった。

みうちゃんと二人で切り盛りしていた頃とも違う。

島のみんなに支えられながら、今は亮介がホールに立っている。


美人店主と、気のいいウェイター。


その言葉だけなら、どこにでもある小さなカフェの紹介文のようだった。

けれど、この店には、それ以上の時間がある。


待った時間。

傷ついた時間。

やり直そうとした時間。

そして、誰かが過去をすぐには問わず、今の姿を見てくれる時間。


閉店後、玲奈は売上を確認しながら言った。


「今日の接客は八十点です」


亮介は目を丸くした。


「上がった」


「常連対応は良好でした。ただし、観光客に話しかけすぎです」


「楽しくなってしまって」


「分かります。でも、少し控えなさい」


「はい」


「あと、看板のネジを直したのは加点です」


亮介は少し嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


玲奈は帳簿を閉じた。


「明日も九時からです」


「はい」


「遅刻厳禁」


「分かってます」


「“はい、喜んで”禁止」


「それも分かってます」


少しだけ沈黙が流れた。


亮介が、静かに言う。


「玲奈さん」


「はい」


「ここに立たせてもらって、ありがとうございます」


玲奈はすぐには答えなかった。


窓の外では、夜の海が暗く広がっている。

その向こうに門司も、神戸も、みうちゃんのいる街もつながっている。


玲奈はカウンターを拭きながら、短く言った。


「まだ仮採用です」


亮介は笑った。


「厳しいですね」


「でも」


玲奈は少しだけ視線を逸らす。


「助かっています」


それだけで、亮介には十分だった。


遅すぎた恋は、まだ始まったばかり。

黒糖プリンより手がかかる男は、今日も皿を下げ、水を運び、島の人たちに「リョウちゃん」と呼ばれている。


「しおかぜ」は、明日も少し賑やかになりそうだった。

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