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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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一番綺麗な皿で、遅すぎた男を迎える ――閉店後のしおかぜ、黒糖プリンと涙の取調室

最後の客が帰ったあと、「しおかぜ」は、ようやく島の夜に戻った。


昼間の騒ぎが嘘のようだった。

観光客の笑い声。

常連のおばあの冷やかし。

亮介の場違いな「はい、喜んで!」。

それらが潮風にさらわれ、店内には、洗い終えたカップの音と、黒糖プリンの甘い余韻だけが残っていた。


玲奈は無言で棚の奥を開けた。


亮介は、その背中を黙って見ていた。


玲奈が取り出したのは、一枚の皿だった。

白い磁器に、淡い青の縁取り。

石垣の海にも、神戸の港にも、門司の海にも似た色だった。


何度も洗った。

何度も拭いた。

けれど、一度も使わなかった皿。


亮介が帰ってきたら、この皿で黒糖プリンを出す。

そう決めていた皿だった。


「座ってください」


玲奈は、カウンター端の席を指した。


入口と窓の両方が見える席。

何年も、亮介のために空けていた席。


亮介はゆっくり座った。

昼間の軽快な接客は消えていた。

門司港で日に焼けた顔に、緊張が浮かんでいる。


玲奈は黒糖プリンを一番綺麗な皿に乗せ、深煎りのブレンドを添えた。


そして、いつもの声で言った。


「ご注文を確認します。黒糖プリン一点、ブレンド一点。以上で相違ありませんか」


亮介は、少しだけ目を潤ませて答えた。


「相違ありません」


それだけで、何年分もの時間が少し揺れた。


けれど、そこで終わらないのが玲奈だった。


彼女は椅子に座るなり、ノートを開いた。


「では、聞きます」


亮介は目を瞬かせた。


「え?」


「仮釈放後の居住地、勤務先、収入、生活状況、交友関係、健康状態、借金の残額、門司港での勤務内容。時系列でお願いします」


「玲奈さん……再会ですよね、これ」


「再会だから確認しています」


本当は、嬉しくて仕方なかった。


今すぐ泣いて、抱きしめて、遅いと怒って、帰ってきてくれてありがとうと言いたかった。

でも玲奈は、そういうことを真っすぐできる女ではなかった。


照れ隠しは、だいたい調書になる。


亮介は苦笑した。


「どの刑事の取り調べより、玲奈さんの方がきついです。特に今日は」


「不満ですか」


「いえ。……どこか嬉しいです」


玲奈は一瞬だけ目を逸らした。


「では、答えてください」


亮介は頷いた。


そして、門司でのことを話し始めた。


仮釈放後、神戸にも石垣にも向かわなかったこと。

縁もゆかりもない門司港を選んだこと。

港湾荷役の補助として働き始めたこと。

最初は誰にも信用されなかったこと。

名前ではなく「新人」と呼ばれていたこと。


「荷物は、本当に重かったです」


亮介は静かに言った。


「初日は、腰が抜けるかと思いました。手の皮も破れて、夜は安い部屋に戻って、シャワー浴びる前に寝てしまうこともありました」


玲奈は黙って聞いていた。


「昔の俺なら、うまく話して、誰かに気に入られて、少し楽な場所へ回ろうとしたと思います。でも、港では通じませんでした。調子よく話すほど、年配の作業員から信用されなかった」


亮介は少し笑った。


「だから、黙って働くしかなかったんです」


毎日、遅れずに行く。

頼まれた荷物を運ぶ。

分からないことは知ったかぶりせず聞く。

失敗したら謝る。

言い訳しない。


「信用って、説明しても戻らないんですね」


亮介はカップを見つめた。


「毎日そこにいること。嘘をつかないこと。逃げないこと。そういう小さいことを積むしかないんだと、やっと分かりました」


玲奈の指が、ノートの上で止まった。


亮介はさらに続けた。


「昔の仲間とは切りました。連絡先も変えました。借金も、全部ではありませんが返済計画を立てています。派手な暮らしもやめました。給料は安いです。でも……初めて少しだけ、自分の金で生きている気がしました」


「食事は」


「港の近くの定食屋で。米と味噌汁がうまかったです」


「住まいは」


「古いアパートです。狭いですが、寝られます」


「怪我は」


「軽い打撲と手の皮くらいです」


「病院には」


「行ってません」


玲奈の目が鋭くなる。


「行きなさい」


「はい」


亮介は素直に頷いた。


玲奈は、またノートに書き込む。


「なぜ、すぐ来なかったの」


その声だけは、少し低かった。


亮介は俯いた。


「自由になっただけで、あなたの前に立っていいとは思えませんでした」


沈黙。


「門司で働いて、身辺整理して、少しでも身ぎれいになってから来たかった。胸を張って真人間ですとはまだ言えません。でも……人前に出てもいいくらいには、なれたかもしれないと思いました」


亮介は深く頭を下げた。


「こんな自分を、受け入れてくれますか」


長い沈黙が落ちた。


波の音が、窓の向こうでかすかに聞こえた。


玲奈は、ずっと待っていた。

亮介の席を拭いた。

亮介の皿を洗った。

門司港から届いた短い葉書を読み返した。

帰ってこないかもしれない未来も考えた。


でも、今ここにいる。


本当に、目の前にいる。


玲奈の美しいアーモンドアイから、大粒の涙がこぼれた。


「何年間も……ずーっとこの日を待っていたんです」


亮介が顔を上げる。


玲奈は涙を拭かなかった。


「もっと早くても、良かったんじゃないの?」


その一言に、亮介は何も言えなくなった。


いつもの軽妙な言葉も、謝罪の形も、気の利いた返しも、全部喉で止まった。


この人を、これ以上悲しませてはいけない。


亮介は、そのことだけを強く思った。


「……すみません」


それだけしか言えなかった。


玲奈は少しだけ鼻をすすり、黒糖プリンを指した。


「食べてください。何年も練習しました」


亮介はスプーンを取った。


一口食べる。


黒糖の甘さ。

カラメルの苦さ。

なめらかな食感。

そして、待っていた時間の重さ。


胸の奥まで沁みた。


「美味しいです」


玲奈は泣きながら、少しだけ得意げに言った。


「当然です」


亮介はもう一口食べた。


「これを、俺のために?」


「あなたのためだけではありません。島の人たちにも出しています」


「そうですよね」


「でも、この皿は……あなたのために用意しました」


亮介はスプーンを止めた。


玲奈は目を逸らす。


「言わせないでください。恥ずかしいので」


亮介は静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は、これからの働きで返してください」


「はい」


「明日も来るんですか」


亮介は少し戸惑った。


「来ても、いいんですか」


玲奈は涙を拭き、いつもの顔を取り戻そうとした。


「今日の働きは七十点です。人手としては使えます」


「七十点……」


「ただし、“はい、喜んで”は禁止。売り込みすぎも禁止。常連に馴染みすぎるのも注意」


「馴染みすぎもだめなんですか」


「私がやりにくいです」


言ってから、玲奈は少しだけ頬を赤くした。


亮介は笑いそうになったが、こらえた。

今笑うと怒られる。

それくらいは、もう分かる。


玲奈は小さな声で続けた。


「でも……助かりました」


その言葉は、何よりも温かかった。


閉店後の「しおかぜ」に、静かな潮風が流れた。

一番綺麗な皿の上で、黒糖プリンは少しずつ減っていく。


遅すぎた男は、ようやく席に座った。

待ち続けた女は、涙を隠しきれなかった。


そして二人は、まだ恋人でも、夫婦でも、完全な答えを出したわけでもない。


ただ、同じカウンターにいた。


それだけで、今夜は十分だった。

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