ただいまより先に、“皿下げて” ――帰ってきた男、しおかぜ繁忙日に現る
その午後の「しおかぜ」は、店というより、小さな台風だった。
平久保岬へ向かうレンタカー客。
黒糖プリンを目当てに来た若い夫婦。
いつもの席で新聞を広げるおじい。
観光客に勝手に席を案内するおばあ。
玲奈はカウンターの奥で、表情ひとつ変えずに限界を迎えていた。
「黒糖プリンは残り六つです」
「お冷やは私が出します。おばあ、勝手に配らないでください」
「三番テーブル、少々お待ちください」
「おじい、その席は予約席ではありません」
おばあは笑う。
「玲奈ちゃん、今日は一人じゃ無理さぁ」
「一人で回します」
「顔が無理って言ってるさぁ」
玲奈は答えなかった。
答える暇がなかった。
その時、入口のベルが鳴った。
からん、と乾いた音。
玲奈は反射的に顔を上げた。
扉の前に、作業着姿の男が立っていた。
少し痩せていた。
日に焼けていた。
昔のような軽い笑みはなく、代わりに港の風で削られたような無骨さがあった。
水野亮介。
何年も、玲奈が待っていた男だった。
亮介もまた、ここへ来るまで何度も想像していた。
玲奈は驚くだろう。
もしかすると泣くかもしれない。
無言で抱きついてくれるかもしれない。
いや、玲奈だから、静かに「遅かったですね」と言うだけかもしれない。
それでも、きっと特別な瞬間になる。
門司港から石垣へ向かう飛行機の中で、亮介はその場面を何度も組み立てていた。
そして今、その本人が目の前にいる。
「……ただいま、戻りました」
声は少し掠れていた。
玲奈は止まった。
本当に、一瞬だけ。
手に持っていたコーヒーカップが、空中で止まる。
美しいアーモンドアイが、ほんのわずかに揺れる。
帰ってきた。
何度も拭いた空席。
何度も読み返した葉書。
棚の奥にしまっていた一番綺麗な皿。
それらが一度に胸へ押し寄せる。
本当は、駆け寄りたかった。
抱きしめたかった。
何年分もの寂しさを、ほんの一瞬だけでも隠さず見せたかった。
けれど、現実は容赦なかった。
店は満席。
コーヒーは抽出中。
黒糖プリンは残り六つ。
おばあは勝手に水を配っている。
四番テーブルは会計待ち。
玲奈は、視線を少し逸らした。
「あっ、お帰り」
あまりにも素っ気なかった。
亮介は固まった。
「……え?」
「話は後です。今、忙しいので」
玲奈はカウンター下から予備のエプロンを取り出し、亮介に差し出した。
「早速で悪いけど、二番テーブルのお皿下げてくれる?」
「え?」
「三番テーブル、注文まだです。水も足りていません」
「え?」
「門司で荷物を運んでいたんでしょう。皿も運べますよね」
感動の再会は、三秒で業務指示になった。
亮介は、差し出されたエプロンを見つめた。
何年もかけてここまで来た。
門司港で汗を流し、信用を少しずつ積み直し、ようやくこの扉を開けた。
その結果、最初に任されたのは皿下げだった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
亮介はエプロンを受け取った。
「……分かりました」
次の瞬間、身体が勝手に動いた。
大学時代、大手居酒屋チェーンで鍛えられた接客の記憶。
水を出す。皿を下げる。注文を取る。客の表情を見る。
混んだ店内で、どこが詰まっているかを読む。
亮介は自然に声を張った。
「はい、喜んで!」
店内が止まった。
玲奈も止まった。
次の瞬間、常連のおばあが吹き出す。
「何ね今の! しおかぜが急に居酒屋になったさぁ!」
おじいも新聞を畳んで笑う。
「玲奈ちゃんより愛想ええ男やねぇ」
観光客の夫婦も笑っている。
亮介は慌てた。
「すみません、昔の癖で」
玲奈は無表情で言った。
「その掛け声は禁止です。店の雰囲気に合いません」
「はい……承知しました」
「“承知しました”は許可します」
「基準が厳しいですね」
「当然です」
そのやり取りで、店内の空気が少し軽くなった。
亮介は、想像以上に働いた。
皿を下げる。
グラスを補充する。
注文を取る。
会計前の客へさりげなく声をかける。
子ども連れには椅子を動かす。
おばあには段差を注意する。
「黒糖プリン、残り少ないので今のうちですよ」
「コーヒーは少し苦めですが、プリンと合わせるとちょうどいいです」
人当たりがいい。
間がいい。
客の懐に入るのがうまい。
玲奈とは真逆だった。
玲奈の接客は正確で、静かで、どこか調書に近い。
亮介の接客は軽快で、明るく、客を少し笑わせる。
常連たちはすぐに察した。
「あれが帰ってこん男ね」
「玲奈ちゃんの顔、一瞬止まったさぁ」
「でも、よう働く男やねぇ」
「これは店が流行るさぁ」
玲奈は聞こえないふりをした。
耳だけ、少し赤かった。
亮介が三番テーブルから戻ってくる。
「ブレンド二つ、黒糖プリン二つです」
玲奈はプリン皿を出しながら言う。
「復唱は?」
「ブレンド二点、黒糖プリン二点。以上で相違ありませんか」
玲奈の手が止まった。
「勝手に継承しないでください」
「みうちゃんさんから聞いていたので」
「みうちゃんから?」
「霧笛で一度会いました。玲奈さんの確認は伝統だと」
玲奈は少しだけ目を細めた。
「あとで事情聴取します」
「俺ですか、みうちゃんさんですか」
「両方です」
亮介は笑いそうになったが、こらえた。
その後も、二人は黙々と働いた。
再会の言葉はない。
抱擁もない。
涙もない。
ただ、皿が下げられ、コーヒーが出され、黒糖プリンが運ばれていく。
それなのに、玲奈は不思議な感覚を覚えていた。
何年も空いていた席の男が、今、自分の横で店を回している。
夢ではなく、記憶でもなく、言葉だけの手紙でもない。
本当に、ここにいる。
亮介も同じだった。
何度も想像した再会とは違う。
けれど、玲奈の店で働いている。
彼女が守ってきた場所の一部を、ほんの少しだけ任されている。
それは、抱きしめられるよりも重かった。
夕方、最後の黒糖プリンが出た。
観光客が笑顔で帰り、常連たちも席を立つ。
おばあが亮介に言った。
「あんた、また来るね?」
亮介は一瞬、玲奈を見た。
玲奈は目を逸らした。
「……来てもいいなら」
おばあはにやりと笑う。
「玲奈ちゃんが追い出さんかったら大丈夫さぁ」
玲奈は淡々と答える。
「勤務態度次第です」
「もう雇っとるさぁ!」
店内に最後の笑いが残った。
日が傾き、ようやく「しおかぜ」は静かになった。
カップの音だけが残る。
窓の外では、南ぬ島の夕暮れが海を淡く染めていた。
玲奈は亮介をちらりと見た。
「今日は、まだ閉店作業があります」
亮介は深く頷いた。
「手伝います」
「当然です」
少し沈黙。
言いたいことは山ほどあった。
なぜ今日だったのか。
なぜ連絡をしなかったのか。
門司ではどう暮らしていたのか。
本当にもう、嘘はないのか。
けれど、それは閉店作業の後でいい。
玲奈は視線を逸らしたまま、小さく言った。
「……話は、その後で」
亮介は、ようやく静かに笑った。
「はい」
南ぬ島の夕暮れが、窓の向こうで揺れていた。
何年も待った再会は、抱擁ではなく皿下げから始まった。
でも、それでよかった。
「しおかぜ」は、玲奈が待つために作った店だった。
そして今日からは、二人で動かす店になろうとしていた。
遅すぎた恋は、やはり黒糖プリンよりずっと手がかかりそうだった。




