海は門司まで続いている――玲奈、一番綺麗な皿を洗う
亮介からの葉書は、短かった。
門司港で働いている。
関門の海が見える港で、重い荷物を運んでいる。
給料は安く、誰も自分を信用していない。
でも、それでいい。
信用は言葉ではなく、毎日の汗で返すものだと知った。
それだけだった。
「……十分よ」
玲奈は、閉店後の「しおかぜ」で葉書を読み返し、小さく呟いた。
会いたいとも、待っていてほしいとも書いていない。
けれど、亮介は逃げていない。
それが分かっただけで、玲奈には十分だった。
次の定休日、玲奈はひとり平久保岬へ向かった。
石垣島の最北端。
市街地を離れるほど、空は広くなり、道端には赤いハイビスカスが揺れていた。草原の緑、白い灯台、そして東シナ海。夕暮れの海は、藍色と金色を混ぜたようにゆっくり光っていた。
玲奈は岬の先に立ち、潮風に黒髪をなびかせた。
「この海は、門司まで通じているのよね……」
少し間を置く。
「……当たり前か。海やし」
自分で言って、自分で少し笑った。
「誰も聞いてなくてよかったわ。元警部補が岬でひとりツッコミなんて、通報案件ではないけど、かなり不審です」
そう言ってから、また笑った。
亮介は今ごろ、門司の港で働いている。
重い荷物を持ち、汗をかき、昔の軽い言葉ではなく、毎日の労働で信用を積み直そうとしている。
玲奈は海を見つめた。
「私はここで黒糖プリンを作っている。みうちゃんは神戸で髪を切る練習。あなたは門司で荷物運び」
風が強く吹く。
「みんな別々の場所で、ちゃんと前に進んでいるのね」
待つことは、止まることではない。
玲奈は、少しずつそう思えるようになっていた。
亮介が帰ってこない未来も、あるかもしれない。
それでも「しおかぜ」は続く。
島の人が来る。観光客が来る。みうちゃんもいつか帰省する。
玲奈の人生は、亮介だけでできているわけではない。
でも。
「帰ってきたら、やっぱり嬉しいけどね」
その声は、海に消えるほど小さかった。
数日後。
閉店後の「しおかぜ」で、玲奈は棚の奥を開けた。
そこには一枚の皿があった。
白く薄い磁器で、縁に淡い青の線が入っている。石垣の海にも、神戸の港にも、門司の海にも少しだけ似た色だった。
亮介が帰ってきたら、黒糖プリンをこの皿で出す。
そう決めて買った皿だった。
玲奈はそれを取り出し、丁寧に洗った。
「この皿、使う日が来るのかな」
水音だけが返る。
「来ないかもしれないのよね」
少し沈黙。
「……いや、洗うくらいは自由でしょう。皿に罪はありません」
自分で言って、また少し笑った。
「重い女みたいね。帰ってくるか分からない男のために皿を磨くなんて」
さらに少し考える。
「いや、重いのは荷物を運んでる亮介の方か。門司港だけに」
言った直後、玲奈は顔をしかめた。
「……今のはなし。完全に不採用」
誰もいない店内で、ひとり照れている自分が少し可笑しかった。
皿を拭き、灯りにかざす。
傷ひとつない。
玲奈は小さく練習するように言った。
「黒糖プリン一点、ブレンド一点。以上で相違ありませんか」
すぐに頬が赤くなる。
「……練習してどうするのよ」
皿は棚の奥へ戻した。
でも、前より少し手前に置いた。
いつでも取り出せる場所に。
その夜、亮介の席を拭きながら、玲奈は静かに呟いた。
「門司港から石垣までは遠い。でも、海はつながっている」
少しだけ笑う。
「当たり前やけどね」
南ぬ島の夜風が、木製看板を揺らした。
「しおかぜ」は明日も開く。
そして棚の奥には、一番綺麗な皿が、まだ出番を待っている。




