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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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門司港から届いた短い葉書 ――みうちゃんの合格通知と、まだ会えない男の現在地

みうちゃんは、神戸へ戻った。


一度は折れかけた夢だった。

黒いモデル契約に巻き込まれ、警察で事情を聞かれ、神戸の街そのものが怖くなった。けれど、玲奈の言葉と、島の人たちの温かさと、クラスメイトから届いた「待ってるよ」の一言が、彼女をもう一度立たせた。


宮良美海は、再び美容専門学校の門をくぐった。


神戸の春は、石垣の春とは違う。

海風は少し冷たく、人の流れは速く、三宮の駅は相変わらず迷路のようだった。それでも、みうちゃんは少しずつ歩き方を覚えた。


迷ったら駅員に聞く。

知らない勧誘にはついていかない。

契約書は読んでから署名する。

泣きたくなったら泣いて、翌朝は学校へ行く。


全部、玲奈から教わったことだった。


やがて彼女は、繁忙日だけ純喫茶「霧笛」で働き始めた。


かつて玲奈が修行した店。

港に近い、少し古い純喫茶。

磨かれたカウンター、苦めのカラメルが効いた霧笛プリン、神戸訛りの女主人。


そこで、みうちゃんの明るい声が響くようになった。


「ご注文を確認します。ブレンド一点、霧笛プリン一点。以上で相違ありませんか?」


初めて聞いた常連は、しばらく固まった。


「……相違、ないです」


女主人はカウンターの奥で笑った。


「玲奈ちゃんの妹分やなあ」


それから、霧笛の常連たちは彼女をそう呼ぶようになった。


「妹分ちゃん、今日も確認きっちりやな」


「神戸に来ても島の声が残っとるねえ」


みうちゃんは照れながら笑った。


「玲奈さん仕込みです」


その話は、すぐに石垣へ届いた。


みうちゃん、よう働いとるよ。

少しずつ笑うようになってきた。

玲奈ちゃんの妹分として、うちの常連にも可愛がられとるわ。


霧笛の女主人からのメッセージを読んで、玲奈はカウンターの奥で手を止めた。


「そう」


店内には誰もいなかった。

だから、ほんの少しだけ笑った。


「しおかぜ」は相変わらず忙しかった。

黒糖プリンはよく売れ、常連のおばあたちは相変わらず勝手に水を出し、おじいは新聞を読みながら観光客に席を案内する。玲奈は何度も「お客様に手伝っていただくわけには」と言ったが、誰も聞かなかった。


「もう島のみんなの店さぁ」


そう言われると、返す言葉がなかった。


そんなある夜、みうちゃんから写真付きのメッセージが届いた。


玲奈さん、実技試験に初めて合格しました。

まだ下手だけど、先生に“手つきが優しい”って言われました。


写真には、練習用のウィッグと、少し照れたみうちゃんの顔が写っていた。

髪を切る手つきはまだぎこちない。けれど、表情には以前の明るさが少し戻っていた。


玲奈は、しばらく画面を見つめた。


石垣で赤ちゃんをあやしていた手。

黒糖プリンを運んでいた手。

詐欺に傷つき、震えていた手。

その手が今、誰かの髪を整えるために動き始めている。


玲奈は短く返信した。


合格おめでとう。

手つきが優しいのは、良い美容師の条件です。

引き続き確認を怠らないこと。


すぐに、みうちゃんから泣き笑いのスタンプが返ってきた。


続けて文字が届く。


玲奈さん、また“確認”ですね。

でも、相違ありません。頑張ります。


玲奈はスマートフォンを伏せ、静かに息を吐いた。


「よかった」


その一言だけだった。

けれど、その声はとても柔らかかった。


その数日後、郵便受けに一枚の葉書が入っていた。


差出人を見た瞬間、玲奈の指が止まった。


水野亮介。


数か月ぶりだった。


玲奈は、その葉書をすぐには読まなかった。

閉店作業を終え、カップを片づけ、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を整えた。


入口と窓の両方が見える席。

まだ帰らぬ亮介のために、毎日空けている席。


その前に座って、玲奈は葉書を裏返した。


文字は短かった。


今は、関門の海が見える港で働いています。

荷物は重く、給料は安く、誰も私を信用していません。

それでいいと思っています。

信用は、言葉ではなく、毎日の汗で返すものだと知りました。


それだけだった。


会いたいとも書いていない。

待っていてほしいとも書いていない。

いつ行くとも、どこで会えるとも書いていない。


けれど、玲奈には十分だった。


亮介は逃げていない。

言葉で人を包み込んでいた男が、いまは言葉を少なくして、重い荷物を運んでいる。

信用を口で取り戻そうとせず、汗で返そうとしている。


「門司かぁ……」


玲奈は小さく呟いた。


門司港。

関門海峡。

潮の速い海。

古い倉庫。

夜の貨物灯。

作業着姿で荷物を運ぶ亮介の姿を、玲奈は思い浮かべた。


きっと不器用に働いているのだろう。

昔のような軽い笑顔は通じない。

嘘も、調子のいい言葉も、港の荷物は軽くしてくれない。


それでいい。


そう思った瞬間、玲奈の胸が少しだけ温かくなった。


「みうちゃんは神戸で髪を切って、あなたは門司で荷物を運んでいる」


玲奈は葉書を亮介の席にそっと置いた。


「二人とも、私の知らないところで前へ進んでいるのね」


外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしていた。

店内には、黒糖プリンの甘い香りがかすかに残っている。


玲奈は葉書を指先でそっと撫でた。


「私はここで、黒糖プリンを作って待っています」


少し間を置く。


「でもね、亮介」


珍しく名前を呼んだ。

それだけで、少し頬が熱くなる。


「待つのは得意になったけど、待たされすぎるのは得意じゃないんだから」


誰もいない店内で、玲奈は少しだけ唇を尖らせた。


「ちゃんと働いているのは偉いです。そこは認めます。信用を汗で返すというのも、まあ、悪くありません」


まるで本人が目の前にいるように、淡々と評価する。


「でも、葉書が短すぎます。もう少し近況を書きなさい。食事はちゃんと取れているのか、寝る場所は大丈夫なのか、怪我はしていないのか、そういう重要事項が抜けています」


言ってから、玲奈は小さく笑った。


「……私、うるさい女みたいね」


しばらく黙る。

そして、声を少しだけ柔らかくした。


「それでも、嬉しかったわ。あなたがまだ、私に言葉を送ってくれたこと」


玲奈は亮介の席を丁寧に拭いた。


「門司港から石垣までは遠いけど、海はつながっているものね」


その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。


神戸でみうちゃんが夢を取り戻している。

門司で亮介が信用を取り戻そうとしている。

石垣で玲奈は、帰ってくる場所を守っている。


離れていても、少しずつ前へ進んでいる。


玲奈は灯りを落とす前に、もう一度だけ葉書を見た。


「次は、もう少し長い手紙にしてください」


それから、ほんの小さく付け足した。


「できれば、あなたの字で」


南ぬ島の夜は静かだった。


「しおかぜ」の灯りは、いつもより少しだけ温かく見えた。

黒糖プリンの甘さと、門司港から届いた短い言葉と、神戸で頑張るみうちゃんの笑顔が、玲奈の胸にゆっくり溶けていった。

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