門司港から届いた短い葉書 ――みうちゃんの合格通知と、まだ会えない男の現在地
みうちゃんは、神戸へ戻った。
一度は折れかけた夢だった。
黒いモデル契約に巻き込まれ、警察で事情を聞かれ、神戸の街そのものが怖くなった。けれど、玲奈の言葉と、島の人たちの温かさと、クラスメイトから届いた「待ってるよ」の一言が、彼女をもう一度立たせた。
宮良美海は、再び美容専門学校の門をくぐった。
神戸の春は、石垣の春とは違う。
海風は少し冷たく、人の流れは速く、三宮の駅は相変わらず迷路のようだった。それでも、みうちゃんは少しずつ歩き方を覚えた。
迷ったら駅員に聞く。
知らない勧誘にはついていかない。
契約書は読んでから署名する。
泣きたくなったら泣いて、翌朝は学校へ行く。
全部、玲奈から教わったことだった。
やがて彼女は、繁忙日だけ純喫茶「霧笛」で働き始めた。
かつて玲奈が修行した店。
港に近い、少し古い純喫茶。
磨かれたカウンター、苦めのカラメルが効いた霧笛プリン、神戸訛りの女主人。
そこで、みうちゃんの明るい声が響くようになった。
「ご注文を確認します。ブレンド一点、霧笛プリン一点。以上で相違ありませんか?」
初めて聞いた常連は、しばらく固まった。
「……相違、ないです」
女主人はカウンターの奥で笑った。
「玲奈ちゃんの妹分やなあ」
それから、霧笛の常連たちは彼女をそう呼ぶようになった。
「妹分ちゃん、今日も確認きっちりやな」
「神戸に来ても島の声が残っとるねえ」
みうちゃんは照れながら笑った。
「玲奈さん仕込みです」
その話は、すぐに石垣へ届いた。
みうちゃん、よう働いとるよ。
少しずつ笑うようになってきた。
玲奈ちゃんの妹分として、うちの常連にも可愛がられとるわ。
霧笛の女主人からのメッセージを読んで、玲奈はカウンターの奥で手を止めた。
「そう」
店内には誰もいなかった。
だから、ほんの少しだけ笑った。
「しおかぜ」は相変わらず忙しかった。
黒糖プリンはよく売れ、常連のおばあたちは相変わらず勝手に水を出し、おじいは新聞を読みながら観光客に席を案内する。玲奈は何度も「お客様に手伝っていただくわけには」と言ったが、誰も聞かなかった。
「もう島のみんなの店さぁ」
そう言われると、返す言葉がなかった。
そんなある夜、みうちゃんから写真付きのメッセージが届いた。
玲奈さん、実技試験に初めて合格しました。
まだ下手だけど、先生に“手つきが優しい”って言われました。
写真には、練習用のウィッグと、少し照れたみうちゃんの顔が写っていた。
髪を切る手つきはまだぎこちない。けれど、表情には以前の明るさが少し戻っていた。
玲奈は、しばらく画面を見つめた。
石垣で赤ちゃんをあやしていた手。
黒糖プリンを運んでいた手。
詐欺に傷つき、震えていた手。
その手が今、誰かの髪を整えるために動き始めている。
玲奈は短く返信した。
合格おめでとう。
手つきが優しいのは、良い美容師の条件です。
引き続き確認を怠らないこと。
すぐに、みうちゃんから泣き笑いのスタンプが返ってきた。
続けて文字が届く。
玲奈さん、また“確認”ですね。
でも、相違ありません。頑張ります。
玲奈はスマートフォンを伏せ、静かに息を吐いた。
「よかった」
その一言だけだった。
けれど、その声はとても柔らかかった。
その数日後、郵便受けに一枚の葉書が入っていた。
差出人を見た瞬間、玲奈の指が止まった。
水野亮介。
数か月ぶりだった。
玲奈は、その葉書をすぐには読まなかった。
閉店作業を終え、カップを片づけ、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を整えた。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日空けている席。
その前に座って、玲奈は葉書を裏返した。
文字は短かった。
今は、関門の海が見える港で働いています。
荷物は重く、給料は安く、誰も私を信用していません。
それでいいと思っています。
信用は、言葉ではなく、毎日の汗で返すものだと知りました。
それだけだった。
会いたいとも書いていない。
待っていてほしいとも書いていない。
いつ行くとも、どこで会えるとも書いていない。
けれど、玲奈には十分だった。
亮介は逃げていない。
言葉で人を包み込んでいた男が、いまは言葉を少なくして、重い荷物を運んでいる。
信用を口で取り戻そうとせず、汗で返そうとしている。
「門司かぁ……」
玲奈は小さく呟いた。
門司港。
関門海峡。
潮の速い海。
古い倉庫。
夜の貨物灯。
作業着姿で荷物を運ぶ亮介の姿を、玲奈は思い浮かべた。
きっと不器用に働いているのだろう。
昔のような軽い笑顔は通じない。
嘘も、調子のいい言葉も、港の荷物は軽くしてくれない。
それでいい。
そう思った瞬間、玲奈の胸が少しだけ温かくなった。
「みうちゃんは神戸で髪を切って、あなたは門司で荷物を運んでいる」
玲奈は葉書を亮介の席にそっと置いた。
「二人とも、私の知らないところで前へ進んでいるのね」
外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしていた。
店内には、黒糖プリンの甘い香りがかすかに残っている。
玲奈は葉書を指先でそっと撫でた。
「私はここで、黒糖プリンを作って待っています」
少し間を置く。
「でもね、亮介」
珍しく名前を呼んだ。
それだけで、少し頬が熱くなる。
「待つのは得意になったけど、待たされすぎるのは得意じゃないんだから」
誰もいない店内で、玲奈は少しだけ唇を尖らせた。
「ちゃんと働いているのは偉いです。そこは認めます。信用を汗で返すというのも、まあ、悪くありません」
まるで本人が目の前にいるように、淡々と評価する。
「でも、葉書が短すぎます。もう少し近況を書きなさい。食事はちゃんと取れているのか、寝る場所は大丈夫なのか、怪我はしていないのか、そういう重要事項が抜けています」
言ってから、玲奈は小さく笑った。
「……私、うるさい女みたいね」
しばらく黙る。
そして、声を少しだけ柔らかくした。
「それでも、嬉しかったわ。あなたがまだ、私に言葉を送ってくれたこと」
玲奈は亮介の席を丁寧に拭いた。
「門司港から石垣までは遠いけど、海はつながっているものね」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
神戸でみうちゃんが夢を取り戻している。
門司で亮介が信用を取り戻そうとしている。
石垣で玲奈は、帰ってくる場所を守っている。
離れていても、少しずつ前へ進んでいる。
玲奈は灯りを落とす前に、もう一度だけ葉書を見た。
「次は、もう少し長い手紙にしてください」
それから、ほんの小さく付け足した。
「できれば、あなたの字で」
南ぬ島の夜は静かだった。
「しおかぜ」の灯りは、いつもより少しだけ温かく見えた。
黒糖プリンの甘さと、門司港から届いた短い言葉と、神戸で頑張るみうちゃんの笑顔が、玲奈の胸にゆっくり溶けていった。




