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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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涙の調書、霧笛のカウンターにて ――冷徹なる美貌のボス、神戸で目を覚ます

大阪湾沖合の海上空港に降りた瞬間、玲奈は潮の匂いを感じた。


石垣の潮風とは違う。

少し重く、少し冷たく、鉄と油と港の記憶が混じった神戸の匂いだった。


玲奈は足を止めなかった。


アクセス鉄道で三宮へ向かい、人の流れを抜ける。観光でも帰省でもない。心配でも、怒りでもない。いま彼女を動かしているのは、もっと鋭いものだった。


守るべき子が、調書の向こう側にいる。


まず向かったのは、神戸港近くの純喫茶「霧笛」だった。


扉を開けると、いつものベルが鳴った。だが、店内の空気は重かった。女主人はカウンターの奥に立ち、玲奈を見るなり小さく息を吐いた。


「玲奈ちゃん……よう来たな」


神戸訛りの関西弁が、いつもより低い。


玲奈は席に座らず、まっすぐ尋ねた。


「状況を教えてください」


女主人は、コーヒーを出さなかった。

代わりに、メモをカウンターへ置いた。


美容モデル募集。

無料撮影。

登録料。

違約金。

友人紹介。

被害届。

任意聴取。


そして、みうちゃんの名前。


「かなり悪いんですか」


「悪いな。あの子が騙されたんは間違いないと思う。でもな、友達に紹介してしもてる。業者側の記録にも名前が残っとるらしい」


玲奈の目が細くなった。


「紹介者扱いですか」


「そうや。警察から見たら、ただの被害者で終わらん可能性がある」


霧笛の店内に、時計の音だけが響いた。


玲奈は静かに言った。


「会いに行きます」


「玲奈ちゃん」


女主人は、少しだけ心配そうに見た。


「詰めすぎたらあかんで。あの子、もう十分泣いとる」


玲奈は一瞬だけ黙った。


「分かっています」


だが、分かっていることと、できることは別だった。


みうちゃんと会えたのは、その日の夕方だった。


逮捕ではない。任意の事情聴取。

けれど、本人にとっては十分すぎるほど怖い時間だった。


小さな面会室に現れたみうちゃんは、目を真っ赤にしていた。髪も少し乱れている。いつも「しおかぜ」で明るく笑っていた島の少女は、すっかり怯えていた。


「玲奈さん……」


その声だけで泣き出しそうだった。


玲奈は抱きしめなかった。


本当は、そうしたかった。

だが、今それをすれば、この子を救うための事実が遠のく。


玲奈は椅子に座り、ノートを開いた。


「最初に声をかけられた日時は」


みうちゃんは、ぽかんとした。


「え……」


「場所。相手の性別、服装、名刺の有無、会話内容。順番に答えて」


「玲奈さん……?」


「撮影場所は。契約書に署名したのはいつ。登録料の説明を受けたのは署名前か後か。友人に紹介した時点で、違約金の説明は聞いていたの」


質問は正確だった。

だが、鋭すぎた。


みうちゃんの肩が震える。


「あの……玲奈さん……」


「答えて。思い出せる範囲でいい」


「怖いです」


玲奈の手が止まった。


みうちゃんは、涙をこぼしながら言った。


「警察の人より、玲奈さんの方が怖いです……」


その一言は、玲奈の胸に刺さった。


面会室の空気が、少しだけ緩む。

玲奈はゆっくり息を吐いた。


「……ごめんなさい」


みうちゃんが涙目で見上げる。


「助けに来たのに、取り調べになっていました」


「はい……かなり……」


「反省します」


「玲奈さんが反省って言うと、ちょっと怖いです」


「そこも反省します」


みうちゃんは泣きながら、ほんの少しだけ笑った。


その笑顔を見て、玲奈は初めて声を柔らかくした。


「みうちゃん。あなたは悪くない」


みうちゃんの顔がくしゃっと歪む。


「でも、みんなに迷惑かけました。友達にも紹介しちゃって……」


「善意を利用されたの。そこは間違えないで」


玲奈は静かに続ける。


「ただし、状況は悪いわ」


その言葉に、みうちゃんはまた固まった。


「あなたが友人に紹介した事実は残っている。業者側の記録にも名前がある。警察はそこを見る。だから、感情ではなく事実が必要です」


「私……どうしたら……」


玲奈はノートを閉じた。


「ここからは私が動きます」


声は低く、確かだった。


「泣くのは後。今は思い出せることを全部出しなさい。メッセージ、通話履歴、契約書、撮影場所、相手の名前。小さな違和感でもいい。全部」


みうちゃんは涙を拭いた。


「はい」


「相違ありませんか」


みうちゃんは、泣きながら笑った。


「相違……ありません」


その返事を聞いて、玲奈の目が変わった。


島カフェ「しおかぜ」の店主ではない。

黒糖プリンを仕込み、常連に固い注文確認をする玲奈でもない。


かつて兵庫県警警部補として現場を読み、NSTで冷徹なる美貌のボスと呼ばれた女が、数年ぶりに神戸で目を覚ました。


玲奈は立ち上がった。


「みうちゃん。今日はもう休みなさい」


「玲奈さんは?」


「霧笛に戻ります。資料を整理します」


「一人で、大丈夫ですか」


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


「こういう時の私は、かなり大丈夫です」


みうちゃんは小さく頷いた。


霧笛へ戻る頃、神戸の街には夜が降りていた。


港の灯りが滲み、三宮の人波が流れる。

玲奈はコートの襟を直し、霧笛の扉を開けた。


女主人がカウンターの奥から尋ねる。


「どうやった」


玲奈は静かに答えた。


「みうちゃんは悪くありません」


「そうか」


「でも、業者はかなり悪質です」


玲奈はカウンターにノートを置いた。


「潰します」


その一言に、女主人は何も言わず、濃いコーヒーを淹れた。


神戸の夜は冷たい。

だが、その夜の玲奈の瞳には、もっと冷たい火が灯っていた。

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