涙の調書、霧笛のカウンターにて ――冷徹なる美貌のボス、神戸で目を覚ます
大阪湾沖合の海上空港に降りた瞬間、玲奈は潮の匂いを感じた。
石垣の潮風とは違う。
少し重く、少し冷たく、鉄と油と港の記憶が混じった神戸の匂いだった。
玲奈は足を止めなかった。
アクセス鉄道で三宮へ向かい、人の流れを抜ける。観光でも帰省でもない。心配でも、怒りでもない。いま彼女を動かしているのは、もっと鋭いものだった。
守るべき子が、調書の向こう側にいる。
まず向かったのは、神戸港近くの純喫茶「霧笛」だった。
扉を開けると、いつものベルが鳴った。だが、店内の空気は重かった。女主人はカウンターの奥に立ち、玲奈を見るなり小さく息を吐いた。
「玲奈ちゃん……よう来たな」
神戸訛りの関西弁が、いつもより低い。
玲奈は席に座らず、まっすぐ尋ねた。
「状況を教えてください」
女主人は、コーヒーを出さなかった。
代わりに、メモをカウンターへ置いた。
美容モデル募集。
無料撮影。
登録料。
違約金。
友人紹介。
被害届。
任意聴取。
そして、みうちゃんの名前。
「かなり悪いんですか」
「悪いな。あの子が騙されたんは間違いないと思う。でもな、友達に紹介してしもてる。業者側の記録にも名前が残っとるらしい」
玲奈の目が細くなった。
「紹介者扱いですか」
「そうや。警察から見たら、ただの被害者で終わらん可能性がある」
霧笛の店内に、時計の音だけが響いた。
玲奈は静かに言った。
「会いに行きます」
「玲奈ちゃん」
女主人は、少しだけ心配そうに見た。
「詰めすぎたらあかんで。あの子、もう十分泣いとる」
玲奈は一瞬だけ黙った。
「分かっています」
だが、分かっていることと、できることは別だった。
みうちゃんと会えたのは、その日の夕方だった。
逮捕ではない。任意の事情聴取。
けれど、本人にとっては十分すぎるほど怖い時間だった。
小さな面会室に現れたみうちゃんは、目を真っ赤にしていた。髪も少し乱れている。いつも「しおかぜ」で明るく笑っていた島の少女は、すっかり怯えていた。
「玲奈さん……」
その声だけで泣き出しそうだった。
玲奈は抱きしめなかった。
本当は、そうしたかった。
だが、今それをすれば、この子を救うための事実が遠のく。
玲奈は椅子に座り、ノートを開いた。
「最初に声をかけられた日時は」
みうちゃんは、ぽかんとした。
「え……」
「場所。相手の性別、服装、名刺の有無、会話内容。順番に答えて」
「玲奈さん……?」
「撮影場所は。契約書に署名したのはいつ。登録料の説明を受けたのは署名前か後か。友人に紹介した時点で、違約金の説明は聞いていたの」
質問は正確だった。
だが、鋭すぎた。
みうちゃんの肩が震える。
「あの……玲奈さん……」
「答えて。思い出せる範囲でいい」
「怖いです」
玲奈の手が止まった。
みうちゃんは、涙をこぼしながら言った。
「警察の人より、玲奈さんの方が怖いです……」
その一言は、玲奈の胸に刺さった。
面会室の空気が、少しだけ緩む。
玲奈はゆっくり息を吐いた。
「……ごめんなさい」
みうちゃんが涙目で見上げる。
「助けに来たのに、取り調べになっていました」
「はい……かなり……」
「反省します」
「玲奈さんが反省って言うと、ちょっと怖いです」
「そこも反省します」
みうちゃんは泣きながら、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、玲奈は初めて声を柔らかくした。
「みうちゃん。あなたは悪くない」
みうちゃんの顔がくしゃっと歪む。
「でも、みんなに迷惑かけました。友達にも紹介しちゃって……」
「善意を利用されたの。そこは間違えないで」
玲奈は静かに続ける。
「ただし、状況は悪いわ」
その言葉に、みうちゃんはまた固まった。
「あなたが友人に紹介した事実は残っている。業者側の記録にも名前がある。警察はそこを見る。だから、感情ではなく事実が必要です」
「私……どうしたら……」
玲奈はノートを閉じた。
「ここからは私が動きます」
声は低く、確かだった。
「泣くのは後。今は思い出せることを全部出しなさい。メッセージ、通話履歴、契約書、撮影場所、相手の名前。小さな違和感でもいい。全部」
みうちゃんは涙を拭いた。
「はい」
「相違ありませんか」
みうちゃんは、泣きながら笑った。
「相違……ありません」
その返事を聞いて、玲奈の目が変わった。
島カフェ「しおかぜ」の店主ではない。
黒糖プリンを仕込み、常連に固い注文確認をする玲奈でもない。
かつて兵庫県警警部補として現場を読み、NSTで冷徹なる美貌のボスと呼ばれた女が、数年ぶりに神戸で目を覚ました。
玲奈は立ち上がった。
「みうちゃん。今日はもう休みなさい」
「玲奈さんは?」
「霧笛に戻ります。資料を整理します」
「一人で、大丈夫ですか」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
「こういう時の私は、かなり大丈夫です」
みうちゃんは小さく頷いた。
霧笛へ戻る頃、神戸の街には夜が降りていた。
港の灯りが滲み、三宮の人波が流れる。
玲奈はコートの襟を直し、霧笛の扉を開けた。
女主人がカウンターの奥から尋ねる。
「どうやった」
玲奈は静かに答えた。
「みうちゃんは悪くありません」
「そうか」
「でも、業者はかなり悪質です」
玲奈はカウンターにノートを置いた。
「潰します」
その一言に、女主人は何も言わず、濃いコーヒーを淹れた。
神戸の夜は冷たい。
だが、その夜の玲奈の瞳には、もっと冷たい火が灯っていた。




