黒い契約書は、島の少女を泣かせた ――泣き顔のみうちゃん、調書の向こう側へ
神戸の夜は、南ぬ島の夜より冷たい。
宮良美海――みうちゃんは、その冷たさをまだうまく受け止めきれていなかった。
美容専門学校に通い始めて数か月。三宮の人波にも少し慣れ、霧笛にも顔を出し、クラスメイトもできた。島の子らしい素朴さは残っていたが、それがむしろ彼女の魅力になっていた。
そんなある日、学校帰りの三宮で声をかけられた。
「美容学生さんですよね? ヘアメイク作品のモデル、興味ありませんか?」
清潔感のある若い女性スタッフ。名刺。事務所。整った契約書。
「無料撮影」「ポートフォリオ作成」「就職にも有利」「交通費程度の謝礼あり」。
美容師を目指すみうちゃんには、夢に近づく話に聞こえた。
最初の撮影は普通だった。
スタッフは優しく、写真も綺麗だった。
みうちゃんは嬉しくなり、同級生にも「いい経験になるかも」と話してしまう。
そこから、罠が開いた。
登録料。
事務手数料。
キャンセル違約金。
紹介実績。
学生支援制度という名の、高額請求。
被害届が出た時、業者側の記録には、みうちゃんの名前が残っていた。
紹介者。学生側連絡係。協力者。
本人に悪意はない。
だが、状況は悪かった。
取調室の蛍光灯は白すぎた。
「本当に知らなかったんですか」
「なぜ友人を紹介したんですか」
「報酬を受け取る予定は?」
みうちゃんは泣きながら首を振った。
「違います……私、そんなつもりじゃ……」
けれど、焦れば焦るほど言葉は崩れた。
かつて「しおかぜ」で明るく「相違ありませんか」と笑っていた少女が、今は本物の調書の向こう側に座っていた。
その夜、神戸港近くの純喫茶「霧笛」で、女主人は異変を知った。
約束の時間になっても、みうちゃんが来ない。
学校へ確認し、関係者に聞き、ようやく事情を掴んだ。
女主人は迷わず石垣へ電話した。
閉店後の「しおかぜ」。
玲奈は、亮介のために空けているカウンター端の席を拭いていた。
電話が鳴る。
「玲奈ちゃん、落ち着いて聞き」
神戸訛りの関西弁。
いつもの女主人の声ではなかった。
「みうちゃんがな、警察で事情聞かれとる」
玲奈の手が止まった。
「……どういうことですか」
「美容モデルの詐欺や。あの子、巻き込まれたみたいやねん。本人は悪ないと思う。でも、紹介した形になっとるらしい」
玲奈の目が変わった。
島カフェの店主の目ではなかった。
元兵庫県警警部補。
かつて冷徹なる美貌のボスと呼ばれた女の目だった。
「分かりました。神戸へ行きます」
その前に、玲奈はみうちゃんの実家へ向かった。
両親とおばあは、顔色を失っていた。
島の明るい家に、重い沈黙が落ちていた。
玲奈は深く頭を下げる。
「何かの間違いだと思います。ですが、とにかく神戸に行って、みうちゃん本人から話を聞いてきます」
みうちゃんの母は震える声で言った。
「玲奈さん……うちの美海を、お願いさぁ」
父も頭を下げた。
「あの子は悪いことする子じゃないです。どうか、どうかお願いします」
おばあは玲奈の手を握った。
「玲奈ちゃん、みうを助けてやって。あの子、都会のこと、まだ何も分からんさぁ」
玲奈は、その手を静かに握り返した。
「必ず、事実を確認します」
それは慰めではなかった。
約束だった。
翌朝、「しおかぜ」の入口には短い貼り紙が出た。
臨時休業
所用により神戸へ向かいます。
常連のおばあたちは、何も聞かなかった。
「玲奈ちゃん、行ってきなさい」
「みうちゃんを連れて帰るさぁ」
玲奈は小さく頷き、石垣空港へ向かった。
鞄には最低限の着替え。
スマートフォンには、県警時代の連絡先。
そして、みうちゃんから昔届いたメッセージ。
玲奈さん、神戸で頑張ります。以上で相違ありません。
玲奈は搭乗口でそれを見つめ、低く呟いた。
「相違があります。あなたは、まだ助けを求めていない」
飛行機が南ぬ島を離れる。
青い海が遠ざかる。
その先にあるのは、神戸。
玲奈が生まれ、傷つき、戦ってきた街。
彼女は目を閉じなかった。
みうちゃんを救う。
黒いモデル契約の裏側を暴く。
そして、善意を食い物にする者たちに、きっちり代償を払わせる。
玲奈の横顔は静かだった。
だが、その静けさの奥で、冷たい火が灯っていた。




