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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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手紙の来ない月、黒糖プリンだけが売れていく ――しおかぜは、島のみんなの店になった

みうちゃんが神戸へ行ってから、「しおかぜ」は少し静かになった。


客が減ったわけではない。

むしろ、黒糖プリンが小さな賞を取ってから、店は前より忙しくなっていた。平久保岬へ向かう観光客、島の常連、噂を聞いて来る若い夫婦。昼前からカウンターは埋まり、午後には黒糖プリンが売り切れる日もある。


それでも、店のどこかに空白があった。


「ご注文を確認します。以上で相違ありませんか?」


あの明るい声がない。


初めての観光客を一瞬ぽかんとさせ、常連のおばあたちを笑わせた、宮良美海――みうちゃんの声。玲奈は忙しい昼に何度か、無意識に「みうちゃん」と呼びそうになった。


そのたびに、カウンターの奥で少しだけ手が止まる。


みうちゃんとは、神戸へ行ってからも定期的に連絡を取っていた。


最初の頃、届くメッセージは、少し泣き声まじりだった。


玲奈さん、神戸の子たち、みんな垢抜けすぎです。

私だけ島の子って感じで、ちょっと帰りたいです。


玲奈は閉店後、カウンターに腰かけて返信した。


島の子であることは弱点ではありません。

あなたは、あなたのままでいい。

ただし、授業には行きなさい。


すぐに、泣き笑いのスタンプが返ってきた。


数日後には、また別のメッセージが来た。


今日、霧笛に行きました。女主人さんが、玲奈さんは昔から目つきが鋭かったけど根は優しいって言ってました。


玲奈は小さく眉を寄せた。


余計な情報です。


また泣き笑いのスタンプが返ってきた。


やがて、みうちゃんの言葉は少しずつ変わっていった。


初めて美容用ハサミを持ちました。手が震えました。

三宮で迷わず乗り換えできました。成長です。

島の話をしたら、クラスの子が石垣に行きたいって言ってくれました。

玲奈さん、今日、友達ができました。


その最後の一文を読んだ時、玲奈は珍しく笑った。


神戸で少しずつ足場を作っていくみうちゃん。

泣きながらでも授業へ行き、失敗しながら友達を作り、島の匂いを抱えたまま都会に馴染もうとしている。


その姿は、玲奈にとって励みだった。


一方で、亮介からの手紙は来なかった。


仮釈放されたという連絡はあった。

けれど、その後の消息は分からない。


最後の手紙には、こう書かれていた。


真人間になって、周囲に少しでも認められるようになってから、あなたに会いに行きます。


それきりだった。


玲奈は待った。

待ちながら、店を開けた。


朝、黒糖プリンを仕込む。

カラメルを焦がしすぎないよう火を見つめる。

コーヒー豆を挽く。

入口の看板を出す。

亮介の席を拭く。


そして客を迎える。


皮肉なことに、「しおかぜ」は忙しかった。

玲奈の心の奥が少し空いている日ほど、黒糖プリンはよく売れた。


「玲奈ちゃん、今日も売り切れそうさぁ」


常連のおばあが笑う。


「在庫には限りがあります」


「そういう時は、うちらが手伝うさぁ」


最初は冗談かと思った。

だが、繁忙日になると、本当に常連たちは自然に動き始めた。


おばあが水を出す。

おじいが空いた皿を下げる。

近所の若者が観光客に「こっちの席が空いてるさぁ」と声をかける。

八重山そば屋のおばあは、忙しい玲奈に差し入れのジューシーおにぎりを持ってくる。


玲奈は何度も止めた。


「お客様に手伝っていただくわけにはいきません」


おばあは笑った。


「もう、うちら半分スタッフさぁ」


おじいも新聞を畳んで言う。


「給料は黒糖プリンでええよ」


「それは労務管理上、問題があります」


「また固いさぁ」


店内に笑いが広がった。


いつの間にか、「しおかぜ」は玲奈ひとりの店ではなくなっていた。


みうちゃんがいた頃は、玲奈とみうちゃんの店だった。

今は、島のみんなが少しずつ手を貸す店になっていた。


誰かが水を出す。

誰かが席を譲る。

誰かが観光客に道を教える。

誰かが「黒糖プリンは早めに頼むといいさぁ」と余計な営業までしてくれる。


玲奈は困った顔をしながらも、心の奥では救われていた。


一人ではなかった。


ある夜、閉店後の「しおかぜ」は静かだった。


昼間の賑わいが引いたあと、店には黒糖の甘い香りと、磨かれたカップの静けさだけが残っている。


玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。

まだ帰らぬ亮介のために空けている席。


そこへ向かって、静かに呟いた。


「しおかぜは、島のみんなによって運営される店になりました」


返事はない。


「みうちゃんは神戸で頑張っています。最初は泣いていたけど、今は友達もできたみたい。三宮で迷わず乗り換えられたって、得意げに報告してきました」


玲奈は少しだけ笑った。


「あなたが今、どこで何をしているかは分かりませんが……私は元気です」


言葉にしてから、少しだけ胸が痛んだ。


元気です。

それは嘘ではない。


店は忙しい。

常連は優しい。

みうちゃんは頑張っている。

黒糖プリンは今日も褒められた。


けれど、本当は手紙を待っている。

郵便受けを見るたび、亮介の名前を探している。

夜、席を拭くたび、いつかここに座る男の姿を思い浮かべている。


玲奈は亮介の席をもう一度だけ拭いた。


「だから、急がなくていいわ。でも……忘れないで」


外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしていた。


「しおかぜ」は明日も開く。

亮介がまだ帰らなくても。

みうちゃんが神戸で泣いたり笑ったりしていても。

島のみんなが、勝手に水を出して笑ってくれる限り。


玲奈は灯りを落とす前に、店内を見渡した。


みうちゃんの声はもうない。

亮介の席はまだ空いている。

けれど、この店には、誰かが帰ってきたくなる温度がある。


それだけは、確かだった。

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