みうちゃんのエプロンが空いた日 ――三月のしおかぜ、黒糖プリンと小さな卒業式
三月の南ぬ島には、春より先に別れが来る。
海は相変わらず青く、風も本土ほど冷たくない。けれど、島の高校を卒業する若者たちの足元には、どこか落ち着かない影が差していた。進学で那覇へ行く者、本土へ渡る者、島に残って働く者。それぞれが、いつもの道を歩きながら、少しずつ違う場所へ向かい始めている。
島カフェ「しおかぜ」にも、その日が来た。
宮良美海――みうちゃんの、最後の勤務日だった。
「いらっしゃいませ!」
いつも通りの明るい声が、店内に響いた。
みうちゃんは白いエプロンをきゅっと結び、黒糖プリンを運び、水を出し、常連のおばあに笑いかける。
「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、ブレンド一点、さんぴん茶一点。以上で相違ありませんか?」
観光客の夫婦が一瞬きょとんとし、すぐに笑った。
「相違ありません」
カウンター席のおじいが新聞を畳む。
「みうちゃんの調書も今日で最後かねえ」
おばあが続ける。
「神戸行っても言うんよ。“カット三センチ、以上で相違ありませんか”って」
みうちゃんは顔を赤くして笑う。
「美容室でそれ言ったら、絶対変な子だと思われますよ!」
玲奈はカウンターの奥から淡々と言った。
「施術前の確認としては有効です」
「玲奈さんまで!」
店内に笑いが広がった。
いつも通りだった。
けれど、いつも通りだからこそ寂しかった。
みうちゃんは、最後の日を楽しもうとしていた。観光客には神戸へ進学することを少し照れながら話し、常連には「帰省したらまた来ます」と笑った。けれど、ふと皿を下げる手が止まったり、空になったテーブルを拭きながら窓の外を見たりする。その横顔は、もうただのアルバイトの女子高生ではなかった。
島を出る前の、少し大人びた少女の顔だった。
夕方、最後の客が帰ると、「しおかぜ」は静かになった。
玲奈はカウンターに黒糖プリンを二つ並べた。
小さなクッキーと、温かいさんぴん茶も添える。
「みうちゃん。送別会です」
「二人だけですか?」
「ええ。正式な式典ではありません」
「玲奈さん、言い方が卒業証書授与式みたいです」
みうちゃんは笑いながら席に座った。
だが、黒糖プリンを前にすると、もう目が潤んでいた。
「玲奈さん……私、本当に神戸に行くんですね」
「行くのよ。自分で決めたことでしょう」
「はい。でも、今日になったら急に寂しくなって」
玲奈は少し黙った。
そして珍しく、自分の話を少しだけした。
神戸で生まれたこと。
途中から丹波篠山で暮らしたこと。
警察官になった理由。
人前に立つのが苦手だったのに、県警のカラーガード隊や戦隊ヒロインとして舞台に立つことになったこと。
全部ではない。
本当に一部だけだった。
けれど、島でのんびり育ってきたみうちゃんには、それだけでも十分に刺激が強かった。
「玲奈さん……そんなことがあったんですか」
みうちゃんの涙がぽろぽろ落ちる。
玲奈は、少し困った顔をした。
「最後の日に泣かせるつもりではありませんでした。ごめんね」
「違います。私、玲奈さんのこと、分かってたつもりで全然知らなかったんだなって」
「人は、全部話さなくても生きていけます」
「でも、少し話してくれて嬉しいです」
その言葉に、玲奈は少しだけ目を伏せた。
そして、空気を変えるように咳払いをした。
「では、私の失敗談も話します」
みうちゃんが涙目のまま顔を上げる。
「失敗談?」
「警察官時代、式典で敬礼のタイミングを間違え、誰も敬礼していない場面で一人だけ非常に凛々しく敬礼しました」
みうちゃんが吹き出した。
「玲奈さんが?」
「ええ。しかも新聞社のカメラがちょうどこちらを向いていました」
「それ、写真残ってるんですか?」
「残っています。封印指定です」
みうちゃんは涙を拭きながら笑った。
玲奈は続ける。
「カラーガード隊時代には、旗を格好よく振ったつもりが、後ろの隊員の帽子を飛ばしました」
「ええっ!」
「その帽子が来賓席の手前まで転がりました。私は何事もなかったように演技を続行しました」
「プロ根性すごいです!」
「内心は非常に焦っていました」
さらに玲奈は、珍しく少し口元を緩めた。
「戦隊ヒロイン時代には、後輩に厳しく注意していたら、マイクの電源が入ったままで、観客席まで全部聞こえていました」
「怖すぎます!」
「その後、なぜか観客から拍手が起きました」
「玲奈さんの説教、名物だったんですね」
「不本意です」
みうちゃんは笑いすぎて、また少し泣いた。
でも今度の涙は、寂しさだけではなかった。
「玲奈さん、私、神戸で頑張ります」
「ええ」
「失敗したら、ちゃんと報告します。隠しません」
「それは大事です」
「泣きたくなったら、泣いてから寝ます」
「翌朝、学校へ行きなさい」
「はい」
みうちゃんは立ち上がり、エプロンの紐をほどいた。
丁寧に畳み、玲奈へ差し出す。
「これ、返します」
玲奈は受け取らなかった。
「持っていきなさい」
「えっ」
「しおかぜ卒業記念です。神戸で不安になった時、これを見て思い出しなさい。あなたはここで働いて、ちゃんと人の役に立っていました」
みうちゃんの顔がくしゃっと歪んだ。
「玲奈さん……」
「ただし、神戸の美容専門学校で“相違ありませんか”を多用しすぎないこと」
「そこですか?」
「そこです」
みうちゃんは泣きながら笑った。
「はい。以上で、相違ありません」
二人だけの小さな卒業式は、黒糖プリンの甘い香りの中で終わった。
みうちゃんが帰ったあと、「しおかぜ」は急に広くなった。
玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、椅子を戻した。
いつもなら、その途中でみうちゃんの声がした。
「玲奈さん、これどこ置きますか?」
「玲奈さん、神戸の美容室っておしゃれですか?」
「玲奈さん、今日の私の注文確認、完璧でした?」
もう聞こえない。
玲奈はカウンター端の席を拭いた。
まだ帰らぬ亮介のために空けている席。
「みうちゃんが、しおかぜを卒業しました」
誰もいない席へ、静かに報告する。
「ここから巣立って、大きく羽ばたいてくれるのは嬉しい。嬉しいんだけど……寂しいものです」
玲奈は少しだけ唇を尖らせた。
「でも、島の人たちが来てくれるし、黒糖プリンも作らなきゃいけないし、私は忙しいから。寂しくなんかないんだから」
言ってから、自分で苦笑した。
まるで子どものような強がりだった。
玲奈らしくない。
けれど、今夜だけは仕方なかった。
本当は寂しい。
みうちゃんはいない。
亮介もまだ帰ってこない。
明日の朝、あの明るい「相違ありませんか」は響かない。
玲奈は、みうちゃんが置いていった予備のメモ帳を見つけた。
そこには丸い字でこう書かれていた。
玲奈さんへ
しおかぜ、大好きです。
神戸で頑張ってきます。
帰ってきたら、黒糖プリン食べます。
以上で相違ありません。
みう
玲奈の美しいアーモンドアイが、少し潤んだ。
「……相違ありません」
小さく返事をする。
そして亮介の席に手を置いた。
「だから、あなたもちゃんと帰ってきて。私、送り出すのは得意になってきたけど、迎える方はまだ練習中なんだから」
南ぬ島の夜風が、木製看板を揺らした。
しおかぜには、畳まれなかったエプロンの余韻と、黒糖プリンの甘い香りと、少女が巣立ったあとの少し広すぎる静けさが残っていた。




