南十字星の下、みうちゃんは神戸へ行く ――しおかぜ店主、送り出す寂しさと待つ女の涙
閉店後の「しおかぜ」は、昼間よりも少しだけ海に近くなる。
客の笑い声が消え、カップを洗う音も止み、黒糖プリンの甘い香りだけが、店の奥に静かに残る。玲奈は最後のグラスを棚に戻し、軒先へ出た。
宮良美海――みうちゃんも、エプロンを畳んで隣に立つ。
「玲奈さん、星、すごいですね」
南ぬ島の夜空は、言葉を少なくする。
街灯の少ない空には、星がこぼれるように広がっていた。低い南の空には、淡く南十字星が見える。
みうちゃんはしばらく黙って空を見上げていた。
やがて、少し緊張した声で言った。
「玲奈さん。私、決めました」
「進路?」
「はい。高校を卒業したら、神戸の美容専門学校に行きます」
玲奈は、すぐには返事をしなかった。
神戸。
その響きだけで、胸の奥に潮風が吹く。
生まれ育った街。
警察官として走った街。
純喫茶「霧笛」がある街。
失ったものも、育ててもらったものも、全部残っている街。
「神戸に、行くのね」
「はい」
みうちゃんは、少し照れたように笑った。
「一人旅で行って、すごく好きになりました。港も、坂道も、霧笛も。あと……玲奈さんの出身地で腕を磨きたいんです」
玲奈の目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「それは……少し嬉しいわね」
「ほんとですか?」
「ええ。神戸を選んでくれて、嬉しい」
みうちゃんはぱっと顔を明るくした。
「私、島に戻って美容室を開きたいです。でも、その前に外を見たい。都会で勉強したい。神戸で、ちゃんと頑張ってみたいです」
「いい選択だと思うわ」
玲奈の声は淡々としていた。
けれど、その淡さの奥には、確かな温かさがあった。
みうちゃんは夜空を見上げたまま、少しだけ声を落とす。
「楽しみなんです。でも、怖いです。島を出るのも、家族と離れるのも、友達と離れるのも。玲奈さんとも、しおかぜとも離れるのも……寂しいです」
玲奈は、しばらく黙って星を見ていた。
「寂しくない旅立ちは、たぶん薄いわ」
「薄い?」
「大事なものがあるから、離れる時に寂しくなる。寂しいと思えるなら、ここでちゃんと暮らしてきた証拠よ」
みうちゃんは黙った。
玲奈は続ける。
「神戸へ行きなさい。迷ったら、霧笛へ行けばいい。困ったら連絡しなさい。泣きたくなったら、泣いてから寝なさい。翌朝、学校へ行けばいい」
「玲奈さん……優しいのに、言い方が厳しいです」
「甘やかすのは不得意です」
「知ってます」
みうちゃんは泣きそうに笑った。
玲奈は、ほんの少しだけ目尻を下げる。
「みうちゃんは大丈夫。相違ありませんか、って言える子は、どこへ行っても確認できる」
「それ、褒めてます?」
「褒めています」
みうちゃんの目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます。私、神戸で頑張ります」
南十字星は、静かに二人を見下ろしていた。
南ぬ島の少女は、神戸へ行く。
玲奈は、それを誇らしく思いながら、同じくらい寂しいと思った。
みうちゃんが帰ったあと、「しおかぜ」は完全に静かになった。
玲奈はいつものように、カウンター端の席を丁寧に拭いた。
まだ帰らぬ亮介のために空けている席。
「みうちゃんの夢を応援してあげたいけど……別れはつらいね」
誰もいない席へ、そう呟いた。
その時、郵便物の中に一通の手紙があることを思い出した。
差出人は、水野亮介。
玲奈は椅子に座り、ゆっくり封を切った。
手紙には、出所の日が近づいていることが書かれていた。
玲奈は息を止めるように読み進めた。
けれど、最後の方で、亮介の文字は少しだけ乱れていた。
出れば、自由にはなります。
けれど、自由になっただけでは、あなたの前に立てる男にはなれません。
まだ、胸を張って真人間ですとは言えません。
もう少し、自分の足で生活し、嘘をつかずに働いてから、あなたの店へ向かいたい。
それまで、待っていてくれますか。
玲奈の手が止まった。
待っていた。
ずっと待っていた。
出所すれば、会えると思っていた。
この席に、ようやく彼が座るのだと思っていた。
けれど、亮介はまだ来ないと言っている。
それは正しい。
玲奈にも分かる。
彼が逃げていないことも、軽い気持ちで戻ろうとしていないことも、分かる。
それでも、胸は痛かった。
玲奈の美しいアーモンドアイから、大粒の涙がこぼれた。
「……また待つのね」
声が震えた。
「分かってる。あなたが考えていることも、ちゃんとやり直そうとしていることも。分かってるのに……」
手紙の文字が涙で滲む。
「寂しいわ」
それは、誰にも見せない本音だった。
みうちゃんは神戸へ行く。
亮介はまだ帰ってこない。
「しおかぜ」には、少し広い静けさが残る。
玲奈は手紙を胸に当てた。
「待つわ。もう少しだけ」
涙を拭きながら、亮介の席へ手紙をそっと置く。
「でも、次に会う時は……ちゃんと帰ってきて」
南ぬ島の夜は、星だけが明るかった。
「しおかぜ」の灯りは、まだ消えない。
少女の旅立ちと、男の帰りを待つために。
玲奈は明日も、黒糖プリンを仕込み、カウンター端の席を拭く。




