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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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黒糖プリンと小さな泣き声 ――みうちゃん、しおかぜ最年少のお客様をあやす

南ぬ島の午後は、ゆっくりと甘い。


島カフェ「しおかぜ」の窓辺には、やわらかな光が差し込み、カウンターには深煎りコーヒーの香りが漂っていた。冷蔵ケースには、今日の黒糖プリンがきれいに並んでいる。


玲奈はいつものように、静かにカップを磨いていた。

みうちゃんはテーブルを拭きながら、鼻歌まじりに入口の方を見ている。


その時、若い夫婦が赤ちゃんを抱いて入ってきた。


「いらっしゃいませ」


玲奈が水を用意すると、みうちゃんの表情がぱっと明るくなる。


「赤ちゃん……!」


夫婦は少し恐縮した様子だった。母親はまだ若く、どこか疲れた顔をしている。父親も慣れない育児に緊張しているようで、抱っこ紐を何度も直していた。


「黒糖プリン、食べてみたくて来たんですけど……赤ちゃん、大丈夫ですか?」


母親が遠慮がちに聞いた。


玲奈は淡々と答える。


「問題ありません。ここは赤ちゃんが泣いたという理由で退店を求める店ではありません」


言い方は少し硬かったが、意味は優しかった。


夫婦はほっとして席に着いた。

しかし、注文を取る前に赤ちゃんが泣き出した。


最初は小さな声だった。

それが次第に大きくなる。


母親は慌てて立ち上がろうとする。


「すみません、外に出ます」


玲奈が静かに止めた。


「急がなくて大丈夫です」


そこへ、みうちゃんがそっと近づいた。


「少し、あやしてもいいですか?」


母親が驚いて顔を上げる。


「えっ、いいんですか?」


「はい。私、親戚の赤ちゃんをよく見てるんです。抱っこ、慣れてます」


みうちゃんは、いつもの明るい顔ではなく、少しお姉さんの顔になっていた。


赤ちゃんを受け取る手つきは意外なほど自然だった。

肩に寄せ、背中を軽くぽんぽんと叩き、ゆっくり揺らす。


「はいはい、大丈夫だよー。ここ、涼しいよー。プリンの匂いするねー」


小さな鼻歌。

島の子守唄のような、柔らかい調子。


泣いていた赤ちゃんは、少しずつ声を弱めた。

やがて、みうちゃんの指を握って、じっと顔を見つめる。


「玲奈さん、握ってくれました!」


みうちゃんが小声で嬉しそうに言う。


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


「好意的反応ですね」


「言い方、硬いです」


常連のおばあが笑う。


「みうちゃん、保育士さんにも向いてるさぁ」


母親は、ようやく椅子に座った。

玲奈は静かに黒糖プリンと温かい飲み物を置く。


「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、ブレンド一点、さんぴん茶一点。以上で相違ありませんか」


父親が一瞬きょとんとする。

母親は疲れた顔のまま、少し笑った。


「相違ありません」


その一口目で、母親の目が潤んだ。


「外で、こんなふうに落ち着いて食べられたの、久しぶりです」


玲奈は短く答える。


「ここは休むための店です。育児中でも、それは変わりません」


母親は何度も頷いた。


赤ちゃんは、みうちゃんの腕の中で眠りかけていた。

みうちゃんは誇らしげで、少しだけ大人びて見えた。


「赤ちゃん、可愛いです。泣いてても可愛いです」


玲奈は不思議そうに見ていた。


自分は、赤ちゃんをあやすタイプではない。

少なくとも、そう思っていた。

けれど、みうちゃんに抱かれて安心している小さな命を見ていると、胸の奥が少しだけ柔らかくなった。


若い夫婦は、帰り際に深く頭を下げた。


「また来てもいいですか?」


玲奈は迷わず答えた。


「もちろんです」


みうちゃんは手を振った。


「次も抱っこさせてくださいね!」


赤ちゃんは眠そうな顔で、小さな手を少し動かした。

それだけで、みうちゃんは大喜びだった。


夜。


閉店後の「しおかぜ」は静かだった。


玲奈はカップを片づけ、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。

まだ帰らぬ亮介のための席。


昼間の小さな泣き声。

みうちゃんの鼻歌。

母親のほっとした笑顔。


それらが、店の奥にまだ少し残っている気がした。


玲奈は誰もいない席へ向かって、小さく呟いた。


「今日は、赤ちゃんが来たわ」


少し間を置く。


「みうちゃん、あやすのが上手だった。私は、ああいうのは得意じゃないと思っていたけど……」


玲奈は自分でも驚くほど柔らかい声で言った。


「赤ちゃん、可愛いかも」


言ってから、少し照れたように視線を落とす。


そして、さらに小さな声で続けた。


「私とあなたの子供って……どんな風になるのかな」


店内に返事はない。

外では南ぬ島の夜風が、木製看板を揺らしている。


「私には……似て欲しくないな。目つきが鋭くなりそうだし、注文確認まで調書みたいになったら困るもの」


少しだけ笑う。


「でも、あなたに似たら……」


玲奈はそこで言葉を止めた。


亮介に似たら。

人懐っこく、口がうまく、どこか危なっかしくて、放っておけない子になるのだろうか。


「……それはそれで、どうなっちゃうのかな」


玲奈は頬にかかった髪を耳にかけた。

その仕草は、元警察官でも、冷徹なる美貌のボスでもない。

ただ、まだ帰らぬ男を想う一人の女だった。


「あなたが帰ってきたら、今日の話をするわ。みうちゃんが赤ちゃんをあやして、私は少しだけ羨ましくなったって」


玲奈は亮介の席をもう一度だけ丁寧に拭いた。


「しおかぜ」は、今日も誰かを休ませた。

若い夫婦も、泣いていた赤ちゃんも、そして少しだけ未来を夢見た玲奈自身も。


南ぬ島の夜は、静かで甘かった。

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