海風に消えた老犬を探して ――しおかぜ捜索隊、夕暮れの集落を走る
島カフェ「しおかぜ」の定休日は、いつもより静かだった。
木製の看板は店内にしまわれ、カウンターには洗い終えたカップが伏せられている。黒糖プリンの仕込みも最低限だけ。玲奈は午前中に帳簿を片づけ、午後は少しだけ本を読むつもりだった。
そこへ、店の裏口を叩く音がした。
「玲奈ちゃん……」
立っていたのは、常連のおばあだった。いつもなら黒糖プリンを前にして冗談を言う人なのに、その日は顔が青ざめていた。
「どうしました」
「ポチが……いなくなったさぁ」
ポチは、おばあが長年連れ添っている柴犬だった。もう年を取っていて、耳も遠い。歩くのもゆっくりで、遠くへ行く犬ではなかった。おばあにとっては、家族そのものだった。
玲奈の表情が変わった。
「最後に見た時間は?」
「昼前。庭で寝てた。ちょっと洗濯物を取り込んで、戻ったらいなくて……」
「首輪は?」
「してる。赤いやつ」
「好きな場所は」
「浜の方。若い頃、よく連れて行ったさぁ。あと、干物の匂いが好きでねえ」
玲奈はすぐに店の奥へ声をかけた。
「みうちゃん」
ちょうど進路相談の書類を持って遊びに来ていた宮良美海――みうちゃんが顔を出す。
「はい、玲奈さん」
「捜索します」
「えっ、今からですか?」
「今からです。老犬は体力がありません。日没までに見つけます」
その声に、みうちゃんは背筋を伸ばした。
玲奈は紙に地図を描き、最後に見た場所、犬の年齢、歩く速度、風向き、好きな匂い、過去の散歩コースを素早く整理した。
「浜へ向かった可能性が高い。ただし、耳が遠いなら呼び声だけでは反応しにくい。みうちゃんは集落の子どもたちに声をかけて。赤い首輪の柴犬。走らず、見つけても追わないように伝えて」
「了解です!」
みうちゃんは駆け出した。普段はのんびりした島の娘なのに、玲奈の勢いに押されると不思議と足が速くなる。
玲奈はおばあに向き直る。
「おばあは家にいてください。ポチが戻ってくる可能性もあります」
「でも……」
「戻った時、迎える人が必要です」
その一言に、おばあは唇を噛んで頷いた。
捜索は、夕方の集落を巻き込んだ。
みうちゃんは子どもたちに声をかけ、近所の若者に頼み、浜へ続く道、畑の脇、古い倉庫の裏を確認していく。玲奈は足跡や草の倒れ方、地面の湿り、犬が通れそうな隙間を見て歩いた。
「玲奈さん、こっちはいません!」
「次、舟小屋の方。風が海から来ている。匂いを追ったなら、そちらへ行く可能性があります」
「はい!」
夕暮れが近づく。
空が少しずつ橙色になり、海風が冷たくなる。おばあの顔が、みうちゃんの頭に浮かぶ。
「ポチ、どこ……」
みうちゃんが浜辺近くの古い舟小屋へ向かった時、小さな音がした。
かさり。
壊れた木箱の陰。
そこに、赤い首輪が見えた。
「ポチ!」
みうちゃんは叫びそうになって、玲奈の言葉を思い出し、声を抑えた。
「ポチ、怖くないよ。みうだよ」
柴犬は、丸くなって震えていた。疲れて動けなくなっていたらしい。みうちゃんはゆっくり近づき、膝をついて、そっと抱きかかえた。
温かい。
生きている。
その瞬間、みうちゃんの目から涙がこぼれた。
「よかった……ほんとによかった……」
玲奈が追いつき、ポチの状態を確認する。
「大きな怪我はなさそう。すぐ戻りましょう」
おばあの家へ戻ると、おばあは玄関先で待っていた。みうちゃんの腕の中のポチを見た瞬間、崩れるように座り込んだ。
「ポチ……!」
おばあは老犬を抱きしめ、何度も何度も礼を言った。
「玲奈ちゃん、みうちゃん、本当にありがとう。もう会えんかと思ったさぁ」
みうちゃんは涙を拭きながら笑った。
「見つかってよかったです。ほんとに、ほんとによかったです」
おばあに感謝されるみうちゃんの顔は、誇らしさと安堵でいっぱいだった。
帰り道、夕暮れの中を玲奈とみうちゃんは並んで歩いた。
「みうちゃん」
「はい」
「戦隊ヒロイン、向いているかもね」
みうちゃんは目を丸くした。
「えっ、私がですか?」
玲奈はほんの少し目尻を下げた。
「人のために走れる。泣ける。最後まで諦めない。大事な資質です」
みうちゃんは照れて、けれど嬉しそうに笑った。
「でも私、運動そんなに得意じゃないですよ」
「体力は鍛えればいいわ」
「玲奈さん、急に本気でスカウトしないでください」
二人は少し笑った。
その夜、定休日の「しおかぜ」は誰もいなかった。
玲奈は店内の灯りを少しだけつけ、カウンター端の席を丁寧に拭いた。まだ帰らぬ亮介のために空けている席だった。
外では、夜の海風が看板を揺らしている。
玲奈は誰もいない席に向かって、静かに呟いた。
「今日は良いことをしました」
返事はない。
「おばあのポチが迷子になってね。みうちゃんが見つけたの。泣きながら抱きかかえて……あの子、本当にいい子やわ」
玲奈は少しだけ微笑んだ。
「私一人では、あんなふうに喜べなかったかもしれない。みうちゃんがいてくれて、よかった」
黒糖プリンの甘い香りはない。定休日の店は、いつもより少し素顔に近い。
「あなたが帰ってきたら、この店には小さな相棒がいるって紹介するわ」
玲奈は亮介の席をもう一度だけ撫でるように拭いた。
「しおかぜ」は、今日も誰かの帰り道を守った。
迷い犬も、泣きそうなおばあも、少し大人になったみうちゃんも。
そして玲奈は、まだ帰らぬ男のために、明日もこの店の灯りをともす。




