帰る街、待つ島――玲奈、神戸の潮風にもう一度吹かれる
みうちゃんの神戸ひとり旅の話を聞いてから、玲奈の胸には、ずっと小さな波が立っていた。
「三宮、人が多すぎました」
「港の夜景、宝石みたいでした」
「霧笛、本当に玲奈さんの話してた通りでした」
島の少女が、初めて見た神戸を全身で語る。
その言葉は、玲奈にとって不思議だった。
神戸なら知っている。
港も、坂も、三宮の人波も、六甲山の夜景も、純喫茶「霧笛」のカウンターの木目も。
酸いも甘いも、裏も表も、傷も記憶も、玲奈は知り尽くしているはずだった。
けれど、みうちゃんの目で見た神戸は、まるで初めて聞く街のように輝いていた。
南ぬ島に「しおかぜ」を開いてから、玲奈は一度も神戸へ帰っていなかった。
亮介を待つために来た島で、黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、島の人たちに受け入れられ、みうちゃんという小さな後輩までできた。
けれど、自分がどこから来たのか。
それをもう一度見ておくべき時なのかもしれない。
そう思った玲奈は、数年ぶりに神戸へ帰ることを決めた。
石垣空港を発ち、大阪湾沖合の海上空港へ降り立つ。
かつて任務で何度も詰めた空港だった。あの頃は、警戒線、無線、動線確認、逃走経路、連絡系統――そんなものばかりが目に入った。
だが今、玲奈はただの旅人だった。
到着ロビーを歩く足取りは、少し軽い。
海の上に浮かぶ空港の窓から見える湾の色が、記憶よりも淡く見えた。
「……こんなに静かだったかしら」
玲奈は小さく呟いた。
アクセス鉄道で三宮へ向かう。
車窓に街が近づくにつれ、胸の奥の古い扉が、少しずつ開いていくようだった。
最初に向かったのは、純喫茶「霧笛」だった。
神戸港近くの小さな店。
扉を開けると、昔と同じベルが鳴った。
「玲奈ちゃん、帰ってきたね」
女主人は、何も聞かずにそう言った。
玲奈は一瞬、言葉に詰まった。
「……ただいま戻りました」
「硬いねえ。そこも変わらんわ」
女主人は笑い、いつもの席へ玲奈を案内した。
霧笛プリンとコーヒーが置かれる。
石垣の黒糖プリンとは違う、少し苦いカラメルの味。
玲奈は静かにスプーンを入れた。
「しおかぜ、ちゃんと続いてるんやね」
「はい。黒糖プリンも、少しは評判になりました」
「みうちゃんも来たよ。ええ子やった」
「ありがとうございます。私の小さな後輩です」
自分で言ってから、玲奈は少しだけ照れた。
女主人は、それを見逃さずに笑った。
「玲奈ちゃん、人を育てる顔になったね」
霧笛を出た後、玲奈は神戸港をひとり歩いた。
ハーバーランドの水際。
ポートタワーの赤い姿。
海へ向かって開けた広場。
潮風が吹き、束ねた黒髪を揺らす。
黒いコート姿の玲奈は、港の光の中で、どこか映画のワンシーンのようだった。
女優のような美貌に、ほんの少しの哀愁が滲む。
かつて警察官として、戦隊ヒロインとして、そして誰にも知られない任務で走った街を、今はただ眺めている。
神戸は変わっていた。
けれど、変わっていないものもあった。
その後、玲奈は大阪府内のヒロ室西日本分室へ向かった。
そこには、彼女の知らない新しい空気があった。
美月は大学を卒業し、地元の大手都市ガス会社で働いていた。会社の理解もあり、時折イベントや活動に参加する、OL兼戦隊ヒロインという立場になっている。
彩香は、玲奈に憧れて兵庫県警の警察官になっていた。今では県警の広報活動と連携しながら、戦隊ヒロインイベントにも顔を出すという。
第一線の中心は、麻衣とあかりへ移っていた。
麻衣はすっかり真面目なリーダー格だった。
かつて頼りなかった紀州の舞姫は、後輩を見守り、現場を支える芯のある女性になっていた。
あかりは、その麻衣を支えるサブリーダー的な存在になっていた。
ただし、大学の方は相変わらずだった。
「玲奈さん、私、戦隊ヒロインとしてはめっちゃ頑張ってます!」
あかりが胸を張ると、玲奈は静かに言った。
「戦隊ヒロイン活動は評価します。ただし、大学の単位は別問題です」
「ああっ、久しぶりに玲奈さんの正論が刺さった!」
その場が笑いに包まれる。
分室には、玲奈の知らない若いヒロインも増えていた。
だが、彼女たちは玲奈を知っていた。
「岡本玲奈さんですよね……本当にお会いできるなんて」
「玲奈さんに憧れて、戦隊ヒロインを目指しました」
そう言われて、玲奈は少し戸惑った。
自分がいなくなっても、誰かの中に自分の姿が残っていた。
それは、思っていたよりも温かく、少しだけくすぐったかった。
旧交を温めた後、玲奈は再び神戸へ戻った。
夕方のハーバーランド。
暮れていくポートタワー。
海に映る街の灯り。
そして、六甲山へ向かった。
山上から見下ろす神戸の夜景は、昔と同じように美しかった。
けれど、玲奈の胸には別の記憶も重なる。
両親を失った後の孤独。
警察官になると決めた日。
黒鷹の影。
事故死した悠真の最後の言葉。
亮介との傷。
六甲山には、あまりにも多くのものが残っていた。
街の灯りが、玲奈の美しいアーモンドアイに滲む。
涙が一粒、静かにこぼれた。
「私は、ここから来たのね」
誰に言うでもなく呟いた。
神戸を離れたつもりだった。
過去を背負って南ぬ島へ来たつもりだった。
けれど、神戸はまだ玲奈の中にあった。
旅の最後に、玲奈は両親と祖父母の墓を参った。
そして、青春期を過ごした丹波篠山市にも足を伸ばした。
山深い町。
静かな道。
冬の気配を残す空気。
神戸とは違う、もう一つの自分の根。
懐かしさは、痛みとよく似ていた。
でも、今の玲奈はそれを見つめることができた。
数日後、玲奈は石垣へ戻った。
「しおかぜ」の扉を開けると、潮風と黒糖の香りが迎えてくれた。
みうちゃんがぱっと顔を上げる。
「玲奈さん、おかえりなさい!」
常連のおばあも笑う。
「神戸、どうだったね?」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
「懐かしかったです」
その夜、閉店後。
玲奈はカウンター端の席を丁寧に拭いた。
まだ帰らぬ亮介のための席。
「久しぶりに神戸へ帰ってきたわ」
誰もいない席に向かって、静かに報告する。
「生まれ故郷を外から見てみると、知らなかったことに気づくのね。私は神戸を離れたつもりだったけど、神戸はまだ私の中にあった」
玲奈は少しだけ微笑んだ。
「でも、帰ってきて分かった。今の私の場所は、ここ。南ぬ島のしおかぜ」
そして、亮介の席へそっと手を置く。
「あなたが帰ってくる場所も、ここにあるわ」
神戸の潮風と、石垣の潮風。
二つの風に吹かれた玲奈は、もう一度、自分の立つ場所を確かめた。
明日も「しおかぜ」は開く。
黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、みうちゃんの「相違ありませんか」が店内に響く。
そして玲奈は、まだ帰らぬ男の席を、いつも通り静かに拭き続ける。




