島の少女、神戸へ飛ぶ――霧笛のカウンターと白鷺の城が、みうちゃんを少し大人にした
宮良美海――みうちゃんの初めての本土ひとり旅は、南ぬ島の小さな事件になった。
島カフェ「しおかぜ」で繁忙日だけ働く、明るく純粋な女子高生。玲奈仕込みの「以上で相違ありませんか?」という注文確認で、今では黒糖プリンに次ぐ名物になっている。そんなみうちゃんが、アルバイト代をこつこつ貯め、玲奈の少しばかりの“進路研究費”も受け取って、ついに神戸へ二泊三日の一人旅に出ることになった。
出発の朝、石垣空港は妙に賑やかだった。
家族だけではない。
おばあもいる。
しおかぜの常連のおじいもいる。
八重山そば屋のおばあまでいる。
そして玲奈も、いつものように凛とした姿で立っていた。
「みうちゃん、財布は分けたね?」
「はい!」
「スマホの充電器は?」
「あります!」
「知らない人の車には?」
「乗りません!」
「駅で迷ったら?」
「勘で動かず駅員さんに聞きます!」
まるで出征前の点呼である。
常連のおじいが笑う。
「玲奈ちゃん、神戸旅行というより任務出発さぁ」
おばあも手を振る。
「みうちゃん、霧笛で“相違ありませんか”って言ってくるさぁ!」
玲奈は即座に言った。
「それは不要です」
みうちゃんは、緊張と嬉しさで顔を真っ赤にしながら笑った。
「行ってきます!」
玲奈は短く頷く。
「楽しんできなさい。帰ってくるまでが旅行です」
「はい、玲奈さん!」
そうしてみうちゃんは、石垣空港から神戸へ飛び立った。
旅程は玲奈が作った。
ほとんど観光プランというより、作戦指令書だった。
一日目、神戸到着。三宮周辺確認。純喫茶「霧笛」訪問。
二日目、彩香の助言を受けて姫路城へ。
三日目、港周辺散策、土産購入、余裕を持って空港へ。
みうちゃんは、その計画を忠実に守った。
駅で迷いそうになれば駅員に聞いた。
夜景を見に行く前には帰りの交通手段を確認した。
財布は二つに分けた。
ホテルの位置も、玲奈に言われた通り何度も地図で確認した。
そして、純喫茶「霧笛」にも行った。
神戸港近くの小さな純喫茶。
アンティークな調度品、苦めのカラメルが効いた霧笛プリン、そして玲奈の師匠である女主人。
女主人は、玲奈から連絡を受けていた。
「あなたが、みうちゃんやね。玲奈ちゃんの小さな後輩」
その一言で、みうちゃんは胸がいっぱいになった。
玲奈が持たせた手土産を渡し、霧笛のカウンターでコーヒーを飲み、プリンを食べた。
“相違ありませんか”は言わなかった。玲奈に止められていたからである。
だが、女主人には見抜かれた。
「あんた、今それ言いかけたやろ」
みうちゃんは真っ赤になった。
二日目には姫路城へ行った。
彩香の言った通り、城は白く、大きく、美しかった。
そして階段はきつかった。
「歩きやすい靴でな」という彩香の助言は、完全に正しかった。
みうちゃんは姫路城の写真を彩香へ送り、すぐに返事をもらった。
靴ちゃんとしてて偉い。姫路城、似合ってるやん。
その短い返事を、みうちゃんは何度も見返した。
三日目の夜、みうちゃんは無事に石垣へ帰ってきた。
そして翌日、「しおかぜ」の扉を開けるなり、弾けるように言った。
「玲奈さん! 神戸、すごかったです!」
玲奈はカウンターの中で、いつものように静かに水を出した。
「無事で何よりです」
だが、みうちゃんは止まらない。
「三宮、人が多すぎます! みんな歩くの速いです! 電車のホームも多くて、最初もう帰れないかと思いました! でも、港がめちゃくちゃ綺麗で、夜景が本当に宝石みたいで、旧居留地の建物が大人っぽくて、霧笛は……霧笛は、玲奈さんの話そのままでした!」
目をきらきらさせて、手振りまでつけて話す。
純粋無垢な島の女子高生が、初めて見た神戸を全身で語っていた。
玲奈は黙って聞いていた。
神戸のことなら、玲奈は知り尽くしている。
港の光も、三宮の人波も、旧居留地の石畳も、六甲山からの夜景も、霧笛のカウンターの木目も。
酸いも甘いも、すべて知っている。
神戸は玲奈の生まれ育った街だった。
警察官として走った街でもある。
傷を抱えた街でもある。
そして、六甲山には、玲奈にとって深い記憶があった。
かつて恋人だった悠真を失った場所。
黒鷹の影と、若すぎた恋と、最後の「愛している」が今も胸の奥に残る場所。
みうちゃんには、まだ話していない。
彼女が見た六甲山は、ただ美しい夜景の場所だった。
玲奈が知っている六甲山は、光と影が折り重なる場所だった。
それでも、みうちゃんの言葉は玲奈にとって新鮮だった。
「神戸って、なんか全部が映画みたいでした」
「映画みたい?」
「はい。坂道も、港も、夜景も、霧笛も。人が多くて少し怖いのに、でも綺麗で。私、また行きたいです」
玲奈は、少しだけ目元を緩めた。
「気に入ったなら、よかった」
みうちゃんは土産を広げた。
霧笛の女主人から玲奈への包み。
神戸の菓子。
姫路城の絵葉書。
港で買った小さな写真立て。
「これ、しおかぜに置いてほしくて」
玲奈は受け取った。
そこには、神戸港の夜景が写っていた。
知っている景色なのに、少し違って見えた。
何も知らない少女の目で切り取られた神戸は、玲奈が忘れかけていた神戸だった。
懐かしさと、痛みと、少しの温かさが混じる。
閉店後、玲奈は写真立てを棚に置いた。
そして、いつものようにカウンター端の席を拭いた。
まだ帰らぬ亮介のための席。
玲奈は小さく呟く。
「みうちゃん、無事に帰ってきたわ。神戸を、とても気に入ったみたい」
返事はない。
「私が知り尽くしたつもりでいた街を、あの子は初めての目で見てきた。神戸って、あんなふうに輝いて見えるのね」
玲奈は神戸港の写真を見つめた。
「久しぶりに、帰ってみようかな」
言葉にしてから、自分で少し驚いた。
神戸。
生まれ育った街。
失ったものの多い街。
それでも、玲奈を作った街。
「しおかぜ」が自分の場所になったからこそ、今なら一度、帰れる気がした。
玲奈は亮介の席をもう一度だけ丁寧に拭いた。
「あなたが帰ってくる場所を守るためにも、私も一度、自分が来た場所を見ておくべきかもしれないわね」
南ぬ島の夜風が、木製看板をやさしく揺らす。
島の少女は、初めての本土ひとり旅を終えて、少し大人になって帰ってきた。
そして玲奈の胸には、久しぶりに神戸へ帰るという小さな灯りがともり始めていた。




