一月のしおかぜ、遠くへ行く恋を少しだけ知る ――みうちゃんと玲奈、閉店後のガールズトーク
一月の南ぬ島は、冬という言葉を少し照れながら使っているようだった。
本土のように吐く息が白くなることはない。けれど日が落ちると、海から来る風には確かに涼しさが混じる。島カフェ「しおかぜ」の木製看板も、昼間より少しだけ乾いた音で揺れていた。
玲奈がこの店を開いて、もう二年以上が過ぎている。
黒糖プリンはすっかり店の名物になり、繁忙日には玲奈ひとりでは手が回らないことも増えた。そこで頼りになるのが、常連のおばあの孫娘、宮良美海――みうちゃんだった。
「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、ブレンド一点、島野菜サンド一点。以上で相違ありませんか?」
明るく可愛らしい女子高生の声が店内に響く。
初めての観光客は一瞬ぽかんとし、常連のおばあたちは待ってましたとばかりに笑う。
「みうちゃん、今日も調書さぁ」
「しおかぜは二人体制になってから、確認が厳重さぁ」
みうちゃんは頬を赤くしながらも胸を張る。
「玲奈さんに教わりました。確認は重要です!」
玲奈はカウンターの奥で静かに頷く。
「正しい対応です」
そのやり取りまで含めて、今では「しおかぜ」の味になっていた。
その日の営業も忙しかった。
黒糖プリンは夕方前に売り切れ、観光客が三組続けて入り、常連のおじいは「賞取ってから忙しいさぁ」と誇らしげに新聞を畳んだ。
やがて日が落ち、最後の客が帰ると、店はいつもの静けさを取り戻した。
カップを洗う音。
椅子を戻す音。
外で鳴る木製看板。
カウンターに残る深煎りコーヒーの香り。
玲奈とみうちゃんは、並んで閉店作業をしていた。
この時間が、玲奈にとって少しだけ楽しみになっていた。
みうちゃんはいつも、閉店後になると堰を切ったように話す。神戸のこと。都会の電車のこと。霧笛のこと。玲奈の若い頃のこと。都会のメイクのこと。質問はだいたい五件以上。玲奈はそれを、少し神戸弁の混じる標準語で淡々と答える。
「三宮は人が多いから、最初は無理に動かん方がええわ」
「夜景を見るなら、帰りの足は先に決めておきなさい」
「霧笛では“相違ありませんか”は言わないこと。かなり目立つわ」
そう言うたび、みうちゃんは笑った。
けれど、その日のみうちゃんは静かだった。
玲奈は拭いていたカップを棚に戻し、横目で見た。
「みうちゃん。今日は質問が少ないね」
みうちゃんは、はっと顔を上げた。
「分かりますか?」
「分かります。通常なら、閉店後に最低五件は質問があります」
「件数で把握してるんですね……」
みうちゃんは少し笑ったが、その笑顔はすぐに薄くなった。
「玲奈さん……ちょっと、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
玲奈はカウンターの奥から、残っていたさんぴん茶を二つ出した。ひとつをみうちゃんの前に置き、自分も向かいに座る。
「休憩を兼ねた相談時間です」
「玲奈さん、言い方が会議みたいです」
「内容によっては会議です」
「じゃあ、恋愛会議です」
玲奈の手が止まった。
「……恋愛」
みうちゃんは、照れたようにカップを両手で包んだ。
「実は、気になる人がいるんです。一つ年上で、島の人で、ちょっと不器用だけど優しくて。あんまりしゃべる人じゃないんですけど、私が荷物重そうにしてたら何も言わずに持ってくれたり、台風のあとにおばあの家の片づけ手伝ってくれたりして」
「良い人そうね」
「はい。でも、その人、卒業したら九州で就職するらしくて。四月から離れ離れになるんです」
みうちゃんは小さく息を吐いた。
「九州って、遠いですよね」
玲奈は少しだけ考えた。
「遠いけど、いつでも会いに行かれるよ」
「いつでも、ですか?」
「飛行機もある。船もある。時間とお金は必要だけど、会いに行こうと思えば行ける距離よ」
みうちゃんはカップの中を見つめた。
「でも、私まだ高校生だし、島からもあんまり出たことないし。九州って聞いただけで、すごく遠く感じます」
「初めての距離は、実際より遠く感じるものよ」
「玲奈さんにも、そういう人いました?」
玲奈はすぐには答えなかった。
カウンター端の席が、視界の端に入る。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日丁寧に拭いている席。
玲奈は静かに言った。
「一番会いたい人は、会いたくても会えない場所にいるの」
みうちゃんは、はっとしたように玲奈を見た。
いつもなら「誰ですか?」「神戸の人ですか?」と無邪気に聞くだろう。
けれど、その夜のみうちゃんは違った。
少しだけ、意味が分かったのだ。
会える遠さと、まだ会えない遠さは違う。
九州に行く人を思う自分の寂しさと、玲奈が抱えている待つ時間は、たぶん同じではない。
みうちゃんは、声を落とした。
「玲奈さん……寂しくないんですか」
玲奈は窓の外を見た。
夜のしおかぜのガラスには、店内の灯りが淡く映っている。
「寂しいよ」
その一言は、いつもの玲奈より少し柔らかかった。
「でも、寂しいからって店を閉めるわけにはいかない。帰ってくる場所を準備しておくって決めたから」
みうちゃんは、さんぴん茶の湯気を見つめた。
「帰ってくる場所……」
「ええ。私はここで待っている。あなたの場合は、まだ始まってもいない恋かもしれない。でも、伝えたいなら伝えた方がいい」
「言った方がいいですか」
「言わないまま後悔するくらいなら」
玲奈は少し間を置いて続けた。
「ただし、相手の返事を自分の都合で決めないこと。相手には相手の道がある。あなたにもあなたの道がある」
みうちゃんは苦笑した。
「玲奈さん、恋愛相談でも警察官みたいです」
「必要な注意事項です」
「でも、ちゃんと優しいです」
玲奈は少しだけ目を逸らした。
「それは過大評価です」
「過小評価です」
二人は小さく笑った。
みうちゃんは少しだけ元気を取り戻し、ぽつりと言った。
「私、たぶん、その人のことが好きなんだと思います。でも、九州に行くって聞いたら、急に怖くなって。好きって言ったら困らせるかなとか、言わなかったらずっと後悔するかなとか。自分でもよく分からなくて」
「分からないままでもいいわ」
「いいんですか?」
「気持ちは、最初から整理されているものじゃない。黒糖プリンみたいに、冷やして固まるまで時間がかかる」
みうちゃんは目を丸くしたあと、笑った。
「玲奈さん、今のすごくカフェ店主っぽいです」
「一応、カフェ店主です」
「いつもは警察官っぽいですけど」
「余計です」
そのやり取りのあと、みうちゃんは少し真面目な顔になった。
「玲奈さんは、その会いたい人が帰ってくるって信じてるんですか」
玲奈は、カウンター端の席を見た。
「信じている。信じるしかない、という方が近いけど」
「それって、強いですね」
「強くはないわ。店を開けていないと、弱くなりそうだから開けているだけ」
みうちゃんは、その言葉を大事そうに受け取った。
「私、ちょっと分かった気がします。遠いって、会えないって意味じゃないんですね」
玲奈は頷いた。
「そう。会える遠さと、まだ会えない遠さは違う」
その夜、みうちゃんは帰り際に少しだけ背筋を伸ばした。
「私、その人にちゃんと話してみます。好きって言うかは……まだ分からないけど。でも、何も言わないまま見送るのは嫌です」
「それでいいと思う」
「玲奈さん、ありがとうございます」
「相談記録は以上です」
「最後まで硬いです」
みうちゃんは笑って店を出ていった。
外には一月の島風が吹いていた。
冬とはいえ、南ぬ島の夜はどこかやわらかい。
みうちゃんが帰ったあと、玲奈は一人で店に残った。
カップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭く。
まだ帰らぬ亮介のための席。
玲奈はその席へ向かって、小さく呟いた。
「今日は、みうちゃんが少し大人になったわ」
返事はない。
「遠くへ行く人を思う気持ちを、少しだけ知ったみたい」
玲奈は椅子の背に手を置いた。
「遠く離れていても、いつでも会えるのって……いいことよね」
その声は、少しだけ切なかった。
亮介は、まだ会いに行ける場所にはいない。
会いたいと思っても、飛行機に乗れば会えるわけではない。
電話をすれば声が聞けるわけでもない。
それでも玲奈は待っている。
いつか彼が、自分の足でこの席へ帰ってくる日を。
「あなたが帰ってきたら、みうちゃんの話をするわ。恋に悩んで、ちょっと大人になった島の後輩の話」
玲奈は少しだけ笑った。
「その時まで、この店をちゃんと守っておく」
黒糖プリンの甘さと、カラメルのほろ苦さが、まだ店の奥に残っていた。
島カフェ「しおかぜ」は、今日も誰かの恋と、誰かの帰り道を静かに見守っている。
待つ女と、恋を知り始めた少女のガールズトークは、南ぬ島の夜にそっと溶けていった。




