黒糖プリンは嘘を許さない ――みうちゃん、しおかぜで初めて叱られる
宮良美海――みうちゃんは、島カフェ「しおかぜ」の小さな戦力になっていた。
繁忙日だけのアルバイト。
けれど、今では玲奈にとって欠かせない存在だった。
「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、アイスコーヒー一点。以上で相違ありませんか?」
明るく澄んだ声でそう言うたび、初めて来た観光客は少しだけ固まり、常連のおばあたちは笑う。
「みうちゃん、今日も調書さぁ」
「玲奈ちゃん二号になってきたねえ」
美海は頬を赤くしながらも、誇らしそうに胸を張る。
「確認は重要です!」
玲奈はカウンターの奥で静かに頷いた。
「正しい対応です」
その日も、昼過ぎまでは順調だった。
黒糖プリンが沖縄グルメの小さな賞を取ってから、週末の「しおかぜ」は少し忙しくなった。観光客が増え、注文が重なり、テーブルの片づけも追いつかない時間がある。
美海は懸命に動いていた。
水を出す。
注文を取る。
プリンを運ぶ。
会計を手伝う。
その途中で、小さなミスが起きた。
観光客の注文した黒糖プリンを、別のテーブルへ出してしまったのだ。
しかも、そのテーブルの客は何も気づかず食べ始めてしまった。
本当に些細なミスだった。
玲奈に言えば、すぐに作り直し、説明して済む話だった。
だが、美海は焦った。
忙しい日。
玲奈に迷惑をかけたくない。
怒られたくない。
せっかく少し仕事を任されるようになったのに、失望されたくない。
美海は、空いた皿を慌てて片づけ、伝票の記入をこっそり直そうとした。
だが、玲奈は見逃さなかった。
かつて優秀な警察官だった女の目は、客の表情、皿の位置、伝票の数字、冷蔵ケースの在庫数、その微妙なズレをすぐに拾った。
「みうちゃん」
静かな声だった。
美海の肩が小さく跳ねる。
「はい」
「二番テーブルの黒糖プリン、出しましたか」
「……はい」
「どちらへ」
美海は黙った。
玲奈は怒鳴らない。
声を荒げない。
それがかえって、店内の空気を少し冷たくした。
「正直に答えなさい」
美海は俯いた。
「……四番テーブルに、出してしまいました」
「その後、なぜ報告しなかったの」
「すぐ直そうと思って……その、伝票を……」
玲奈の目が細くなった。
「伝票を直して、なかったことにしようとしたの?」
美海の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「ごめんなさい……」
玲奈は少しだけ息を置いた。
本当は、ここで優しくした方がよかったのかもしれない。
けれど、仕事としては見逃せない線だった。
「ミスは仕方ありません。私もします」
美海は顔を上げた。
玲奈の声は、低く、静かだった。
「ですが、隠すことは問題です。そういう人には、仕事を任せられません」
美海は、完全にしゅんとなった。
いつもの明るさが消え、肩が落ちる。
純粋で真面目だからこそ、その言葉は深く刺さった。
「……はい」
玲奈はすぐに客へ説明し、黒糖プリンを一つ追加で用意した。
客は笑って許してくれた。
「大丈夫ですよ。新人さんならありますよ」
美海は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
それで店は回った。
騒ぎにはならなかった。
けれど、美海の表情は閉店まで戻らなかった。
いつもなら、片づけの時間になると神戸のことを聞いてくる。
「玲奈さん、神戸の電車って本当に複雑ですか?」
「霧笛の女主人って怖いですか?」
「都会の男の人って本当におしゃれなんですか?」
そんなふうに、遠慮なく聞いてくる。
だが、その日は違った。
美海は黙ってテーブルを拭き、黙ってグラスを片づけ、黙ってエプロンを畳んだ。
玲奈は、その沈黙を見ていた。
店内から客がいなくなり、外の潮風だけが聞こえる時間になった。
玲奈はカウンターに黒糖プリンを一つ置いた。
「みうちゃん。座って」
美海はびくりとした。
「はい……」
「食べなさい」
「でも、私……」
「必要な糖分補給です」
その言葉に、美海の目が少しだけ揺れた。
いつもの玲奈の言い方だった。
けれど、今日は少しだけ優しかった。
美海はスプーンを持ったが、なかなか口へ運べない。
玲奈は向かいに立ち、静かに言った。
「少し強く言い過ぎました」
美海が顔を上げる。
玲奈はまっすぐ美海を見ていた。
「私も悪いです。ごめんなさい」
美海の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「玲奈さんは悪くないです。私が隠そうとしたから……」
「それは事実です」
「はい……」
「でも、叱り方は私の責任です。あなたが仕事を怖がるようになったら、指導としては失敗です」
美海は、涙を拭きながら首を振った。
「怖かったです。でも……見捨てられたんじゃないって、今分かりました」
玲奈は少し黙った。
「育てると決めた人を、一度の失敗では見捨てません」
美海は、今度こそ泣き笑いになった。
「玲奈さん、それ、ずるいです」
「何が」
「怖いのに、優しいところです」
玲奈は少しだけ目を伏せた。
「怖い、は余計です」
「でも本当です」
「……否定はしません」
美海は黒糖プリンを一口食べた。
「美味しいです」
「それはよかった」
「玲奈さん。次から、ミスしたらすぐ言います」
「そうしなさい」
「伝票も誤魔化しません」
「当然です」
「でも、また叱る時は……少しだけマイルドでお願いします」
玲奈は真面目に考えた。
「努力します」
「そこは即答してください」
二人は少しだけ笑った。
その夜、美海が帰ったあと、「しおかぜ」は静かになった。
玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日空けている席。
嘘で塗り固めていた男。
人を騙し、自分自身の弱さからも逃げていた男。
それでも今、どこかで罪を償い、真人間になろうとしている男。
玲奈はその席に向かって、小さく呟いた。
「今日は、みうちゃんを叱りました」
返事はない。
「ミスはいい。でも、隠すのはだめ。そう言ったの」
玲奈は手を止めた。
「あなたに言っているみたいだったわ」
夜の店内に、黒糖の甘い香りがかすかに残っている。
外では、南ぬ島の風が木製看板を揺らしていた。
玲奈は、誰もいない席へ、少しだけ弱い声で問いかける。
「私って、やっぱり厳しいのかな」
昼間の玲奈なら、絶対に見せない顔だった。
警察官だった頃の自分。
戦隊ヒロインのボスだった頃の自分。
嘘を許さず、逃げ道を塞ぎ、正しさを突きつけてきた自分。
それは必要だった。
そうしなければ守れないものがあった。
けれど、今はカフェ店主だ。
島の少女を育てている。
帰ってくるかもしれない男を待っている。
厳しさだけでは、人は戻ってこられない。
優しさだけでも、仕事にはならない。
玲奈は亮介の席をもう一度だけ拭いた。
「あなたが帰ってきたら、私はどう言うんでしょうね。叱るのか、黙ってコーヒーを出すのか」
少し間を置いて、静かに続ける。
「たぶん、両方ね」
玲奈は小さく笑った。
「しおかぜ」には、今日も失敗がひとつあった。
でも、その失敗は隠されず、ちゃんと明日の経験になった。
玲奈は灯りを落とす前に、亮介の席を見つめた。
「みうちゃんは、きっと大丈夫。あの子は嘘を隠し続ける子じゃない」
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「あなたも、そうであってほしい」
南ぬ島の夜は静かだった。
黒糖プリンは甘く、カラメルは少し苦い。
その味のように、玲奈の優しさもまた、少しだけ苦かった。




