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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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島の進路相談室――黒糖プリンの前で、みうちゃん少し泣く

宮良美海――みうちゃんが、その日だけは少し静かだった。


いつもなら「しおかぜ」の扉を開けるなり、明るい声で「おはようございます、玲奈さん!」と店内の空気を一段明るくする。黒糖プリンを運ぶ足取りは軽く、観光客には愛嬌たっぷりに笑い、常連のおばあには「相違ありませんか?」と玲奈仕込みの調書めいた注文確認をして笑わせる。


けれど、その日の美海は、どこか心ここにあらずだった。


「みうちゃん、三番テーブルお願いします」


玲奈が声をかけると、美海は少し遅れて顔を上げた。


「あ、はい。三番テーブルですね」


「違うわ。三番テーブルの水です」


「あっ、ごめんなさい」


玲奈は、すぐに察した。


仕事の疲れではない。

失恋でもない。

これは、将来のことを考え始めた若い子の顔だった。


閉店後、玲奈はカウンターに黒糖プリンを一つ置いた。


「みうちゃん。食べながら話しなさい」


美海は驚いたように目を上げた。


「え、いいんですか?」


「必要な糖分補給です」


「玲奈さん、それ言えば何でも許されると思ってません?」


「かなり有効です」


美海は少し笑った。

だが、スプーンを持つ手はすぐに止まった。


「玲奈さん……私、進路で悩んでるんです」


「島を出る話?」


美海は小さく頷いた。


「島は大好きなんです。おばあもいるし、家族もいるし、海も空も好きだし、しおかぜで働くのも好きです。でも、一度は外に出てみたいんです。那覇でもいいし、本土でもいい。神戸にも行きたいし、都会で勉強してみたい」


玲奈は黙って聞いた。


「でも、私が出たら家族が寂しがるかなって。おばあも、本当は行ってほしくないのかなって。島で就職する道もあるし、那覇の学校もあるし、本土の専門学校もあるし……考えたら、どれが正しいのか分からなくなって」


美海の声が少し震えた。


「みんな、好きにしなさいって言うんです。おばあも、お母さんも、お父さんも。ありがたいんですけど……好きにしていいって言われるほど、余計に怖くなるんです」


玲奈は、ゆっくり黒糖プリンの皿を美海の方へ押した。


「島を出たいと思うのは、悪いことではないわ」


美海は、目を潤ませながら玲奈を見た。


「でも、島を捨てるみたいで」


「違うわ」


玲奈の声は静かだった。


「外を見たいと思うことは、今いる場所を嫌うこととは違う。島を出ても、島の子でなくなるわけじゃない」


美海は黙った。


玲奈は、カウンター端の席をちらりと見た。

入口と窓の両方が見える席。

まだ帰らぬ亮介のために、毎日丁寧に拭いている席。


「戻る場所があるのは、良いことよ」


「戻る場所……」


「ええ。出て行けるのは、帰れる場所があるからでもある。帰る場所がある人は、強い」


美海は黒糖プリンを一口食べた。

涙が一粒、頬に落ちた。


「じゃあ、私、島を出てもいいんですかね」


玲奈は即答しなかった。


「うんと悩みなさい」


「えっ」


「簡単に決めなくていい。悩むのも、進路の一部よ。悩んで、調べて、見に行って、失敗しそうになって、それでも自分で選ぶ。その方が、後から人のせいにしなくて済む」


美海は、ますます困った顔をした。


「玲奈さん、励ましてくれてるんですか? 余計に難しくしてません?」


「両方ね」


「ひどいです」


「必要な複雑化です」


「進路相談で初めて聞く言葉です」


美海は泣きながら少し笑った。


その笑顔を見て、玲奈もほんの少しだけ目元を緩めた。


「みうちゃん。どこへ行っても、しおかぜには来られるわ。帰ってきた時に、相違ありませんかって言えば、常連さんたちはきっと笑う」


「私、帰ってきても言うんですか?」


「名物だから」


「玲奈さんが仕込んだんですよ」


「責任は一部認めます」


美海は今度こそ声を出して笑った。


その夜、美海が帰ったあと、玲奈は一人で店に残った。


カップを洗い、テーブルを拭き、照明を落とす。

店内には黒糖プリンの甘い香りと、夜の潮風だけが残っている。


玲奈はふと、自分の青春時代を思い出した。


神戸で両親を失い、丹波篠山市の祖父母のもとで過ごした日々。

山深い町。

冬の冷たい朝。

静かな通学路。

教室の窓から見えた山の稜線。

誰にも弱さを見せず、勉強だけはできた少女時代。


周囲の大人たちは言った。


「玲奈の頭なら、東大でも京大でも狙える」

「もっと大きな世界へ行ける」

「警察官になるなんてもったいない」


それでも玲奈は警察官になった。


両親を奪った事故。

過積載のトラック。

戻らない命。

あの悲しみを誰かに味わわせたくないという思いだけで、進路を決めた。


自分で決めた道だった。

誇りもあった。

後悔などしていないと、ずっと思ってきた。


けれど、本当に一度も迷わなかったのかと問われれば、答えは少し違う。


もし大学へ行っていたら。

もし別の街で暮らしていたら。

もし、普通の女の子のように恋をして、就職して、笑っていたら。


そんなことを考えた夜が、なかったとは言えない。


玲奈は、カウンター端の席を拭いた。


亮介の席。

まだ帰らぬ男のために空けている席。


「みうちゃんは、戻る場所があって羨ましいわ」


小さく呟いた。


丹波篠山の祖父母は、もういない。

神戸にも、昔の家はない。

玲奈にとって、無条件に帰れる場所はもうほとんど残っていなかった。


だからこそ、作ったのかもしれない。


「しおかぜ」を。

亮介のために。

そして、自分自身のために。


玲奈は椅子の背に手を置いた。


「私は、帰る場所を失ったから……誰かの帰る場所を作りたかったのかもしれないわね」


外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしている。


「あなたが帰ってきた時、この店がなかったら困るもの」


玲奈は少しだけ笑った。


「みうちゃんがいつか島を出ても、ここに戻ってこられるように。あなたがいつか罪を償って、胸を張れなくても、それでも扉を開けられるように」


声が少し柔らかくなる。


「私は、ここを開けておく」


玲奈は亮介の席をもう一度、丁寧に拭いた。


進路に悩む少女がいる。

まだ帰れない男がいる。

帰る場所を失った女がいる。


それでも「しおかぜ」は明日も灯る。


黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、調書のように注文を取り、島の客を迎える。

そして、誰かが迷った時に少しだけ座れる場所であり続ける。


玲奈は最後に、静かに呟いた。


「戻る場所があるって、きっとそれだけで人は少し強くなれるのよ」


南ぬ島の夜は、優しかった。

美海の未来も、亮介の帰り道も、まだはっきりとは見えない。

けれど、玲奈はその見えない道のために、明日も店の灯りをともすつもりだった。

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