島の進路相談室――黒糖プリンの前で、みうちゃん少し泣く
宮良美海――みうちゃんが、その日だけは少し静かだった。
いつもなら「しおかぜ」の扉を開けるなり、明るい声で「おはようございます、玲奈さん!」と店内の空気を一段明るくする。黒糖プリンを運ぶ足取りは軽く、観光客には愛嬌たっぷりに笑い、常連のおばあには「相違ありませんか?」と玲奈仕込みの調書めいた注文確認をして笑わせる。
けれど、その日の美海は、どこか心ここにあらずだった。
「みうちゃん、三番テーブルお願いします」
玲奈が声をかけると、美海は少し遅れて顔を上げた。
「あ、はい。三番テーブルですね」
「違うわ。三番テーブルの水です」
「あっ、ごめんなさい」
玲奈は、すぐに察した。
仕事の疲れではない。
失恋でもない。
これは、将来のことを考え始めた若い子の顔だった。
閉店後、玲奈はカウンターに黒糖プリンを一つ置いた。
「みうちゃん。食べながら話しなさい」
美海は驚いたように目を上げた。
「え、いいんですか?」
「必要な糖分補給です」
「玲奈さん、それ言えば何でも許されると思ってません?」
「かなり有効です」
美海は少し笑った。
だが、スプーンを持つ手はすぐに止まった。
「玲奈さん……私、進路で悩んでるんです」
「島を出る話?」
美海は小さく頷いた。
「島は大好きなんです。おばあもいるし、家族もいるし、海も空も好きだし、しおかぜで働くのも好きです。でも、一度は外に出てみたいんです。那覇でもいいし、本土でもいい。神戸にも行きたいし、都会で勉強してみたい」
玲奈は黙って聞いた。
「でも、私が出たら家族が寂しがるかなって。おばあも、本当は行ってほしくないのかなって。島で就職する道もあるし、那覇の学校もあるし、本土の専門学校もあるし……考えたら、どれが正しいのか分からなくなって」
美海の声が少し震えた。
「みんな、好きにしなさいって言うんです。おばあも、お母さんも、お父さんも。ありがたいんですけど……好きにしていいって言われるほど、余計に怖くなるんです」
玲奈は、ゆっくり黒糖プリンの皿を美海の方へ押した。
「島を出たいと思うのは、悪いことではないわ」
美海は、目を潤ませながら玲奈を見た。
「でも、島を捨てるみたいで」
「違うわ」
玲奈の声は静かだった。
「外を見たいと思うことは、今いる場所を嫌うこととは違う。島を出ても、島の子でなくなるわけじゃない」
美海は黙った。
玲奈は、カウンター端の席をちらりと見た。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日丁寧に拭いている席。
「戻る場所があるのは、良いことよ」
「戻る場所……」
「ええ。出て行けるのは、帰れる場所があるからでもある。帰る場所がある人は、強い」
美海は黒糖プリンを一口食べた。
涙が一粒、頬に落ちた。
「じゃあ、私、島を出てもいいんですかね」
玲奈は即答しなかった。
「うんと悩みなさい」
「えっ」
「簡単に決めなくていい。悩むのも、進路の一部よ。悩んで、調べて、見に行って、失敗しそうになって、それでも自分で選ぶ。その方が、後から人のせいにしなくて済む」
美海は、ますます困った顔をした。
「玲奈さん、励ましてくれてるんですか? 余計に難しくしてません?」
「両方ね」
「ひどいです」
「必要な複雑化です」
「進路相談で初めて聞く言葉です」
美海は泣きながら少し笑った。
その笑顔を見て、玲奈もほんの少しだけ目元を緩めた。
「みうちゃん。どこへ行っても、しおかぜには来られるわ。帰ってきた時に、相違ありませんかって言えば、常連さんたちはきっと笑う」
「私、帰ってきても言うんですか?」
「名物だから」
「玲奈さんが仕込んだんですよ」
「責任は一部認めます」
美海は今度こそ声を出して笑った。
その夜、美海が帰ったあと、玲奈は一人で店に残った。
カップを洗い、テーブルを拭き、照明を落とす。
店内には黒糖プリンの甘い香りと、夜の潮風だけが残っている。
玲奈はふと、自分の青春時代を思い出した。
神戸で両親を失い、丹波篠山市の祖父母のもとで過ごした日々。
山深い町。
冬の冷たい朝。
静かな通学路。
教室の窓から見えた山の稜線。
誰にも弱さを見せず、勉強だけはできた少女時代。
周囲の大人たちは言った。
「玲奈の頭なら、東大でも京大でも狙える」
「もっと大きな世界へ行ける」
「警察官になるなんてもったいない」
それでも玲奈は警察官になった。
両親を奪った事故。
過積載のトラック。
戻らない命。
あの悲しみを誰かに味わわせたくないという思いだけで、進路を決めた。
自分で決めた道だった。
誇りもあった。
後悔などしていないと、ずっと思ってきた。
けれど、本当に一度も迷わなかったのかと問われれば、答えは少し違う。
もし大学へ行っていたら。
もし別の街で暮らしていたら。
もし、普通の女の子のように恋をして、就職して、笑っていたら。
そんなことを考えた夜が、なかったとは言えない。
玲奈は、カウンター端の席を拭いた。
亮介の席。
まだ帰らぬ男のために空けている席。
「みうちゃんは、戻る場所があって羨ましいわ」
小さく呟いた。
丹波篠山の祖父母は、もういない。
神戸にも、昔の家はない。
玲奈にとって、無条件に帰れる場所はもうほとんど残っていなかった。
だからこそ、作ったのかもしれない。
「しおかぜ」を。
亮介のために。
そして、自分自身のために。
玲奈は椅子の背に手を置いた。
「私は、帰る場所を失ったから……誰かの帰る場所を作りたかったのかもしれないわね」
外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしている。
「あなたが帰ってきた時、この店がなかったら困るもの」
玲奈は少しだけ笑った。
「みうちゃんがいつか島を出ても、ここに戻ってこられるように。あなたがいつか罪を償って、胸を張れなくても、それでも扉を開けられるように」
声が少し柔らかくなる。
「私は、ここを開けておく」
玲奈は亮介の席をもう一度、丁寧に拭いた。
進路に悩む少女がいる。
まだ帰れない男がいる。
帰る場所を失った女がいる。
それでも「しおかぜ」は明日も灯る。
黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、調書のように注文を取り、島の客を迎える。
そして、誰かが迷った時に少しだけ座れる場所であり続ける。
玲奈は最後に、静かに呟いた。
「戻る場所があるって、きっとそれだけで人は少し強くなれるのよ」
南ぬ島の夜は、優しかった。
美海の未来も、亮介の帰り道も、まだはっきりとは見えない。
けれど、玲奈はその見えない道のために、明日も店の灯りをともすつもりだった。




