はじめての本土旅行計画 ――みうちゃん、神戸行きのノートを作る
宮良美海――みうちゃんは、最近少しだけ大人びた顔をするようになった。
島カフェ「しおかぜ」の繁忙日にだけ手伝いに来る、明るく素直な島の女子高生。黒糖プリンを運ぶ足取りはまだ少し軽すぎて、会計の時には小銭を二度数える。けれど、玲奈仕込みの注文確認だけは妙に堂々としていた。
「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、アイスコーヒー一点、島野菜サンド一点。以上で相違ありませんか?」
そのたびに、初めての観光客はぽかんとし、常連のおばあたちは笑う。
「みうちゃん、今日も調書さぁ」
「玲奈さんに教わりました。確認は重要です!」
玲奈はカウンターの奥で静かに頷く。
「正しい対応です」
「そこ、褒めるんかねえ」
そんなやり取りも、今では「しおかぜ」の名物になっていた。
けれど、その日の美海は、閉店後になってもなかなか帰ろうとしなかった。レジを締め、テーブルを拭き、最後のカップを棚に戻したあとも、カウンターの端で小さなノートを開いたり閉じたりしている。
玲奈は気づいていた。
「美海。何か相談があるの?」
美海は、ぱっと顔を上げた。
「玲奈さん、私……神戸に行ってみたいんです」
「神戸に?」
「はい。アルバイト代、少しずつ貯めてて。高校卒業前に、一回だけ本土へ一人旅してみたいんです。最初の本土は、玲奈さんの街がいいなって」
そう言うと、美海は照れたように笑った。
玲奈は少しだけ目を細めた。
石垣で生まれ育った美海にとって、本土は遠い。飛行機で行ける場所でありながら、どこか物語の中のような場所だった。電車が何本も走り、人が流れ、冬には本当に寒くなり、夜の街に数えきれないほどの灯りがともる場所。
「一人旅は、準備が必要よ」
玲奈は椅子を引き、美海の向かいに座った。
「ですよね。だから玲奈さんに相談したくて」
美海はノートを開いた。表紙には、丸い文字でこう書かれている。
神戸行きノート
玲奈はその文字を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「まず、日程。飛行機の便。宿泊先。空港から市街地への移動。緊急連絡先。予算。すべて書き出しましょう」
美海は目をぱちぱちさせた。
「玲奈さん、旅行計画というより作戦会議みたいです」
「安全な旅行のための基本です」
「やっぱり警察官っぽいです」
「元警察官です」
「知ってます」
玲奈はノートの端に、神戸旅行の項目を整然と書き始めた。
一、航空券
二、宿泊先
三、移動経路
四、防犯対策
五、訪問先
六、緊急時対応
美海は横から覗き込み、笑いをこらえた。
「修学旅行のしおりより固いです」
「一人旅なら、このくらいでちょうどいいわ」
「でも、わくわく感が少ないです」
「安全が確保されてから、わくわくしなさい」
「名言みたいに言わないでください」
美海は笑ったが、玲奈は本気だった。
財布は二つに分けること。
スマートフォンの充電器は必ず持つこと。
夜遅くに知らない路地へ入らないこと。
知らない人の車には乗らないこと。
駅で迷ったら、勘で動かず駅員に聞くこと。
ホテルの場所は事前に地図で確認すること。
美海は途中で両手を上げた。
「玲奈さん、神戸ってそんな危険な街なんですか?」
「危険な街ではないわ。でも、何も知らない人には疲れる街です」
「それ、ちょっと分かる気がします」
「都会は怖がりすぎる必要はない。でも、油断する場所でもない」
玲奈の言葉は硬い。けれど、その硬さの奥にある心配を、美海はちゃんと感じ取っていた。
やがて話は、神戸の楽しみへ移っていく。
三宮の歩き方。
旧居留地の石造りの建物。
港の夜景。
北野の坂道。
メリケンパークの風。
山側から見る街の灯り。
そして、神戸港近くの純喫茶「霧笛」。
美海は目を輝かせた。
「霧笛って、玲奈さんが修行してたお店ですよね?」
「ええ」
「行きたいです。絶対行きたいです」
玲奈は、別の紙に道順を書いた。
「三宮からなら、まずこの路線。駅を出たら海側へ。迷ったら無理に歩き回らないこと。霧笛は少し分かりにくい場所にあるから、地図を事前に保存しておきなさい」
「玲奈さん、もしかして紹介してくれますか?」
「女主人には連絡しておくわ」
「本当ですか?」
「ただし、霧笛で注文を取るわけではないから、“相違ありませんか”は言わなくていい」
美海は笑った。
「そこは言いたいです」
「やめなさい。神戸では目立つわ」
「しおかぜでは名物なのに」
「ここだから許されています」
美海は、ノートに「霧笛」と大きく書き込んだ。
玲奈はさらに、隠れた夜景スポットも教えた。観光パンフレットに大きく載る場所ではなく、少しだけ静かに街を見下ろせる場所。夜景は綺麗だが、帰り道が暗くなるため、行くなら早めの時間に、できればタクシーを使うようにと、そこまで細かく注意した。
「玲奈さん、土地勘すごいですね」
「生まれ育った街だから」
「その街を出て、ここに来たんですね」
美海の声が、少しだけ静かになった。
玲奈はペンを止めた。
「そうね」
「寂しくなかったですか?」
玲奈はすぐには答えなかった。
カウンター端の席が、視界の端に入る。まだ帰らぬ亮介のために、毎日拭いている席。
「寂しくないと言えば、嘘になるわ」
玲奈は静かに言った。
「でも、ここで暮らす理由があったから」
美海は、それ以上聞かなかった。島の子らしく、踏み込むところと踏み込まないところを知っている。
代わりに、ノートを胸に抱いて笑った。
「私、頑張ってお金貯めます。神戸に行って、霧笛でコーヒー飲んで、夜景見て、ちゃんと帰ってきます」
「帰ってくるまでが旅行です」
「また警察っぽい」
「事実です」
二人は少し笑った。
その夜、美海が帰ったあと、玲奈はいつものようにカウンター端の席を拭いた。外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしている。
玲奈は、誰もいない席へ向かって小さく呟いた。
「今日は、美海の神戸旅行計画を立てたわ」
返事はない。
「初めての本土旅行だって。霧笛にも行きたいそうよ」
玲奈は少しだけ目元を和らげた。
「私が出てきた街へ、あの子はこれから向かうのね。人は、こうやって知らない場所へ行きたくなるものなのかもしれない」
しばらく黙ったあと、玲奈はカウンターに手を置いた。
「あなたが帰ってくる頃には、美海は神戸の街を知っているかもしれない。しおかぜも、少し変わっているかもしれない」
そして、ほんの少し笑った。
「でも、この席は空けておくわ。そこだけは、計画変更なし」
玲奈は灯りを落とした。
島カフェ「しおかぜ」は、黒糖プリンの店であり、帰らぬ男を待つ店であり、今では島の少女が初めての本土旅行を夢見る場所にもなっていた。
美海の小さなノートには、まだ見ぬ神戸の灯りが、少しずつ書き込まれていく。




