相違ありませんか、南ぬ島の小さな後輩 ――宮良美海、しおかぜで大都会を夢見る
島カフェ「しおかぜ」に、もう一人の声が加わった。
「ご注文を確認します。黒糖プリン二点、アイスコーヒー二点、島野菜サンド一点。以上で相違ありませんか?」
明るく、少し弾むような声だった。
声の主は、宮良美海。
読み方は、みやら・みう。
地元の高校に通う、島育ちの女子高生である。
常連たちは親しみを込めて、彼女を「みうちゃん」と呼ぶ。玲奈も、いつの間にかそう呼ぶようになっていた。
「みうちゃん、三番テーブルに水をお願いします」
「はい、玲奈さん!」
美海は、常連のおばあの孫娘だった。黒糖プリンが小さな賞を取ってから客足が伸びた「しおかぜ」を、繁忙日だけ手伝うことになったのだ。
最初は、玲奈も少し心配していた。
島の娘らしくのんびりしていて、愛嬌があり、誰にでもにこにこ挨拶できる。けれど、アルバイトは初めて。皿を運ぶ時は足元ばかり見て、会計の時は小銭を何度も数え直し、注文を取る時は緊張で声が小さくなる。
だが、美海は素直だった。
「確認は重要です」
玲奈がそう教えると、美海は真剣な顔でメモを取った。
「はい。確認は重要、ですね」
「注文は必ず復唱します。数量、温冷、追加注文の有無。曖昧にしないこと」
「はいっ」
「焦るとミスが出ます。焦っている時ほど、一度止まること」
「はいっ」
そして数日後、美海は玲奈仕込みの注文確認を身につけた。
「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか?」
初めて聞いた観光客は、ほぼ必ず固まる。
「えっ……あ、はい。相違ありません」
カウンター席の常連のおじいが新聞の向こうで笑う。
「しおかぜ、調書二人体制になったさぁ」
おばあは黒糖プリンのスプーンを持ったまま肩を震わせる。
「みうちゃんまで、玲奈ちゃんみたいになってるさぁ」
美海は顔を赤くしながらも、にこにこしている。
「玲奈さんに教わりました。確認は重要です!」
玲奈はカウンターの中で静かに頷く。
「正しい対応です」
「そこ、褒めるところかねえ」
店内は笑いに包まれる。
可愛らしい女子高生が、明るく純粋な声で「相違ありませんか」と確認する。
それは、いつの間にか黒糖プリンに次ぐ「しおかぜ」の名物になっていた。
観光客の中には、会計の時に笑って言う者までいた。
「いやあ、注文確認が本格的でした」
美海は照れながら答える。
「玲奈さん仕込みです」
玲奈は真顔で補足する。
「接客品質の維持です」
「玲奈さん、それ説明が固いです」
「事実です」
そんな二人体制の日は、「しおかぜ」が少しだけ若返ったようだった。
玲奈の静かな動き。
美海の明るい声。
常連たちの笑い。
カウンターに漂う深煎りコーヒーの香り。
冷蔵ケースに並ぶ黒糖プリン。
美海は、よく働いた。
忙しい時には皿を下げ、水を出し、会計を手伝う。まだ失敗もあるが、客に愛される力があった。常連のおばあたちは、もう完全に孫を見る目で彼女を見ている。
けれど、店が少し落ち着いた夕方や、閉店後の片づけの時間になると、美海は別の顔を見せた。
「玲奈さん、神戸ってどんなところですか?」
カップを拭いていた玲奈は、少しだけ顔を上げた。
「神戸?」
「はい。本土って、私ほとんど行ったことないんです。沖縄本島には行ったことあるけど、東京も大阪も神戸も、テレビとか動画で見るだけで」
美海はカウンターに身を乗り出すようにして、興味津々で尋ねる。
「神戸って、海も山もあるんですよね?」
「ええ。港があって、坂が多くて、山へ上がると夜景が綺麗」
「車いっぱい走ってます?」
「石垣と比べれば、かなり」
「人、多いですか?」
「多いわ。歩く速度も速い」
「えー、怖い。私、駅で迷いそう」
「迷ったら駅員に聞けばいい。勘で動くと悪化します」
美海は吹き出した。
「玲奈さん、都会の説明まで警察みたいです」
玲奈は平然としている。
「合理的な移動方法です」
美海にとって、玲奈の語る神戸は、まだ見ぬ大都会だった。
三宮の人の流れ。
旧居留地の石造りの街並み。
港の夜景。
坂道の先にある小さな喫茶店。
神戸港近くの純喫茶「霧笛」。
冬の空気。
都会の灯り。
美海は目を輝かせて聞く。
「いいなあ……私、高校卒業したら島を出てみたいんです」
玲奈はカップを棚に戻した。
「どこへ?」
「まだ決めてません。でも、本土に行ってみたい。都会で働いてみたいし、学校にも行ってみたいし。島が嫌いなわけじゃないんです。でも、外を見てみたいんです」
その言葉に、玲奈は少しだけ静かになった。
島を出たい若い子。
まだ見ぬ街へ憧れる瞳。
それは、かつて戦隊ヒロインの若い後輩たちが、未来へ向かっていた時の目に少し似ていた。
「見たいなら、見た方がいいわ」
玲奈は言った。
「都会は怖い場所ではない。でも、何も知らずに行くと疲れる。準備は必要よ」
「はい」
「でも、自分に合うかどうかは、自分の目で見ないと分からない」
美海は嬉しそうに頷いた。
「玲奈さん、私、いつか神戸に行ってみたいです。霧笛にも行ってみたい」
「その時は、紹介状を書いてあげる」
「本当ですか?」
「ただし、注文確認はほどほどに」
「えっ、そこは玲奈さん仕込みでいきます!」
「神戸でそれをすると、少し目立つわ」
「しおかぜでは名物なのに?」
「ここだから許されています」
美海は声を立てて笑った。
そして、ふいに年頃の少女らしい顔になる。
「玲奈さん、神戸の男の人って……どんな感じですか?」
玲奈の手が止まった。
「神戸の男性?」
「はい。おしゃれそうだし、優しそうだし。玲奈さん、美人だからモテたんでしょう?」
あまりにも純粋な目で聞かれて、玲奈は答えに詰まった。
「……」
美海はさらに畳みかける。
「好きだった人とか、いました? 神戸の人ですか? 警察官の時とか、絶対モテましたよね?」
「みうちゃん」
「はい」
「質問が多いです」
「すみません。でも気になります」
玲奈は視線を逸らした。
カウンター端の席が目に入る。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日丁寧に拭いている席。
亮介は、神戸の男ではない。
けれど、玲奈の心に残っている男だった。
罪を犯し、玲奈を傷つけ、それでも「真人間になってもう一度あなたの前に現れてもいいですか」と言った男。
美海は、その事情を知らない。
だからこそ、無邪気に聞ける。
玲奈はしばらく考えて、ようやく答えた。
「神戸の男にも、いろいろいるわ」
美海は首をかしげる。
「それ、答えになってます?」
「なっています」
「なってないです」
「詳細な回答は差し控えます」
美海はぱっと笑った。
「玲奈さん、絶対なんかありましたね」
「閉店作業を続けます」
「あ、逃げた」
「業務優先です」
お笑いのようなやり取りだった。
けれど、玲奈の胸の奥には、少しだけ切なさが残った。
美海はこれから、島を出て、街を知り、人を好きになり、時には傷つくのだろう。
その全部を止めることはできない。
ただ、戻ってこられる場所や、話を聞いてくれる誰かがあることは、きっと支えになる。
閉店後、美海が帰ったあと、玲奈はいつものようにカウンター端の席を拭いた。
亮介の席。
外では、南ぬ島の夜風が木製看板を揺らしている。
玲奈は小さく呟いた。
「今日は、美海に神戸の男の人について聞かれたわ」
返事はない。
「答えに詰まった。情けないわね」
少しだけ、困ったように笑う。
「若い子は、これからいろんな街を見て、いろんな人に出会うのね。羨ましいような、心配なような」
玲奈は亮介の席をもう一度だけ丁寧に拭いた。
「あなたが帰ってきたら、美海の“相違ありませんか”を聞かせてあげる。きっと驚くわ」
少し間を置き、声をやわらげる。
「この店、少しずつ人が育つ場所にもなってきたみたい」
島カフェ「しおかぜ」は、黒糖プリンの店であり、帰らぬ男を待つ店であり、今では島の高校生が大都会を夢見る店にもなっていた。




