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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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台風で消えた看板――帰る場所は、何度でも立て直す

夏の南ぬ島は、美しいだけではない。


海は青く、空は高く、観光客はその明るさだけを見て帰っていく。

けれど島に暮らす者は知っている。

夏の終わりに近づく頃、海の向こうから巨大な渦がやってくることを。


その年の台風は、早くから島の人たちをざわつかせていた。


「今回は大きいさぁ」


常連のおばあは、黒糖プリンを食べながらそう言った。

地元のおじいも新聞を畳み、玲奈に忠告する。


「玲奈ちゃん、看板は早めにしまいなさい。あの木の看板、飛ばされたら危ないさぁ」


玲奈は静かに頷いた。


「対策します」


島カフェ「しおかぜ」は、開業以来、何度も強い風を受けてきた。

平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな白い店。

木製の看板は、玲奈がこの店を始めた日からずっと入口に立っていた。


潮風に晒され、日差しに焼かれ、雨に濡れ、少しずつ色が褪せていた。

けれどその褪せ方も、玲奈には愛しかった。


島カフェ しおかぜ


その文字を見るたび、玲奈は思い出す。

神戸の純喫茶「霧笛」で学んだ日々。

この島で初めて看板を出した朝。

客が来ない日々。

赤字の帳簿。

最初の常連。

最初に売り切れた黒糖プリン。


そして、まだ帰らぬ亮介のために、この店を守ろうと決めたこと。


台風前日、玲奈は店を早めに閉めた。


窓に養生テープを貼る。

入口の貝殻飾りを外す。

外の植木鉢を中へ入れる。

看板は、いつもの場所から外して店内へ入れようとした。


だが、固定金具が潮で固くなっていた。

若い地元の男性が手伝いに来てくれたが、風がすでに強くなっており、完全に外す前に作業を中断せざるを得なかった。


「玲奈さん、危ないです。明日明るくなってから見ましょう」


玲奈は迷った。

けれど、無理をして怪我をさせるわけにはいかない。


「分かりました」


その夜、台風は島を直撃した。


風は、建物を殴るように吹いた。

雨は窓を叩き、看板が軋む音が、店の奥まで聞こえた。

玲奈は懐中電灯を手元に置き、店内で一人、風が通り過ぎるのを待った。


何もできなかった。


警察官時代なら動けた。

戦隊ヒロイン時代なら指揮を執れた。

NSTのボスだった頃なら、逃げ道も対応策も読んだ。


だが、自然の前では、ただ待つしかなかった。


深夜、外で大きな音がした。


木が裂けるような音。

何かが飛ばされるような音。


玲奈は立ち上がったが、扉は開けなかった。

開けてはいけないことを知っていた。


朝になり、風が弱まった。


玲奈は店の外へ出た。


白い壁には泥が跳ね、花壇は崩れ、外に残っていた鉢は割れていた。

雨戸の一部も歪んでいる。

そして、入口の看板が倒れていた。


開業以来、苦楽を共にしてきた木製の看板は、真ん中から大きく割れていた。

文字の一部は削れ、角は欠け、支柱は折れている。


玲奈は、しばらくその場に立ち尽くした。


台風の被害としては、致命的ではない。

店は倒れていない。

中の設備も大きく壊れていない。

修理すれば、また営業できる。


頭では分かっていた。


それでも、胸の奥が崩れるようだった。


この看板は、ただの木ではなかった。

亮介がいつか帰ってきた時に、最初に見るはずだったものだった。

この店がここにあると、遠くからでも知らせるための目印だった。


玲奈は割れた看板に手を置いた。


「……ここまで来て」


声がかすれた。


「まだ、待たなあかんのに」


流石の玲奈も、心が折れかけた。


そこへ、軽トラの音がした。


振り返ると、常連のおじいが来ていた。

その後ろから、おばあたち、近所の若者、八重山そば屋のおばあ、農家の人たちが次々と集まってくる。


誰が呼んだわけでもない。


「玲奈ちゃん、大丈夫さぁ?」


「まず泥を出そう」


「割れた鉢はこっちさぁ」


「看板、まだ使えるところあるねえ」


玲奈は思わず言った。


「皆さん、今日はご自宅も大変でしょう」


おじいは笑った。


「うちも大変さぁ。でも、しおかぜも島の店だからねえ」


その言葉に、玲奈は何も返せなかった。


片付けは、自然に始まった。


若者たちが折れた枝を運び、農家の人が軽トラで廃材を出し、おばあたちが泥を掃き、玲奈は割れた店先の棚を直した。

手先の器用な玲奈は、簡単な修理ならできる。

貝殻飾りの紐を結び直し、歪んだ棚を補強し、割れた木片を選別していく。


問題は、看板だった。


完全に同じものを作ることはできない。

だが、捨てる気にはなれなかった。


玲奈は割れた看板の文字の残った部分を手に取る。

「しおかぜ」の「し」と「か」のあたりだけが、まだはっきり残っていた。


若い男性が言う。


「新しく作りましょう。でも、これ使えますよ。古い看板の一部を、飾りみたいに入れたらいい」


玲奈はその提案を聞いて、静かに頷いた。


「お願いします。私も手伝います」


そこから、新しい看板作りが始まった。


新しい木材を用意し、古い看板の破片を中央に埋め込む。

塗装は控えめに。

文字は玲奈が自分の手で書いた。

以前より少しだけ太く、風に負けないように。


おばあが横から言う。


「前のより、強そうさぁ」


玲奈は筆を置いた。


「少し、強くしました」


「玲奈ちゃんらしいねえ」


夕方、新しい看板が入口に立った。


島カフェ しおかぜ


新しい木の中に、古い看板の欠片が確かに残っている。

傷を隠すのではなく、抱えたまま立っている看板だった。


玲奈はそれを見上げた。


台風で壊れた。

けれど、なくなってはいない。

傷ついた部分を抱え、新しい形で立ち直った。


まるで、この店そのもののようだった。

まるで、亮介を待つ自分のようだった。


片付けを手伝った人たちは、黒糖ミルクや簡単な軽食を飲んで帰っていった。

「また明日来るさぁ」と笑いながら。


夜、ひとりになった「しおかぜ」で、玲奈はカウンター端の席を拭いた。


まだ帰らぬ亮介のための席。


外には、新しい看板が立っている。

台風の名残の風に、少しだけ揺れていた。


玲奈は窓越しに看板を見上げ、小さく呟いた。


「あなたが帰ってくる場所は、少し傷ついたけど、まだ立っているわ」


返事はない。


でもその夜、玲奈の声は折れていなかった。


「何度でも直すわ。店も、看板も、私の気持ちも」


南ぬ島の夜に、潮風が戻ってきた。

星はまだ雲の向こうだったが、「しおかぜ」の灯りは静かにともっていた。

帰る場所は、今日もここにある。

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