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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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旧盆のエイサーと、届かない手紙 ――島の夜に玲奈は少しだけ泣く

旧盆が近づくと、南ぬ島の空気は少し変わる。


観光客には、ただの夏の夕暮れに見えるかもしれない。けれど島に暮らす人々にとって、その数日は特別だった。家々では仏壇を整え、供え物を用意し、先祖を迎える準備をする。道端では子どもたちの声が弾み、集落の公民館からは太鼓の音が聞こえ始める。


八重山では、旧盆に先祖の霊を迎え、送り出す行事が大切にされている。仮面をつけた精霊たちが家々を訪れる古い芸能、三線の音、念仏踊り、島の言葉で交わされる挨拶。そこへ本島出身者や若い世代の文化も混じり、夜にはエイサーの太鼓が集落に響くこともある。


太鼓の音は、遠くからでも胸に届く。


ドン、ドン、と低く鳴るたびに、家へ帰る人たちの足取りが少しだけ早くなる。迎える人がいて、帰ってくる人がいる。生きている者も、もう亡くなった者も、その夜だけは同じ家の灯りの中に集まるようだった。


島カフェ「しおかぜ」も、その時期は少し忙しかった。


玲奈は差し入れ用に黒糖プリンを多めに仕込み、常連のおばあに頼まれて小さな焼き菓子も用意した。店先には、近所の子どもが持ってきた小さな提灯が揺れている。


「玲奈ちゃん、今夜は公民館の方に顔出しなさいね」


常連のおばあが言った。


「営業後に伺います」


「固い返事さぁ。ご先祖様もびっくりするよ」


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


夕方、店を早めに閉め、玲奈は黒糖プリンの箱を抱えて集落へ向かった。公民館の前には人が集まり、子どもたちは浴衣や島らしい軽装で走り回っている。三線の音が鳴り、年配の人たちは椅子に座って、若者たちのエイサーを見守っていた。


太鼓が鳴る。


夜の湿った空気に、音が丸く広がる。

玲奈はその輪の端に立ち、静かに見ていた。


おばあが隣に来て言う。


「旧盆はね、帰ってくる人を迎える日さぁ。遠くの人も、亡くなった人も、心だけは戻ってくる」


玲奈は何も言えなかった。


亮介からの手紙は、しばらく途絶えていた。


以前は、数か月に一度、不器用な文字の手紙が届いた。自分の罪と向き合っていること。真人間になる道は遠いこと。それでも嘘をつかない一日を積み重ねていること。


その言葉を、玲奈は何度も読み返した。


けれど、このところ手紙は来ない。


何かあったのか。

書けない事情があるのか。

それとも、書かないことを選んだのか。


玲奈は誰にも言わなかった。店はいつも通り開けた。黒糖プリンも仕込んだ。調書のように注文も取った。常連のおじい、おばあには、いつもの「しおかぜの玲奈ちゃん」でいた。


だが旧盆の夜だけは、少し堪えた。


島の人々は、帰ってくる人を迎えている。

家の灯りをつけ、料理を並べ、太鼓を鳴らし、祈るように夜を過ごしている。


玲奈だけが、まだ誰も迎えられない。


カウンター端の席は、今日も空いたまま。

入口と窓の両方が見える、まだ帰らぬ男のための席。

玲奈はその席を毎朝拭いている。けれど、扉はまだ開かない。


公民館の太鼓が、もう一度強く鳴った。


玲奈は少しだけ目を伏せた。


おばあは何も聞かなかった。ただ、そっと黒糖プリンの箱を受け取って言う。


「玲奈ちゃんも、ちゃんと食べなさい。待つにも力がいるさぁ」


その言葉が、優しすぎて痛かった。


夜遅く、玲奈は「しおかぜ」に戻った。


店内は静まり返っていた。昼間のコーヒーの香りと、黒糖の甘さがまだ少し残っている。外では遠くの太鼓が、もうかすかにしか聞こえない。


玲奈はカップを片づけ、明日の仕込みを確認し、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。


そこに、今日は何も置かなかった。


星砂の小瓶も、手紙も、島唐辛子の瓶も、少し脇へ寄せた。ただ空席のままにした。


玲奈はその席の前に立ち、静かに呟いた。


「今日は、みんな誰かを迎えていたわ」


返事はない。


「家族を迎える人。ご先祖様を迎える人。遠くから帰ってきた人を迎える人」


玲奈は椅子の背に手を置いた。


「私は、まだ誰も迎えられない」


声は小さかった。

けれど、その一言だけで胸がいっぱいになった。


「あなたからの手紙も、来ない」


責めるつもりはなかった。

亮介には亮介の時間がある。罪と向き合う時間、更生する時間、自分を作り直す時間。玲奈はそれを分かっている。


分かっているからこそ、待つことにした。


けれど、分かっていても寂しい夜はある。


「忘れていないって、前に書いてくれたでしょう」


玲奈は少しだけ笑おうとした。うまくいかなかった。


「だったら、たまには思い出させて。私はここにいるって」


涙が一粒だけ落ちた。

声を上げて泣くほどではない。崩れるほど弱くもない。

ただ、旧盆の夜の静けさに、心の奥の寂しさが少しだけこぼれた。


玲奈は涙を拭き、亮介の席をもう一度だけ撫でるように拭いた。


「帰ってこられないなら、せめて忘れないで」


外では、遠い太鼓の音が最後にひとつ響いた。


「私はここで、あなたの帰る灯りを消さずにいるから」


南ぬ島の旧盆の夜は、ゆっくり更けていく。

集落では家々の灯りがまだ温かく、誰かを迎えるための料理と祈りが残っている。


「しおかぜ」の灯りも、最後まで消えなかった。


玲奈は明日も店を開ける。

黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、島の客を迎える。

そして、まだ帰らぬ男の席を、いつも通り丁寧に拭く。


その席が空いていることは、寂しさであり、約束でもあった。

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