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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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八重山そば屋のおばあと、待ち人の話 ――帰ってこない男を責めない島の夜

南ぬ島の昼は、急に腹が減る。


海からの風を浴び、強い日差しの下で少し歩くと、不思議なほど身体が温かい汁ものを欲しがる。玲奈も石垣に来てから、それを覚えた。


島カフェ「しおかぜ」から少し車を走らせたところに、小さな八重山そば屋があった。


赤瓦風の屋根に、古びた暖簾。

店内には扇風機がゆっくり回り、昼時になると地元のおじい、おばあ、作業着の若者、観光客が入り混じる。大きな店ではないが、出汁の香りだけで人を引き寄せる力があった。


八重山そばは、沖縄そばとは少し違う。

丸みのある細めの麺に、澄んだ出汁。豚骨と鰹の旨味がやわらかく重なり、細切りの肉と蒲鉾が上に乗る。紅しょうがを少し添え、好みで島胡椒を落とすと、素朴な味の奥に、島の暮らしそのもののような深さが出る。


玲奈は定休日や仕込みの合間に、たまにその店へ行った。


「玲奈ちゃん、いつものね」


店を切り盛りしているおばあは、玲奈を見るとそう言った。


「はい。お願いします」


「相変わらず硬い返事さぁ」


おばあは笑い、湯気の立つ八重山そばを出す。


玲奈は静かに箸を取る。

一口すすると、身体の奥まで出汁が落ちていく。黒糖プリンや深煎りコーヒーとは違う、飾らない島の味だった。


そのおばあが、ある夕方、「しおかぜ」にやってきた。


店が一段落した時間だった。

観光客も引き、常連のおじいも帰り、店内には潮風とコーヒーの香りだけが残っていた。


「玲奈ちゃん、今日はこっちが客さぁ」


おばあは窓際に座った。


玲奈は水を置く。


「ご注文は」


「ブレンドと黒糖プリン。調書みたいに確認していいよ」


玲奈は少しだけ目元を緩めた。


「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。以上で相違ありませんか」


「相違ないさぁ」


おばあは笑った。


黒糖プリンをひと口食べると、おばあはゆっくり頷いた。


「これ、やっぱりいい味さぁ。甘いけど、待つ味がする」


玲奈は手を止めた。


「待つ味、ですか」


「うん。すぐに騒がない味。後から来る味さぁ」


おばあは窓の外を見た。

夕方の光が、店の床に長く伸びている。


「玲奈ちゃんも、誰か待ってるね」


玲奈は答えなかった。


この島の人たちは、踏み込まない。

過去を聞かない。

だが、何も見ていないわけではない。


おばあは、静かに続けた。


「うちの人もね、船乗りだったさぁ」


玲奈は黙って聞いた。


「若い頃は、何か月も帰ってこないのが普通。長い時は一年以上帰ってこなかった。手紙も届いたり届かなかったり。今みたいにすぐ連絡できる時代じゃないからねえ」


おばあは、少しだけ笑った。


「港で待って、帰ってこなくて、怒って、泣いて、それでも次の日にはご飯食べて、店を手伝って、また待つ。そういう暮らしだったさぁ」


玲奈は、カウンターの端の席を見る。


入口と窓の両方が見える席。

まだ帰らぬ亮介のために空けている席。


おばあの視線も、同じ場所へ向いた。


「うちの人はね、船だけじゃなかった。若い頃に悪さもして、長い服役もした」


玲奈は、初めておばあを見た。


おばあは穏やかな顔のままだった。


「待ったよ。周りには、あんな男やめなさいって言われた。帰ってきても苦労するだけって。でもね、待ってる女にしか分からないこともあるさぁ」


玲奈の胸が、静かに締めつけられた。


「どうして、待てたんですか」


その問いは、思ったより小さな声で出た。


おばあは、少し考えた。


「許したから待ったんじゃないよ」


玲奈は息を止める。


「罪が消えたからでもない。ええ男だったからでもない。ひどい男だった時もあるさぁ。でも、あの人が帰ってきた時、自分がどうするかを自分で決めたかった。人に言われて捨てるんじゃなく、自分の目で見て決めたかった」


玲奈は何も言えなかった。


おばあの言葉は、静かな刃のように胸に入ってきた。痛いのに、どこか温かかった。


「帰ってくるか分からない人を待つのは、馬鹿でしょうか」


玲奈は、ようやくそう聞いた。


おばあは笑った。


「馬鹿かどうかは、帰ってきた時に決めればいいさぁ」


そして、黒糖プリンをもう一口食べた。


「でもね、待ってる間に自分の暮らしをちゃんと作っていたら、それは馬鹿じゃない。待つだけで何もなくなる女はつらい。でも、待ちながら店を開けて、人にご飯を出して、自分の一日を生きている女は強いさぁ」


玲奈は、目を伏せた。


「強くはありません」


「強いよ。強くないと、毎朝同じ席を拭けないさぁ」


その一言で、玲奈はこらえた感情が揺れるのを感じた。


亮介が帰ってくる保証はない。

帰ってきても、二人がやり直せる保証もない。

それでも玲奈は、店を開け続けている。黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、島の客を迎え、カウンター端の席を拭く。


待つことは、止まることではない。

暮らし続けることなのだ。


おばあは帰り際、玲奈に小さな島唐辛子の瓶をくれた。


「うちの店のやつ。辛いよ。待つ暮らしにも、少し刺激がいるさぁ」


玲奈は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「玲奈ちゃん、待つなら、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと店を開けなさい。それが一番さぁ」


「はい」


その返事は、いつもの硬い返事ではなかった。


おばあが帰ると、「しおかぜ」は静かになった。


閉店後、玲奈はカウンターを拭き、カップを洗い、最後に亮介の席を丁寧に拭いた。

そして、そこに島唐辛子の小瓶を置いた。


夜の店内に、潮風が入る。

外では木製看板が小さく鳴っている。


玲奈は誰もいない席へ向かって、静かに呟いた。


「今日は、待ち方を教わったわ」


返事はない。


「許したから待つんじゃない。罪が消えたから待つんでもない。あなたが帰ってきた時に、自分の目で見て決めたいから……私は待っているのかもしれない」


玲奈は小瓶に触れた。


「待っている間に、私は私の暮らしを作る。店を開ける。黒糖プリンを仕込む。島の人たちにコーヒーを出す」


少しだけ声が震えた。


「だから、待ち続けるよ」


その言葉は、強くはなかった。

けれど、確かだった。


玲奈は涙をこぼさなかった。

ただ、胸の奥にある切なさを抱いたまま、亮介の席をもう一度だけ撫でるように拭いた。


「あなたが帰ってきた時、私はちゃんとここで暮らしている女でいたい」


南ぬ島の夜は静かだった。

八重山そばの出汁のように、じんわりと温かい言葉が、玲奈の胸に残っていた。


「しおかぜ」は、明日も開く。


待つ女は、明日も店主として朝を迎える。

帰ってこない男を責めるのではなく、自分の暮らしを守りながら、いつか扉が開く音を待つために。

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