星砂の小瓶と、返事のない席 ――しおかぜ店主は今日も一人分だけ空けておく
南ぬ島の午後は、光までゆっくりしている。
島カフェ「しおかぜ」の窓辺には、柔らかな日差しが差し込んでいた。平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな白い店。木製の看板は潮風に少し色を褪せ、入口の貝殻飾りは、風が吹くたびに小さく鳴る。
玲奈がこの店を開いて、もう二年以上が過ぎていた。
黒糖プリンはすっかり名物になり、地元のおじい、おばあ、観光客、ツーリング客、移住者たちが、ぽつぽつと足を止める店になった。
それでも、カウンターの端の席だけは、いつも少し違う空気をまとっていた。
入口と窓の両方が見える席。
玲奈が毎朝、誰よりも丁寧に拭く席。
まだ帰らぬ亮介のために、勝手に空けている席だった。
その日、近所に住む小学生の少女が「しおかぜ」にやってきた。
島の子らしく日焼けした頬に、大きな目。
手には小さなガラス瓶を持っていた。中には、白く細かな星砂が入っている。
「玲奈さん、これあげる」
玲奈はカウンター越しに瓶を受け取った。
「これは?」
「星砂。願いごとすると叶うって、おばあが言ってた」
少女は得意げに笑った。
「玲奈さん、いつも頑張ってるから。お願いしていいよ」
玲奈は小さな瓶を光にかざした。
星の形をした砂が、ガラスの中で淡くきらめく。
「ありがとう」
「何お願いするの?」
玲奈は少しだけ黙った。
願いなら、一つしかなかった。
大金が欲しいわけではない。
有名店になりたいわけでもない。
昔の肩書きを取り戻したいわけでもない。
ただ、亮介が罪と向き合い、嘘を脱ぎ捨て、もう一度まっすぐな目で自分の前に立つこと。
玲奈の願いは、それだけだった。
言葉にするなら、きっとこうだ。
あの人が、過去から逃げずに歩き切って、いつかこの店の扉を自分の手で開けてくれること。
けれど、玲奈はそれを少女には言わなかった。
少女は首をかしげる。
「ねえ、何をお願いしたの?」
玲奈は星砂の小瓶を手の中で包み、少しだけ目元を柔らかくした。
「教えたら、願いごとって叶わないんだよ」
少女は驚いた顔をして、それから真剣に頷いた。
「そっか。じゃあ聞かない」
「ありがとう」
「でも叶うといいね」
「ええ」
玲奈の声は、とても静かだった。
少女は黒糖プリンを食べ、宿題の話を少しして、夕方の光の中を帰っていった。
その小さな背中を見送りながら、玲奈は星砂の瓶をカウンターの端に置いた。
亮介の席の前だった。
常連のおばあが、それに気づく。
「玲奈ちゃん、かわいいの置いたねえ」
「いただきものです」
「お願いごとかね?」
玲奈は短く答える。
「営業上の秘密です」
おばあは笑った。
「また硬いこと言うさぁ」
その日は、いつも通りに過ぎていった。
おじいがブレンドを飲み、観光客が黒糖プリンを写真に撮り、玲奈は調書のように注文を確認し、夕方には店先の草花に水をやった。
すべてが穏やかだった。
けれど、閉店後の「しおかぜ」は、昼間とは違う顔を見せる。
店内の灯りを少し落とすと、カウンターの木目が深く沈み、窓の外には南ぬ島の夜が広がる。潮風が木製看板を揺らし、遠くで波の音がする。
玲奈は最後に、亮介の席を拭いた。
そして、その席の前に星砂の小瓶を置く。
小さな星が、ガラスの中で眠っていた。
「願いごとは一つだけで十分ね」
玲奈は誰もいない席へ向かって呟く。
返事はない。
それでも玲奈は続けた。
「あなたが帰ってくるまで、私はここで願いごとを増やしすぎないようにするわ」
声は静かだった。
少しだけ、切なかった。
願いが増えれば、欲張りになる。
早く帰ってきてほしい。
忘れないでほしい。
自分だけを見てほしい。
もう二度と傷つけないでほしい。
できることなら、何もなかったように笑ってほしい。
本当は、いくらでも願いは浮かぶ。
けれど玲奈は、それをひとつに絞る。
亮介が真人間になって、自分の前に現れること。
その日、彼が胸を張れなくてもいい。
完璧でなくてもいい。
ただ、逃げずにこの店の扉を開けてくれること。
それだけでいい。
玲奈は星砂の小瓶を指先でそっと撫でた。
「あなたが帰ってきたら、この瓶のことを話すわ」
少し間を置く。
「その時、願いが叶ったかどうか、二人で確認しましょう」
誰もいない店内に、黒糖プリンの甘い香りがわずかに残っている。
玲奈は、星砂の小瓶を亮介の席の端に置いたまま、カウンターの灯りを落とした。
南ぬ島の夜は静かだった。
星砂の小瓶は、小さな灯台のように、返事のない席で淡く光っている。
玲奈は明日も店を開ける。
黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、客を迎え、調書のように注文を取り、そして夜にはまたこの小瓶を見つめる。
願いごとは、ひとつだけ。
帰ってくるかどうか分からない男を待ちながら、玲奈は今日も、一人分だけ席を空けておく。




