冬の島を走る女たち、しおかぜで足を止める ――競輪の脚と遠州のエンジンが、帰らぬ男の席を見つめた日
南ぬ島・石垣の冬は、本土の冬とは違っていた。
雪は降らない。吐く息も白くならない。けれど、海から吹く風には少しだけ涼しさが混じり、夏のざわめきが遠のいた分だけ、島の輪郭がくっきり見える季節だった。
地元の人たちは、よく知っている。
「冬の晴れた日は、走るにはちょうどいいさぁ」
平久保岬へ向かう幹線道路沿いの島カフェ「しおかぜ」にも、そんな穏やかな冬の光が差し込んでいた。
玲奈がこの店を開いて、もう二年以上になる。白い壁も、木製の看板も、入口で鳴る小さな貝殻飾りも、すっかり島の風景に馴染んでいた。黒糖プリンは名物になり、地元のおじい、おばあは昼下がりにコーヒーを飲みに来る。観光客も、平久保岬へ向かう前に「しおかぜ」で少し足を止めるようになった。
その日、店の前に一台のロードバイクが静かに停まった。
降りてきたのは、大西結月だった。
元女子競輪選手。怪我と成績低迷によって競輪の世界を退いたが、その脚力と判断力は今も健在で、戦隊ヒロイン時代にはスポット起用の代打の切り札として、玲奈が何度も頼りにした女だった。
結月はサイクルジャージ姿で、少し日に焼けた頬に冬の島風を受けていた。
「玲奈さん、お久しぶりです」
玲奈はカウンターの中で、少しだけ目元を緩めた。
「いらっしゃいませ。あなたらしい格好ね」
「休暇を使って、島を一周してるんです。じっとしてる方が疲れるんで」
結月は笑って、ヘルメットを椅子の横に置いた。
玲奈は水を出し、伝票を取る。
「ご注文は」
「アイスコーヒーと黒糖プリンをお願いします」
「ご注文を確認します。アイスコーヒー一点、黒糖プリン一点。運動後の糖分補給として妥当です。以上で相違ありませんか」
結月は吹き出した。
「補給目的まで確認されるんですね」
「体力消耗後の糖分補給は重要です」
「競輪場のトレーナーより堅いです」
玲奈は平然と黒糖プリンを出した。
結月は一口食べ、深く息を吐いた。
「うまいなあ……これ、走った後に効きますね」
その表情は、かつての競輪選手の顔ではなかった。
今はもう、別の道を走っている女の顔だった。
結月は競輪を離れたあと、スポーツジムで怪我防止のストレッチを教えたり、イベントで自転車安全教室を担当したりしている。競技の世界からは降ろされた。けれど、脚はまだ誰かの役に立っている。
玲奈は、そんな結月を見ながら言った。
「島を一周するなら、北側の道は風を読んだ方がいいわ。午後は向かい風になることが多い」
「さすが玲奈さん。もう完全に地元の人ですね」
「まだ修行中です」
玲奈は地図を出し、地元客に教わったサイクリング向きの道を説明した。
観光客がよく通るルートではなく、風向きによって走りやすい海沿いの道。夕方に光が綺麗な坂。補給に使える小さな商店。急に路面が荒れる場所。観光マップには大きく出ていないが、地元の人が「ここで休むと気持ちいいさぁ」と教えてくれた木陰。
結月は真剣にメモを取った。
「玲奈さん、カフェ店主というよりサポートカーですね」
「安全な走行のための情報提供です」
「そういうところ、変わりませんね」
結月は嬉しそうに笑った。
出発前、結月は店の外でロードバイクにまたがりながら言った。
「ここ、いい店ですね。いつまでも開けていてほしいです」
玲奈は一瞬だけ黙った。
「努力します」
結月は小さく頷き、冬の島道へ走り出していった。
ペダルを踏む背中は軽く、どこか自由だった。
数日後、今度は低く乾いたエンジン音が「しおかぜ」の前で止まった。
入ってきたのは、河合美音だった。
遠州の勇者。
浜松市在住。大型自動二輪と船舶免許を持ち、海でも陸でも任務をこなしたクールビューティー。NSTのサポートメンバーとして、玲奈が高く評価していた女である。
黒っぽいライディングジャケットを脱いだ美音は、相変わらず表情をあまり変えなかった。
「離島巡りの途中です。バイクを船に乗せて、あちこち回っています」
玲奈は水を置く。
「あなたらしい旅ね」
「じっとしているのは、あまり得意ではないので」
その言葉に、玲奈は数日前の結月を思い出し、ほんの少しだけ口元を緩めた。
美音はブレンドと黒糖プリンを頼んだ。
玲奈はいつも通り、調書のように注文を確認する。美音はそれを聞いても驚かない。ただ静かに頷いた。
「変わっていませんね」
「確認は重要です」
「はい」
短い返事。
その無駄のなさが、昔の任務中と少し似ていた。
玲奈は美音にも、観光客向けではない道を教えた。
バイクで走ると気持ちのいい海沿いの道。夕暮れの空が美しい小さな展望場所。島の人が大げさに宣伝しない静かな浜。
ただし、私有地に近い場所や生活道路には入らないよう、きっちり釘を刺す。
「写真を撮るなら、ここまで。これ以上は地元の人の生活圏です」
美音は静かに頷く。
「了解です」
玲奈は地図に印をつけ、さらに風が強い区間、砂が浮きやすいカーブ、夕方に軽トラが多い道まで説明した。
美音は黒糖プリンを一口食べ、少しだけ目を細める。
「いい味ですね。派手ではないけど、残る味です」
「ありがとう」
「この店も、玲奈さんらしいです」
「そう?」
「はい。静かだけど、必要な時には逃げ場になる感じがします」
玲奈は返事をしなかった。
けれど、その言葉は胸に残った。
美音は会計を済ませ、ヘルメットを手にした。
「南ぬ島、気に入りました。また来ます。だから、店は続けていてください」
玲奈は、少しだけ間を置いて答えた。
「努力します」
「玲奈さんの努力なら、信用できます」
美音はそれだけ言うと、バイクのエンジンをかけた。
低い音が冬の島風に混じり、やがて海沿いの道へ消えていった。
夕暮れの「しおかぜ」は静かだった。
走る女たちが去ったあと、店には深煎りコーヒーの香りと、黒糖プリンの甘さだけが残った。
玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日空けている席だった。
外では、木製看板が冬の島風に小さく鳴っている。
玲奈はその席に向かって、静かに呟いた。
「今日は結月が来て、この前は美音が来たわ。二人とも、相変わらず走っていた」
返事はない。
「この店を、いつまでも開けていてほしいって言われた」
玲奈はカウンターに手を置いた。
店の経営は軌道に乗った。
黒糖プリンも評判になった。
地元にも受け入れられた。
けれど、店を続けるということは、毎日小さな努力を積み重ねることだった。
台風も来る。
客足が鈍る月もある。
仕入れの値段が上がる日もある。
体調を崩す日もある。
そして、夜になるとふいに、ひとりで待ち続けている事実が胸に重く沈む日もある。
亮介が帰ってくる日まで、本当に守り切れるのだろうか。
玲奈は、まだ空いたままの席を見つめた。
「いつまで続けられるかな」
それは弱音ではなかった。
遠い男を待つ女の、正直な独り言だった。
少し間を置いて、玲奈は続けた。
「でも、あなたが帰ってきた時に、この席がなかったら困るものね」
玲奈は亮介の席をもう一度だけ丁寧に拭いた。
「だから明日も開けるわ。黒糖プリンも仕込む。結月みたいに走って、美音みたいに進む人たちが、途中で少し休めるように」
冬の南ぬ島は、静かだった。
走る女たちはまた旅へ戻り、待つ女は店に残る。
それぞれの道は違っても、今日だけは同じ黒糖プリンの前で交差した。
島カフェ「しおかぜ」は、明日も小さく灯る。
まだ帰らぬ男のために。
そして、走り続ける誰かがふと足を止められる場所であるために。




