清楚な春風、女王様の卒業旅行 ――女子アナ前夜のさつきは、黒糖プリンの島で二つの顔を見せる
玲奈が南ぬ島・石垣に島カフェ「しおかぜ」を開いて、二年以上が過ぎていた。
平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな白い店は、もう島の風景の一部になっている。地元のおじい、おばあが昼下がりに黒糖プリンを食べに来る。観光客が深煎りのコーヒーを飲みに来る。玲奈は今日も、調書のような注文取りで初めての客を少し緊張させながら、静かに店を切り盛りしていた。
戦隊ヒロインとして走り回っていた日々は、もう遠い昔のようだった。
兵庫県警からの出向。
華やかなイベントステージ。
戦闘任務。
そして、誰にも知られず兵庫県を影から守っていた隠密活動。
その最後の活動の存在を知っていたのは、ほんの限られた者だけだった。三好さつきも知らない。さつきにとって玲奈は、戦隊ヒロイン時代に時々現場で一緒になった、冷静で頼れる先輩であり、言葉の選び方や立ち居振る舞いを教えてくれた人だった。
二月下旬から三月上旬。
石垣の風には、冬の名残と春の気配が混じっていた。
その午後、「しおかぜ」の扉が静かに開いた。
「玲奈さん、お久しぶりです」
入ってきたのは、三好さつきだった。
徳島県出身。長い黒髪と長身が印象的な、清楚な雰囲気の人気戦隊ヒロイン。関西の名門私大に通いながら、兵庫県の県域放送局で情報番組のキャスターも務めていた。落ち着いた声、品のある笑顔、視聴者に寄り添う話し方で人気を集め、雑誌の「好きな女性キャスターランキング」でも上位に入るほどになっていた。
玲奈は少しだけ目を細める。
「卒業旅行?」
「はい。大学の卒業旅行です」
さつきは柔らかく微笑んだ。
「四月からは、夢だった在京キー局のアナウンサーになります。予定通り、戦隊ヒロインも卒業することになりました」
その横には、若い男性が立っていた。
玲奈は一瞬、心の中で首を傾げる。
以前、神戸の純喫茶「霧笛」でさつきと一緒に来ていた医学部生とは、まったく違う男性だった。
もちろん、玲奈は表情に出さない。
だが、元警察官の観察眼はまだ衰えていない。
さつきは、相変わらず礼儀正しかった。
「玲奈さんには、戦隊ヒロイン時代に本当にお世話になりました。私は現場経験も少なくて、最初はどう振る舞えばいいのか分からないことばかりでした。でも玲奈さんが、言葉の選び方や、場の空気の読み方を教えてくださって」
玲奈は静かに返す。
「あなたは元々、話す力があったわ。私は少し助言しただけ」
「その“少し”が大きかったんです」
さつきは丁寧に頭を下げる。
玲奈は珍しく、少し嬉しそうだった。
「ご注文は」
「ブレンドと黒糖プリンを二つお願いします」
玲奈は伝票を取る。
「ご注文を確認します。ブレンド二点、黒糖プリン二点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」
さつきはくすっと笑った。
「玲奈さん、そこは変わらないんですね」
「確認は重要です」
常連のおばあが横から言う。
「玲奈ちゃん、今日も調書さぁ」
さつきは上品に笑う。
「それも玲奈さんらしさですね」
ここまでは、誰が見ても清楚で礼儀正しい人気キャスターだった。
だが、恋人に対する態度は少し違った。
「そこ、荷物置かないで。通路の邪魔になるから」
「うん」
「写真撮るなら、角度考えて。逆光で髪が重く見えるでしょ」
「ごめん」
「あと、次は川平湾って言ったよね。時間、ちゃんと見てる?」
「見てるよ」
「見てるだけじゃなくて、管理して」
玲奈はカウンターの中で、コーヒーを淹れながら無言で聞いていた。
清楚な笑顔。
丁寧な言葉遣い。
だが恋人には、かなり高圧的。完全に主導権を握っている。女王様と言ってもいい。
さつきは玲奈や他の客には、あくまで礼儀正しく振る舞う。おばあには席を譲り、観光客にはにこやかに会釈し、黒糖プリンには「上品な甘さですね」と丁寧な感想を述べる。
その直後、恋人には小声で言う。
「食べるの遅い。次の予定、詰まってるんやから」
玲奈は少しだけ眉を動かす。
さつきの男性関係が、見た目の清楚さほど落ち着いていないことは、なんとなく知っていた。真面目で礼儀正しく、努力家で、仕事への意識も高い。だが恋愛になると、どこか気まぐれで、相手を振り回すところがある。
完璧に見える人間にも、癖はある。
玲奈はそう思った。
黒糖プリンを食べ終えたさつきは、満足そうに微笑んだ。
「本当に美味しいです。玲奈さんのお店、すごく素敵ですね。神戸の霧笛とはまた違う、静かな強さがあります」
「ありがとう」
「いつか、しおかぜの取材に来てもいいですか?」
玲奈は一瞬だけ黙った。
「うちは取材はすべて断っているけど」
さつきの表情が少しだけ曇る。
玲奈は続けた。
「さつきの取材なら、いいかな」
さつきの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ただし、店の空気を壊さないこと。常連客を無断で映さないこと。私の過去を売り物にしないこと」
「もちろんです。玲奈さんが大事にしているものは、ちゃんと守ります」
その言葉は、嘘ではなかった。
さつきは、仕事では本当に真面目だ。
そこは玲奈も信頼していた。
だが次の瞬間、さつきは恋人へ振り向く。
「ほら、行くよ。荷物持って。あと会計、あなたが払って」
恋人は慌てて財布を出す。
常連のおばあが小声で言った。
「きれいなお姉さん、強いさぁ」
玲奈は聞こえないふりをした。
会計を終え、帰り際、さつきは改めて玲奈へ頭を下げた。
「玲奈さん、また来ます。次は取材で」
「お待ちしています。四月から、頑張って」
「はい。必ず」
その時のさつきは、まぎれもなく清楚で礼儀正しい、夢へ向かう若い女性だった。
だが店を出る直前、恋人にはまた小声で言う。
「レンタカーの鍵、ちゃんと持った? もう忘れ物しないでね」
玲奈は少しだけ目元を緩めた。
華やかな未来へ向かう女。
仕事では礼儀正しく、努力家で、賢い。
恋愛では少し奔放で、相手を支配しがち。
その二面性も含めて、三好さつきなのだろう。
閉店後、「しおかぜ」は静かになった。
玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日空けている席だった。
そこへ向かって、小さく呟く。
「今日は、さつきが来たわ」
返事はない。
石垣の夜風が、木製看板を揺らしている。
「真面目で、礼儀正しくて、いい子なの。四月から夢だった女子アナになるんですって。きっと人気者になるわ」
玲奈は少し間を置く。
「でも……ちょっと男性にはだらしないんやな」
そう言ってから、ほんの少し笑った。
「完璧な人間なんて居らんわな」
その言葉は、亮介へ向けたものでもあり、自分自身へ向けたものでもあった。
罪を犯した男を待つ女。
華やかな過去を隠して島で暮らす女。
冷静な顔をしながら、時々ひどく寂しくなる女。
誰も完璧ではない。
だからこそ、人は誰かを待ったり、許そうとしたり、また傷ついたりする。
玲奈は亮介の席をもう一度だけ拭いた。
「あなたも、完璧じゃない。私も、たぶん完璧じゃない」
夜のしおかぜに、黒糖プリンの甘い香りが少しだけ残っている。
「それでも、帰ってきたらコーヒーくらいは出すわ。調書みたいに注文は取るけど」
玲奈は灯りを落とす前に、窓の外の星を見た。
春は近い。
旅立つ者がいて、待ち続ける者がいる。
南ぬ島の小さなカフェは、今日も誰かの節目を静かに見送っていた。




