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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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霧笛の師匠、しおかぜを訪ねる――黒糖プリンと、まだ遠い男からの手紙

南ぬ島・石垣に、岡本玲奈が島カフェ「しおかぜ」を開いて一年余りが過ぎた。


最初の頃は、潮風ばかりが客のように通り抜けていた。平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな白い店は、市街地から少し遠く、観光客が偶然見つけるには控えめすぎた。玲奈は毎朝、木製の看板を出し、黒糖プリンを仕込み、誰も来ない時間にカウンターを磨いていた。


だが、今は違う。


地元のおじいが新聞を片手にブレンドを飲みに来る。おばあたちは黒糖プリンを半分ずつ分け合いながら畑の話をする。平久保岬へ向かう観光客が「噂の黒糖プリンを」と扉を開ける。レジ横の玲奈手作りの貝殻チャームや布コースターも、旅の記念に買われていく。


大繁盛ではない。

けれど、ちゃんと続いている。


それが玲奈には、何より嬉しかった。


その日の午後、店の扉が静かに開いた。


「玲奈ちゃん、来たよ」


その声を聞いた瞬間、玲奈の手が止まった。


神戸港近くの純喫茶「霧笛」の女主人だった。


玲奈は一瞬だけ目を見開いた。

すぐにいつもの落ち着いた顔へ戻ろうとしたが、わずかに失敗した。目元が、ほんの少し柔らかくなっていた。


「……いらっしゃいませ」


女主人は笑いながら店内へ入ってきた。


「まあ、ほんまに店主さんになってるやないの」


女主人はゆっくり店内を見渡した。


アンティーク調の椅子。

小さなランプ。

石垣の海を写した額。

神戸の霧笛から持ってきた古い港の写真。

ミンサー柄の布小物。

玲奈が作った貝殻のチャーム。

窓から入る潮風。


派手ではない。

だが、静かで品がある。


「ええ店やねえ」


女主人は、しみじみと言った。


「玲奈ちゃんのセンスが光ってる。霧笛とは違う。でも、ちゃんと霧笛の血も流れてるわ」


玲奈は少しだけ視線を落とした。


「ありがとうございます」


短い返事だったが、その声には誇らしさが混じっていた。


女主人はカウンター席に座った。


「ほな、注文してええ?」


玲奈は伝票を手に取った。


神戸の霧笛で修行していた頃、玲奈は何度も女主人から客への接し方を教わった。コーヒーの淹れ方、プリンの火加減、常連客との距離、困った客への線の引き方。

けれど、師匠である女主人から注文を取るのは、これが初めてだった。


玲奈は真剣な顔で言った。


「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。追加注文の有無は食後に確認。以上で相違ありませんか」


女主人は黙った。


それから、深いため息をついて笑った。


「そこは、やっぱり直らんかったか」


玲奈は少しだけ眉を寄せる。


「確認は重要です」


「分かってる。分かってるけど、やっぱり調書やねえ」


カウンターの端にいた常連のおばあが、すかさず笑う。


「この子、いつもこれさぁ。黒糖プリン頼むだけで、警察に呼ばれた気分になるさぁ」


女主人は手を叩いて笑った。


「神戸でもこれやったわ。石垣まで来ても治らんもんは治らんねえ」


玲奈は不服そうにコーヒー豆を挽いた。


「接客は、現在も改善中です」


「一生改善中でええよ。それも玲奈ちゃんの味や」


コーヒーが落ちる音が、店内に静かに広がる。


玲奈はブレンドを出し、続いて黒糖プリンを置いた。

霧笛プリンを土台に、石垣の黒糖で深みを出した「しおかぜ」の名物である。


女主人はスプーンを入れ、一口食べた。


玲奈は無言で待った。

その目つきは、まるで重要証言を待つ取調官のようだった。


女主人はしばらく黙っていた。


「……これは」


玲奈の背筋が、わずかに伸びる。


「霧笛プリンより、美味しいかもしれんねえ」


玲奈の表情が、ほんの少しだけ動いた。


「本当ですか」


女主人はにやりと笑った。


「さあ。社交辞令かもしれんよ」


「判断に困ります」


「困っときなさい。師匠としては、弟子が師匠を超えたかもしれんと思うくらいが、ちょうどええんよ」


玲奈は返事をしなかった。


けれど、その横顔は少しだけ誇らしそうだった。


二人は、閉店近くまで話した。


霧笛の常連たちのこと。

神戸港の夕暮れのこと。

彩香やあかりたちが今も時々霧笛へ顔を出すこと。

玲奈の接客が石垣でも調書扱いされていること。

そして、「しおかぜ」がちゃんと島に馴染んできたこと。


女主人は、帰り際に玲奈の手を軽く叩いた。


「玲奈ちゃん、ええ顔になったね」


「そうでしょうか」


「うん。昔より、待つことが上手になった顔や」


玲奈は言葉に詰まった。


女主人は、それ以上聞かなかった。

昔からそうだった。必要以上に踏み込まず、けれど大事なところだけはちゃんと見ている。


扉の前で、女主人は振り返った。


「玲奈ちゃん、またね」


そう言って、颯爽と帰っていった。


神戸の霧笛の匂いを、少しだけ残して。


その夜、閉店後の「しおかぜ」は静かだった。


玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。入口と窓の両方が見える席。まだ帰らぬ亮介のために、毎朝磨いている席だった。


その時、郵便物の中に一通の手紙を見つけた。


差出人の名を見た瞬間、玲奈の指先が止まった。


水野亮介。


玲奈はしばらく封筒を見つめていた。

それから、ゆっくり椅子に座り、封を切った。


誰もいない店内で、玲奈はその手紙を小さく読み上げた。


そこには、亮介の近況が書かれていた。

自分の罪と向き合っていること。

真人間になるという言葉が、思っていたよりずっと重いこと。

簡単には変われない自分に、何度も嫌気が差すこと。

それでも、嘘をつかない一日を少しずつ積み重ねていること。


そして、最後に短く書かれていた。


あなたが作ってくれた帰る場所に、いつか胸を張って行ける男になります。まだ遠いですが、忘れていません。


玲奈は手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


忘れていなかった。


その一文だけで、胸の奥が熱くなった。


涙がこぼれそうになり、玲奈は慌てて目を伏せた。

けれど一粒だけ、指先に落ちた。


「……遅いわよ」


小さく呟いた。


責める声ではなかった。

待ち続けている女の、少し拗ねたような声だった。


玲奈は手紙を亮介の席に置いた。


「しおかぜは、続いているわ。師匠にも褒められた。黒糖プリンは、霧笛プリンより美味しいかもしれないって」


少しだけ笑う。


「本当かどうかは、不明だけど」


外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。

神戸から来た師匠は帰り、遠い男からの手紙だけが残った。


玲奈は手紙を胸に抱いた。


まだ、帰ってこない。

まだ、遠い。

けれど、彼は忘れていなかった。


その事実だけで、明日もまた店を開けられる気がした。


島カフェ「しおかぜ」は、今日も誰かを迎え、誰かを待つ。

霧笛の師匠に認められた女は、南ぬ島で、まだ帰らぬ男の席を守り続けていた。

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