霧笛の師匠、しおかぜを訪ねる――黒糖プリンと、まだ遠い男からの手紙
南ぬ島・石垣に、岡本玲奈が島カフェ「しおかぜ」を開いて一年余りが過ぎた。
最初の頃は、潮風ばかりが客のように通り抜けていた。平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな白い店は、市街地から少し遠く、観光客が偶然見つけるには控えめすぎた。玲奈は毎朝、木製の看板を出し、黒糖プリンを仕込み、誰も来ない時間にカウンターを磨いていた。
だが、今は違う。
地元のおじいが新聞を片手にブレンドを飲みに来る。おばあたちは黒糖プリンを半分ずつ分け合いながら畑の話をする。平久保岬へ向かう観光客が「噂の黒糖プリンを」と扉を開ける。レジ横の玲奈手作りの貝殻チャームや布コースターも、旅の記念に買われていく。
大繁盛ではない。
けれど、ちゃんと続いている。
それが玲奈には、何より嬉しかった。
その日の午後、店の扉が静かに開いた。
「玲奈ちゃん、来たよ」
その声を聞いた瞬間、玲奈の手が止まった。
神戸港近くの純喫茶「霧笛」の女主人だった。
玲奈は一瞬だけ目を見開いた。
すぐにいつもの落ち着いた顔へ戻ろうとしたが、わずかに失敗した。目元が、ほんの少し柔らかくなっていた。
「……いらっしゃいませ」
女主人は笑いながら店内へ入ってきた。
「まあ、ほんまに店主さんになってるやないの」
女主人はゆっくり店内を見渡した。
アンティーク調の椅子。
小さなランプ。
石垣の海を写した額。
神戸の霧笛から持ってきた古い港の写真。
ミンサー柄の布小物。
玲奈が作った貝殻のチャーム。
窓から入る潮風。
派手ではない。
だが、静かで品がある。
「ええ店やねえ」
女主人は、しみじみと言った。
「玲奈ちゃんのセンスが光ってる。霧笛とは違う。でも、ちゃんと霧笛の血も流れてるわ」
玲奈は少しだけ視線を落とした。
「ありがとうございます」
短い返事だったが、その声には誇らしさが混じっていた。
女主人はカウンター席に座った。
「ほな、注文してええ?」
玲奈は伝票を手に取った。
神戸の霧笛で修行していた頃、玲奈は何度も女主人から客への接し方を教わった。コーヒーの淹れ方、プリンの火加減、常連客との距離、困った客への線の引き方。
けれど、師匠である女主人から注文を取るのは、これが初めてだった。
玲奈は真剣な顔で言った。
「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。追加注文の有無は食後に確認。以上で相違ありませんか」
女主人は黙った。
それから、深いため息をついて笑った。
「そこは、やっぱり直らんかったか」
玲奈は少しだけ眉を寄せる。
「確認は重要です」
「分かってる。分かってるけど、やっぱり調書やねえ」
カウンターの端にいた常連のおばあが、すかさず笑う。
「この子、いつもこれさぁ。黒糖プリン頼むだけで、警察に呼ばれた気分になるさぁ」
女主人は手を叩いて笑った。
「神戸でもこれやったわ。石垣まで来ても治らんもんは治らんねえ」
玲奈は不服そうにコーヒー豆を挽いた。
「接客は、現在も改善中です」
「一生改善中でええよ。それも玲奈ちゃんの味や」
コーヒーが落ちる音が、店内に静かに広がる。
玲奈はブレンドを出し、続いて黒糖プリンを置いた。
霧笛プリンを土台に、石垣の黒糖で深みを出した「しおかぜ」の名物である。
女主人はスプーンを入れ、一口食べた。
玲奈は無言で待った。
その目つきは、まるで重要証言を待つ取調官のようだった。
女主人はしばらく黙っていた。
「……これは」
玲奈の背筋が、わずかに伸びる。
「霧笛プリンより、美味しいかもしれんねえ」
玲奈の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「本当ですか」
女主人はにやりと笑った。
「さあ。社交辞令かもしれんよ」
「判断に困ります」
「困っときなさい。師匠としては、弟子が師匠を超えたかもしれんと思うくらいが、ちょうどええんよ」
玲奈は返事をしなかった。
けれど、その横顔は少しだけ誇らしそうだった。
二人は、閉店近くまで話した。
霧笛の常連たちのこと。
神戸港の夕暮れのこと。
彩香やあかりたちが今も時々霧笛へ顔を出すこと。
玲奈の接客が石垣でも調書扱いされていること。
そして、「しおかぜ」がちゃんと島に馴染んできたこと。
女主人は、帰り際に玲奈の手を軽く叩いた。
「玲奈ちゃん、ええ顔になったね」
「そうでしょうか」
「うん。昔より、待つことが上手になった顔や」
玲奈は言葉に詰まった。
女主人は、それ以上聞かなかった。
昔からそうだった。必要以上に踏み込まず、けれど大事なところだけはちゃんと見ている。
扉の前で、女主人は振り返った。
「玲奈ちゃん、またね」
そう言って、颯爽と帰っていった。
神戸の霧笛の匂いを、少しだけ残して。
その夜、閉店後の「しおかぜ」は静かだった。
玲奈はカップを洗い、テーブルを拭き、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。入口と窓の両方が見える席。まだ帰らぬ亮介のために、毎朝磨いている席だった。
その時、郵便物の中に一通の手紙を見つけた。
差出人の名を見た瞬間、玲奈の指先が止まった。
水野亮介。
玲奈はしばらく封筒を見つめていた。
それから、ゆっくり椅子に座り、封を切った。
誰もいない店内で、玲奈はその手紙を小さく読み上げた。
そこには、亮介の近況が書かれていた。
自分の罪と向き合っていること。
真人間になるという言葉が、思っていたよりずっと重いこと。
簡単には変われない自分に、何度も嫌気が差すこと。
それでも、嘘をつかない一日を少しずつ積み重ねていること。
そして、最後に短く書かれていた。
あなたが作ってくれた帰る場所に、いつか胸を張って行ける男になります。まだ遠いですが、忘れていません。
玲奈は手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
忘れていなかった。
その一文だけで、胸の奥が熱くなった。
涙がこぼれそうになり、玲奈は慌てて目を伏せた。
けれど一粒だけ、指先に落ちた。
「……遅いわよ」
小さく呟いた。
責める声ではなかった。
待ち続けている女の、少し拗ねたような声だった。
玲奈は手紙を亮介の席に置いた。
「しおかぜは、続いているわ。師匠にも褒められた。黒糖プリンは、霧笛プリンより美味しいかもしれないって」
少しだけ笑う。
「本当かどうかは、不明だけど」
外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。
神戸から来た師匠は帰り、遠い男からの手紙だけが残った。
玲奈は手紙を胸に抱いた。
まだ、帰ってこない。
まだ、遠い。
けれど、彼は忘れていなかった。
その事実だけで、明日もまた店を開けられる気がした。
島カフェ「しおかぜ」は、今日も誰かを迎え、誰かを待つ。
霧笛の師匠に認められた女は、南ぬ島で、まだ帰らぬ男の席を守り続けていた。




