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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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一年目の潮風、帰らぬ男の席――しおかぜの玲奈ちゃんは、今日も静かに店を開ける

南ぬ島・石垣に、玲奈がカフェを開いて一年余りが過ぎた。


平久保岬へ向かう幹線道路沿いに、小さな白い店がある。木製の看板には、控えめな文字でこう書かれていた。


島カフェ しおかぜ


けれど、地元の常連たちはもう正式名では呼ばない。


「昼過ぎに、しおかぜ寄るさぁ」

「玲奈ちゃんの黒糖プリン、今日はまだあるかねえ」

「平久保行く前に、しおかぜで休んでいこう」


それだけで、誰もが分かった。


開業当初の「しおかぜ」は、潮風ばかりが通り抜ける静かな店だった。帳簿には赤字が並び、玲奈はカウンターの端の席を拭きながら、まだ帰らぬ男へ向かって「この店、続けられるのかしら」と小さく呟いた。


だが、一年経った今、店は島に馴染んでいた。


黒糖プリンは名物になった。深煎りのコーヒーは、おじいたちの昼下がりに欠かせないものになった。レジ横に並ぶ玲奈手作りの貝殻チャームや布コースターも、観光客が時々買っていく。


そしてもう一つ、名物があった。


玲奈の注文取りである。


「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」


初めて来た観光客は、たいてい一瞬だけ背筋を伸ばす。

常連のおばあは、もう慣れた顔で笑った。


「玲奈ちゃん、今日も調書取ってるさぁ」


玲奈は真顔で返す。


「確認は重要です」


「それも、しおかぜの味さぁ」


店内に小さな笑いが広がる。

その笑いの中で、玲奈は少しだけ目元を緩める。本人は笑っていないつもりだが、常連たちはもう見抜いていた。


玲奈は美しい女だった。


涼しいアーモンドアイ。

長い黒髪を清潔に束ねた姿。

華美ではない黒のシャツと上品なエプロン。

凛として、少し冷たく、どこか影がある。


警察官時代は、その容姿ゆえに県警のポスターへ起用された。県警音楽隊カラーガード隊にも入れられ、ミニスカートと白いロングブーツの華やかな制服姿で人前に立った。さらに戦隊ヒロインプロジェクトに出向し、冷徹なる美貌のボスとして、時には表舞台に、時には誰にも知られない任務に立った。


華やかな経歴だった。


けれど玲奈自身は、もともと物静かな女だった。


拍手を浴びることが好きだったわけではない。

人の視線の中心に立つことも、写真に撮られることも、得意ではなかった。

ただ、求められたから立った。必要だったから引き受けた。守るべきものがあったから、逃げなかった。


だから「しおかぜ」には、過去を飾っていない。


県警時代のポスターはない。

カラーガード隊の写真もない。

戦隊ヒロイン時代の衣装写真もない。

NSTのボスだったことを示すものなど、もちろん何一つない。


あるのは、神戸の純喫茶「霧笛」から持ってきた小さな港の写真。

石垣の海を写した額。

ミンサー柄の布小物。

貝殻のチャーム。

そして、カウンター端の一席だけ。


その席だけは、毎朝、少し丁寧に拭かれていた。


玲奈は過去を否定していない。


戦隊ヒロインとしての日々は、むしろ楽しかった。仲間と走り、笑い、傷つきながら、誰かを守るために戦った。NSTの隠密任務も、自分が生まれ育った兵庫県を守る仕事だった。誇りも、やり甲斐もあった。


けれど、その時間はもう終わった。


今の玲奈は、南ぬ島で黒糖プリンを仕込むカフェ店主だった。


客が一段落した午後には、レジ横でハンドメイド雑貨を作る。細い指先で貝殻に小さな穴を通し、布を縫い、ドライフラワーを小瓶に入れる。警察官時代には考えられなかった静かな時間だった。


定休日には、海へ出る。

最初は島の人に誘われて始めたダイビングだったが、今では玲奈の数少ない楽しみになっていた。海の中では、誰も玲奈を呼ばない。誰も過去を聞かない。青い光と魚の影だけが、黙って彼女のそばを流れていく。


その静けさは、玲奈の性に合っていた。


けれど時折、玲奈は平久保岬へ行く。


石垣島の最北端。

白い灯台。

強い風。

どこまでも広がる海。


そこに立つと、東シナ海のずっと向こうに、日本本土の西日本があるのだと思う。


神戸かもしれない。

大阪かもしれない。

どこかの街で、亮介は真人間になろうとしている。


玲奈を騙した男。

罪を犯した男。

それでも取調室で、もう一度まっとうに生きて、彼女の前に立ちたいと言った男。


その言葉だけが、玲奈の胸から消えなかった。


冬の石垣は、本土の冬とは違う。

雪は降らない。吐く息も白くならない。

それでも、岬に吹く夜の風には、どこか遠い季節の冷たさが混じる日がある。


そんな夜、玲奈は不意に思う。


愛する人が遠くにいる冬は、きっとどこにいても寒いのだと。


南の島であっても。

海が青くても。

黒糖プリンが売り切れる日が増えても。

客に「しおかぜの玲奈ちゃん」と呼ばれても。


会えない人を待つ心だけは、季節を越えて冷える。


玲奈は岬の柵に手を置き、海を見つめた。


「しおかぜは、続いているわ」


風に紛れるほど小さな声だった。


「黒糖プリンも、少しは評判になった。接客は……まだ調書みたいって言われるけど」


少し笑おうとして、うまくいかなかった。


亮介が戻ってくるには、まだ長い時間が必要だった。

必ず帰ってくる保証もない。

玲奈の元へ来るとは限らない。

その日が来た時、彼がどんな顔をしているのかも分からない。


それでも玲奈は、待つ場所を守ると決めていた。


待つということは、ただ涙をこぼすことではない。

毎朝、店を開けること。

カップを磨くこと。

黒糖プリンを仕込むこと。

客を迎えること。

カウンター端の席を拭き続けること。


会えない人を想いながら、それでも自分の一日を丁寧に生きること。


それが、今の玲奈の恋だった。


「あなたが帰ってくる場所は、まだここにあるわ」


風が強く吹き、束ねた黒髪が揺れた。


「だから、焦らなくていい。でも……忘れないで」


声が少し震えた。


泣いたところで、亮介が早く帰ってくるわけではない。

けれど、店がうまくいった日ほど、誰かに報告したくなる。

黒糖プリンが売り切れた日ほど、隣にいてほしくなる。

おばあたちに縁談を勧められた日ほど、心の中で彼の名前を呼んでしまう。


玲奈は唇を結び、涙をこらえた。


冷徹なる美貌のボスだった女は、南ぬ島の岬で、一人の男を待つ普通の女になっていた。


翌朝、玲奈はいつも通り「しおかぜ」の看板を出した。


島カフェ しおかぜ


コーヒーを淹れる。

黒糖プリンを仕込む。

常連のおばあに調書のような注文確認をする。

観光客に少し硬い笑顔を向ける。


そして、カウンター端の席を、今日も丁寧に拭く。


まだ帰らぬ男のために。

そして、自分自身がこの島で生きていくために。

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