静かな島カフェに、鬼台貫の目が戻る
島カフェ「しおかぜ」の午後は、いつもなら穏やかだった。
平久保岬へ向かう幹線道路沿い。白い壁の小さな店に、潮風がゆっくり流れ込む。アンティーク調の椅子、木製のカウンター、石垣の海を写した小さな額、レジ横に並ぶ玲奈の手作り雑貨。店内には深煎りのコーヒーと、黒糖プリンの甘く苦い香りが漂っていた。
玲奈は、カウンターの中でカップを磨いていた。
今の彼女は、島カフェの店主だった。
だが、かつては兵庫県警の警察官であり、国道二号線で過積載車両を容赦なく取り締まった女でもある。
一部の運送業者から恐れられた呼び名があった。
国道二号線の鬼台貫。
重さをごまかす言い訳も、生活がかかっているという泣き落としも、荷主に逆らえないという現場の事情も、玲奈は聞いた。聞いた上で、一切曲げなかった。
規則は規則。
危険は危険。
事故が起これば、誰かの家族が帰ってこなくなる。
その冷たさは、優しさの裏返しだった。
石垣に来てからの玲奈は、その刃をなるべく見せないようにしていた。
「しおかぜ」では、客に自由に過ごしてほしい。旅人には一息ついてほしい。地元のおじい、おばあには安心して黒糖プリンを食べてほしい。
だが、その午後、店の空気が荒れた。
数人組の外国人観光客が来店した。
国籍は分からない。大柄で、声が大きく、店に入るなり笑い声とスマートフォンの画面を振りまいた。
最初は、玲奈も黙っていた。
旅先で気分が高揚することはある。
文化の違いもある。
日本語が通じない相手に、最初から強く出る必要はない。
玲奈は水を出し、他の客との距離を見ながら、静かに様子を見ていた。
だが、彼らの行動はすぐに限度を越えた。
他の客の顔が映るようにスマートフォンを向ける。
ハンドメイド雑貨を乱暴に触る。
黒糖プリンを食べながら大声で笑い、テーブルを叩く。
常連のおばあの席の近くでふざけたポーズを取り、嫌がるおばあを動画に入れようとする。
玲奈の目が、ゆっくり冷えた。
それでも、まだ動かなかった。
店を荒立てたくない。
ここは取り締まりの現場ではない。
自分はもう警察官ではない。
そう自分に言い聞かせた。
しかし、彼らの一人がカウンターの端へ荷物を置こうとした。
入口と窓の両方が見える席。
玲奈が毎朝、誰よりも丁寧に拭いている席。
まだ帰らぬ亮介のために、勝手に空けている席。
その瞬間、玲奈の中で音もなく何かが切り替わった。
カップを置く音が、店内に小さく響いた。
玲奈はカウンターを出た。
歩き方に迷いはない。
背筋はまっすぐ。
表情は消えている。
アーモンドアイの冷たい視線が、騒ぐ男たちを一人ずつ射抜いた。
常連のおばあが、息を止める。
「あ……玲奈ちゃん、怒ったさぁ」
玲奈は観光客たちの前に立った。
「そこまでです」
日本語だった。
相手は笑った。
意味が分からない、という顔だった。
そのうち一人が、玲奈を華奢な若い女性店主と見て、軽く肩をすくめる。
玲奈は一歩も引かなかった。
「撮影をやめなさい」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、店の空気を一瞬で凍らせた。
男がスマートフォンを向けたまま、何か言い返す。
玲奈はそのスマートフォンを指差し、次におばあを指し、最後に入口を指した。
「他のお客様への迷惑行為です。今すぐ撮影を停止しなさい。従えないなら、退店してください」
言葉は通じきらない。
だが、圧は通じた。
それは接客の声ではなかった。
国道二号線の鬼台貫の声だった。
過積載のドライバーが、言い訳を並べても一切動じなかった声。
「少しだけ」「今回だけ」「荷主が」「生活が」と言われても、危険を危険として切り分けた声。
逃げ道を塞ぎ、曖昧さを許さない声。
玲奈は、さらに一歩前へ出る。
「ここは、静かに過ごす店です。あなた方の遊び場ではありません」
男の一人が不満げに笑い、両手を広げる。
玲奈の目が細くなった。
「退店してください」
短い一言だった。
だが、そこには一切の妥協がなかった。
店内の誰もが分かった。
この女は、もう譲らない。
これ以上騒げば、本当に警察を呼ぶ。
必要なら、最後までやる。
観光客たちも、それを感じ取ったらしい。
言葉の意味ではなく、態度で分かった。
この細身の美人店主は、ただの店員ではない。
笑ってごまかせる相手ではない。
軽く扱っていい女ではない。
彼らは不満げに荷物をまとめた。
一人がまだ何か言おうとしたが、玲奈は視線だけで黙らせた。
扉のベルが荒く鳴り、彼らは外へ出ていった。
玲奈はしばらく扉の前に立ち、彼らが店から離れるのを確認した。
その確認の仕方まで、警察官そのものだった。
やがて彼女はカウンターへ戻り、いつもの低い声で言った。
「お騒がせしました」
常連のおばあは、黒糖プリンのスプーンを持ったまま呟いた。
「玲奈ちゃん、只者ではないさぁ」
隣のおじいも頷く。
「あれはカフェの人の目じゃないさぁ。あれは……取り締まる人の目さぁ」
玲奈は伝票を整えながら、無表情で答えた。
「ただのカフェ店主です」
おばあは笑った。
「ただのカフェ店主は、あんな圧で人を退店させんさぁ」
玲奈は聞こえないふりをした。
その日から、入口には小さな貼り紙が増えた。
店内での無断撮影はご遠慮ください。
他のお客様の迷惑になる行為はお断りします。
静かにコーヒーと黒糖プリンをお楽しみください。
おばあはそれを見て言った。
「玲奈ちゃん、警察署の掲示板みたいさぁ」
玲奈は真顔で返す。
「必要な掲示です」
夕方、店はいつもの静けさを取り戻した。
観光客は帰り、常連も帰り、カウンターには洗い終えたカップが並んでいる。
黒糖プリンの香りが、まだ少しだけ残っていた。
玲奈は最後に、カウンター端の席を拭いた。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のための席。
外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。
玲奈はその席に向かって、小さく呟いた。
「今日は、少し強く出てしまったわ」
返事はない。
「でも、あのままでは他のお客様に迷惑がかかる。店を守るには必要だった」
言い訳のようにそう言ってから、玲奈は少しだけ目を伏せた。
冷徹なる美貌のボス。
国道二号線の鬼台貫。
美人すぎる警察官。
そう呼ばれた自分は、石垣へ来ても消えていない。
カフェ店主になっても、黒糖プリンを作っていても、穏やかな潮風の中で暮らしていても、あの冷たい目はまだ自分の中にある。
玲奈は、誰もいない席へそっと問いかけた。
「私って……やっぱり怖いのかな?」
その声は、昼間の圧とは違っていた。
少し不安で、少し寂しくて、ほんの少し女らしい。
亮介が帰ってきたら、どう思うだろう。
怖い女だと笑うだろうか。
それとも、相変わらずだと言うだろうか。
それとも、店を守ったのだと静かに頷いてくれるだろうか。
玲奈はカウンターをもう一度拭き、灯りを落とした。
「しおかぜ」は、今日も守られた。
おじいとおばあが安心して座れる店。
旅人が静かに休める店。
そして、いつか亮介が帰ってこられる店。
たとえ少し怖くても。
玲奈は、この灯りだけは消すつもりがなかった。




