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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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静かな島カフェに、鬼台貫の目が戻る

島カフェ「しおかぜ」の午後は、いつもなら穏やかだった。


平久保岬へ向かう幹線道路沿い。白い壁の小さな店に、潮風がゆっくり流れ込む。アンティーク調の椅子、木製のカウンター、石垣の海を写した小さな額、レジ横に並ぶ玲奈の手作り雑貨。店内には深煎りのコーヒーと、黒糖プリンの甘く苦い香りが漂っていた。


玲奈は、カウンターの中でカップを磨いていた。


今の彼女は、島カフェの店主だった。

だが、かつては兵庫県警の警察官であり、国道二号線で過積載車両を容赦なく取り締まった女でもある。


一部の運送業者から恐れられた呼び名があった。


国道二号線の鬼台貫。


重さをごまかす言い訳も、生活がかかっているという泣き落としも、荷主に逆らえないという現場の事情も、玲奈は聞いた。聞いた上で、一切曲げなかった。


規則は規則。

危険は危険。

事故が起これば、誰かの家族が帰ってこなくなる。


その冷たさは、優しさの裏返しだった。


石垣に来てからの玲奈は、その刃をなるべく見せないようにしていた。

「しおかぜ」では、客に自由に過ごしてほしい。旅人には一息ついてほしい。地元のおじい、おばあには安心して黒糖プリンを食べてほしい。


だが、その午後、店の空気が荒れた。


数人組の外国人観光客が来店した。

国籍は分からない。大柄で、声が大きく、店に入るなり笑い声とスマートフォンの画面を振りまいた。


最初は、玲奈も黙っていた。


旅先で気分が高揚することはある。

文化の違いもある。

日本語が通じない相手に、最初から強く出る必要はない。


玲奈は水を出し、他の客との距離を見ながら、静かに様子を見ていた。


だが、彼らの行動はすぐに限度を越えた。


他の客の顔が映るようにスマートフォンを向ける。

ハンドメイド雑貨を乱暴に触る。

黒糖プリンを食べながら大声で笑い、テーブルを叩く。

常連のおばあの席の近くでふざけたポーズを取り、嫌がるおばあを動画に入れようとする。


玲奈の目が、ゆっくり冷えた。


それでも、まだ動かなかった。


店を荒立てたくない。

ここは取り締まりの現場ではない。

自分はもう警察官ではない。


そう自分に言い聞かせた。


しかし、彼らの一人がカウンターの端へ荷物を置こうとした。


入口と窓の両方が見える席。

玲奈が毎朝、誰よりも丁寧に拭いている席。

まだ帰らぬ亮介のために、勝手に空けている席。


その瞬間、玲奈の中で音もなく何かが切り替わった。


カップを置く音が、店内に小さく響いた。


玲奈はカウンターを出た。


歩き方に迷いはない。

背筋はまっすぐ。

表情は消えている。

アーモンドアイの冷たい視線が、騒ぐ男たちを一人ずつ射抜いた。


常連のおばあが、息を止める。


「あ……玲奈ちゃん、怒ったさぁ」


玲奈は観光客たちの前に立った。


「そこまでです」


日本語だった。


相手は笑った。

意味が分からない、という顔だった。

そのうち一人が、玲奈を華奢な若い女性店主と見て、軽く肩をすくめる。


玲奈は一歩も引かなかった。


「撮影をやめなさい」


声は低かった。

怒鳴ってはいない。

だからこそ、店の空気を一瞬で凍らせた。


男がスマートフォンを向けたまま、何か言い返す。


玲奈はそのスマートフォンを指差し、次におばあを指し、最後に入口を指した。


「他のお客様への迷惑行為です。今すぐ撮影を停止しなさい。従えないなら、退店してください」


言葉は通じきらない。

だが、圧は通じた。


それは接客の声ではなかった。

国道二号線の鬼台貫の声だった。


過積載のドライバーが、言い訳を並べても一切動じなかった声。

「少しだけ」「今回だけ」「荷主が」「生活が」と言われても、危険を危険として切り分けた声。

逃げ道を塞ぎ、曖昧さを許さない声。


玲奈は、さらに一歩前へ出る。


「ここは、静かに過ごす店です。あなた方の遊び場ではありません」


男の一人が不満げに笑い、両手を広げる。


玲奈の目が細くなった。


「退店してください」


短い一言だった。

だが、そこには一切の妥協がなかった。


店内の誰もが分かった。

この女は、もう譲らない。

これ以上騒げば、本当に警察を呼ぶ。

必要なら、最後までやる。


観光客たちも、それを感じ取ったらしい。


言葉の意味ではなく、態度で分かった。

この細身の美人店主は、ただの店員ではない。

笑ってごまかせる相手ではない。

軽く扱っていい女ではない。


彼らは不満げに荷物をまとめた。

一人がまだ何か言おうとしたが、玲奈は視線だけで黙らせた。


扉のベルが荒く鳴り、彼らは外へ出ていった。


玲奈はしばらく扉の前に立ち、彼らが店から離れるのを確認した。

その確認の仕方まで、警察官そのものだった。


やがて彼女はカウンターへ戻り、いつもの低い声で言った。


「お騒がせしました」


常連のおばあは、黒糖プリンのスプーンを持ったまま呟いた。


「玲奈ちゃん、只者ではないさぁ」


隣のおじいも頷く。


「あれはカフェの人の目じゃないさぁ。あれは……取り締まる人の目さぁ」


玲奈は伝票を整えながら、無表情で答えた。


「ただのカフェ店主です」


おばあは笑った。


「ただのカフェ店主は、あんな圧で人を退店させんさぁ」


玲奈は聞こえないふりをした。


その日から、入口には小さな貼り紙が増えた。


店内での無断撮影はご遠慮ください。

他のお客様の迷惑になる行為はお断りします。

静かにコーヒーと黒糖プリンをお楽しみください。


おばあはそれを見て言った。


「玲奈ちゃん、警察署の掲示板みたいさぁ」


玲奈は真顔で返す。


「必要な掲示です」


夕方、店はいつもの静けさを取り戻した。


観光客は帰り、常連も帰り、カウンターには洗い終えたカップが並んでいる。

黒糖プリンの香りが、まだ少しだけ残っていた。


玲奈は最後に、カウンター端の席を拭いた。


入口と窓の両方が見える席。

まだ帰らぬ亮介のための席。


外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。


玲奈はその席に向かって、小さく呟いた。


「今日は、少し強く出てしまったわ」


返事はない。


「でも、あのままでは他のお客様に迷惑がかかる。店を守るには必要だった」


言い訳のようにそう言ってから、玲奈は少しだけ目を伏せた。


冷徹なる美貌のボス。

国道二号線の鬼台貫。

美人すぎる警察官。


そう呼ばれた自分は、石垣へ来ても消えていない。

カフェ店主になっても、黒糖プリンを作っていても、穏やかな潮風の中で暮らしていても、あの冷たい目はまだ自分の中にある。


玲奈は、誰もいない席へそっと問いかけた。


「私って……やっぱり怖いのかな?」


その声は、昼間の圧とは違っていた。


少し不安で、少し寂しくて、ほんの少し女らしい。


亮介が帰ってきたら、どう思うだろう。

怖い女だと笑うだろうか。

それとも、相変わらずだと言うだろうか。

それとも、店を守ったのだと静かに頷いてくれるだろうか。


玲奈はカウンターをもう一度拭き、灯りを落とした。


「しおかぜ」は、今日も守られた。

おじいとおばあが安心して座れる店。

旅人が静かに休める店。

そして、いつか亮介が帰ってこられる店。


たとえ少し怖くても。

玲奈は、この灯りだけは消すつもりがなかった。

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