星砂の浜で消えた婚約指輪――元警察官店主、恋の遺失物を追う
島カフェ「しおかぜ」に、重たい空気を連れた若いカップルが入ってきた。
平久保岬へ向かう幹線道路沿い。午後の光はやわらかく、店内には深煎りコーヒーと黒糖プリンの甘い香りが漂っていた。いつもなら、観光客は海帰りの開放感をまとって扉を開ける。けれど、その二人は違った。
男性は黙ってスマートフォンを握りしめ、女性は目元を赤くしている。
席についても、互いに顔を見ない。
テーブルの上には、砂のついた小さなハンドバッグと、濡れたハンカチ。
玲奈は水を置いた瞬間、異変を察知した。
観光疲れではない。
喧嘩でも、ただの気まずさでもない。
二人の間にあるのは、何かを失くした焦燥だった。
元警察官の職業病のようなものだった。
相手が隠している不安、言葉にできない焦り、手元の動き、目線の揺れ。
玲奈はそういうものを、見ようとしなくても見てしまう。
「ご注文は」
男性が力なく言った。
「アイスコーヒーを……」
女性は俯いたまま何も言わない。
玲奈は一拍置いて、静かに尋ねた。
「何かお困りですか」
男性は驚いたように顔を上げた。
「え?」
女性の目に、また涙が浮かんだ。
「指輪を……なくしたんです」
婚約指輪だった。
星砂の浜で写真を撮り、海辺で手を洗い、ハンドクリームを塗り、レンタカーに戻った。そのあと「しおかぜ」に寄る途中で、女性が指輪をしていないことに気づいたという。
男性は焦り、女性は自分を責め、二人は道中で言い争いになった。
せっかくの石垣旅行。
これから結婚するはずの二人の空気は、台風前の海のように荒れていた。
玲奈は二人の前に水を置き直した。
「まず座ってください。感情が高ぶると記憶が乱れます」
男性は面食らった。
「あの、店主さん……ですよね?」
「現在はそうです」
カウンターの隅にいた常連のおばあが、小さく笑った。
「玲奈ちゃん、また警察になってるさぁ」
玲奈は構わず、紙とペンを取り出した。
「最後に指輪を確認した時刻と場所を教えてください」
そこから、事情聴取のような確認が始まった。
星砂の浜に着いた時間。
写真を撮った場所。
指輪を外した可能性のあるタイミング。
ハンドクリームを塗った場所。
荷物を置いた場所。
車に乗る前に立ち寄った売店。
そして「しおかぜ」に入ってからの動き。
女性は涙を拭きながら答えた。
男性も少しずつ落ち着き、スマートフォンの写真を見せる。
写真には、浜辺で笑う女性の手元が写っていた。
玲奈は画面を見つめる。
「この写真の時点では、指輪があります」
次の写真。
海辺で手を洗ったあと。
まだある。
さらに次。
売店の前。
手元は写っていない。
「可能性を一つずつ潰します」
玲奈はそう言って、店の戸締まりを女主人ならぬ自分の段取りで整え、常連のおばあにひと言頼んだ。
「三十分ほど店を見ていてください」
「また任務さぁ?」
「遺失物確認です」
「言い方が硬いさぁ」
玲奈はカップルを連れて、星砂の浜へ向かった。
浜は午後の光を受けて、白く淡く光っていた。波打ち際には小さな貝殻が散り、観光客の足跡が幾重にも重なっている。
玲奈は感傷に浸らなかった。
まず、写真の位置と実際の場所を照合する。
「ここで写真を撮った。ここで荷物を置いた。ここで手を洗った」
砂浜を探す。
波打ち際を見る。
売店の前を確認する。
車内のシートの隙間、足元、サイドポケット、バッグの中。
一つずつ、可能性を潰していく。
女性は何度も謝った。
「私が悪いんです。ちゃんとしていれば」
玲奈は手を止めずに言った。
「今必要なのは、自責ではなく記憶です」
男性も黙って砂を見つめていたが、やがて小さく言った。
「俺も責めすぎた。ごめん」
女性は涙ぐんで頷いた。
玲奈はそれを横目で見た。
少しだけ、胸の奥が静かに動いた。
恋は、物を失くした時に本性が出る。
責めるのか。
一緒に探すのか。
沈黙するのか。
手を伸ばすのか。
亮介のことが、ふと頭をよぎった。
失くしたものが大きすぎた恋。
それでも、どこかでまだ一緒に探したいと思っている自分。
結局、浜では見つからなかった。
売店にも届いていない。
車内にもない。
玲奈は、そこで最初の店内での動きをもう一度思い返した。
「しおかぜに入ってから、ハンドクリームを塗りましたか」
女性がはっと顔を上げた。
「……塗りました。テーブルで。バッグから出して」
玲奈は静かに言った。
「戻りましょう」
三人が「しおかぜ」に戻ると、おばあがのんびり黒糖プリンを食べていた。
「見つかったかね?」
「確認します」
玲奈は二人が座っていた席へ向かう。
テーブルの上には、玲奈のハンドメイド雑貨を置いた小さな陶器の皿があった。貝殻チャームや布コースターの横。
その端に、小さく光るものがあった。
婚約指輪だった。
女性は息を止めた。
男性も目を見開く。
玲奈は指輪を手に取り、白い紙ナプキンの上に置いた。
「発見しました」
女性は泣きながら笑った。
「よかった……本当に、よかった」
男性は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。探偵みたいですね」
玲奈は即答した。
「カフェ店主です」
おばあが横から言う。
「うそさぁ。絶対ただ者じゃないさぁ」
玲奈は聞こえないふりをした。
そのあと、二人は黒糖プリンを注文した。
今度は二つ。
同じ皿を覗き込むのではなく、それぞれの前に一つずつ置かれたプリンを、向かい合って食べた。
「ごめんね」
「俺こそ、ごめん」
やや苦いカラメルと、石垣黒糖の深い甘さ。
二人の表情は、少しずつほどけていった。
玲奈はキッチンの奥から、遠目にそれを見ていた。
口元には出さない。
けれど、胸の中で静かに息をつく。
よかった。
ただ、それだけだった。
閉店後、店内は静かになった。
玲奈はテーブルを拭き、カップを洗い、最後にカウンター端の席を丁寧に拭いた。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎日空けている席。
玲奈はその席に向かって、小さく呟いた。
「今日は、婚約指輪をひとつ見つけたわ」
返事はない。
外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。
「なくしたと思ったものが、すぐ近くにあることもあるのね」
玲奈は指先で、磨いたばかりのカウンターをなぞった。
「私たちが失くしたものも、どこかに残っているのかしら」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「あなたが帰ってきたら、一緒に探せるのかしらね」
夜の「しおかぜ」は静かだった。
黒糖プリンの甘い匂いが、まだ少しだけ残っている。
玲奈は灯りを落とす前に、亮介の席をもう一度だけ見た。
指輪を失くした恋は、今日、黒糖プリンの前で仲直りした。
まだ帰らぬ男を待つ恋は、今も空席のまま続いている。
それでも玲奈は、明日もその席を拭く。
失くしたものを探すように。
帰ってくるかもしれない人を、静かに迎えるために。




