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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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財布は川平湾へ、笑顔はしおかぜへ戻る

島カフェ「しおかぜ」の午後は、風の音がよく聞こえる。


平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな店。白い壁、木製の看板、入口で揺れる貝殻飾り。店内には、神戸の純喫茶「霧笛」を思わせるアンティークの椅子と、石垣の海を写した小さな額。カウンターには、黒糖プリンの甘く深い香りが漂っていた。


その日、店に入ってきたのは、沖縄本島から来たらしい母娘だった。


母は三十代半ばほど。疲れた顔をしているが、娘の前では明るく振る舞おうとしている。娘は小学生くらいで、店に入るなりショーケースを見つめた。


「黒糖プリン、ありますか?」


玲奈は静かに頷いた。


「あります」


娘の顔がぱっと明るくなる。

だが母親は、どこか落ち着かない。バッグを何度も探り、スマートフォンの画面を見つめ、またバッグの中へ手を入れる。観光客の疲れだけではない。何かを失くした人間の動きだった。


玲奈は水を二つ置いた。


「ご注文は、黒糖プリン二点でよろしいですか」


娘が元気に頷く。

母親は少しだけ迷ってから言った。


「すみません、一つだけで……」


娘の顔が曇る。


「え、二つじゃないの?」


「あとで何か食べるかもしれないし」


その声に、無理があった。


玲奈は伝票を置いたまま、母親を見る。


「何かお困りですか」


母親は慌てて笑う。


「いえ、大丈夫です。ちょっと財布が見当たらなくて。でもたぶん車の中か、どこかに……」


娘の表情が一気に不安になる。


玲奈は、すぐに判断した。


「まず座ってください。記憶を整理します」


母親は目を瞬かせる。


「あの、店主さんですよね?」


「現在はそうです」


奥の席で新聞を読んでいた常連のおじいが、顔を上げずに言った。


「玲奈ちゃん、また調書取るさぁ」


玲奈は無視した。


「最後に財布を確認した場所はどこですか」


母親は戸惑いながらも答えた。


午前中に川平湾へ行った。

売店で飲み物を買った。

その後、写真を撮り、駐車場へ戻り、別の観光地へ向かった。

途中で娘が「しおかぜ」の黒糖プリンを食べたいと言い、動画で見たこの店へ寄った。

そして店に入る直前、財布がないことに気づいた。


玲奈は紙に時系列を書き出した。


「売店で支払い後、財布をバッグに戻しましたか」


「戻したと思うんですけど……」


「思う、ではなく、映像として思い出してください。手に持ったまま外へ出ましたか。バッグのどのポケットに入れましたか」


母親はしばらく目を閉じた。


「売店の台の上に置いて、娘が貝殻のキーホルダーを見ていて……そのあと、飲み物を持って……あれ、財布、持ったかな……」


娘が小さな声で言った。


「ママ、ごめんね。私がキーホルダー見たいって言ったから」


母親はすぐに首を振る。


「違うよ。あなたのせいじゃない」


その声が震えていた。


玲奈は娘の前に、冷たい黒糖ミルクを置いた。


「これはサービスです。まず飲んでください」


娘は驚いたように玲奈を見た。


「いいんですか?」


「必要な糖分補給です」


常連のおじいが小さく笑った。


玲奈は川平湾の売店に電話をかけた。

落ち着いた声で、必要な情報だけを伝える。


「本日午前、沖縄本島からの母娘のお客様が利用。財布の置き忘れの可能性があります。色、形状、中身の特徴を確認します」


母親は申し訳なさそうに玲奈を見ていた。


「すみません、こんなことまで」


「困りごとは、早い段階で確認した方が被害が小さく済みます」


「警察の方みたいですね」


「元警察官です」


母親は一瞬だけ納得した顔になった。


しばらくして、売店から折り返しの電話が来た。

財布は届いていた。売店のスタッフが台の隅に置かれていた財布を見つけ、保管してくれていたという。中身も無事だった。


母親は、椅子に座ったまま力が抜けたように息を吐いた。


「よかった……」


娘も安心して、黒糖ミルクを両手で持ったまま笑った。


「ママ、よかったね」


玲奈は静かに頷く。


「帰りに川平湾へ立ち寄ってください。売店の方には、お名前と特徴を伝えてあります」


「本当にありがとうございます」


母親の目が潤んでいた。


玲奈はショーケースを見た。

今日の黒糖プリンは、残り一つ。

母娘が頼んだ一つを出せば、それで終わりだった。


だが、玲奈は冷蔵庫の奥から、翌日分として少し早めに仕込んでいたプリンを一つ取り出した。まだ店に出すには早いが、味は問題ない。


白い皿に二つ並べ、母娘の前へ置く。


「黒糖プリン二点です」


母親が驚く。


「でも、一つだけって」


「明日分を一つ前倒ししました。財布が戻るまでの待機時間に必要です」


娘は目を輝かせた。


「食べていいの?」


玲奈は小さく頷く。


「どうぞ」


母親は堪えきれず、涙を一粒落とした。


「ありがとうございます。本当に……旅行中、ずっと気を張っていて。財布までなくして、娘に嫌な思いをさせるところでした」


玲奈は平静を装った。


「財布は見つかりました。予定は修正可能です。黒糖プリンもあります。問題ありません」


常連のおじいが、新聞の向こうでぼそっと言う。


「玲奈ちゃん、いいこと言ってるのに硬いさぁ」


娘はプリンを一口食べ、ぱっと笑った。


「おいしい!」


その笑顔を見て、母親もようやく笑った。


玲奈は顔には出さなかった。

けれど、胸の奥が少しだけ温かくなった。


旅の途中の小さな危機。

なくした財布。

不安で曇った母親の顔。

自分のせいだと思いかけた娘の声。


それらが、黒糖プリンの甘さで少しほどけていく。

玲奈は、それが嬉しかった。


母娘は何度も礼を言い、川平湾へ向かっていった。

玲奈は店の外まで出て、車が道路へ出るのを見送った。


「安全運転で」


その短い言葉に、母親は深く頭を下げた。


夜になり、「しおかぜ」は静かになった。


玲奈はカウンターを拭き、カップを棚へ戻し、最後に端の席を丁寧に拭いた。入口と窓の両方が見える、まだ帰らぬ亮介の席。


外では石垣の夜風が、木製看板を小さく鳴らしていた。


玲奈は、誰もいない席へ向かって小さく呟く。


「今日は、財布をひとつ見つけたわ」


返事はない。


「それから、女の子の笑顔もひとつ戻した」


玲奈は少しだけ目を伏せる。


「黒糖プリン、役に立つのね。霧笛の女主人に報告したら、きっと笑うわ」


しばらく沈黙が流れた。


玲奈は、亮介の席に手を置いた。


「あなたが帰ってくるまでに、この店で何人の人を見送るのかしら」


その声は静かで、少しだけ切なかった。


「私はここで、待っているだけじゃないみたい。誰かが困って入ってきたら、どうしても動いてしまうの」


玲奈は小さく笑う。


「警察官の癖、なかなか抜けないわね」


南ぬ島の夜は深く、店の灯りは小さかった。

けれどその灯りは、今日、母娘の旅を少しだけ救った。


玲奈は最後に入口の鍵を確認し、店内を見渡した。


島カフェ「しおかぜ」。

黒糖プリンと深煎りコーヒーの店。

旅人が失くしたものを、少しだけ一緒に探す店。


まだ帰らぬ男の席は、今日も空いたままだった。

それでも玲奈は、明日もまたその席を拭く。

誰かの笑顔と、いつか帰る男を待つために。

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