財布は川平湾へ、笑顔はしおかぜへ戻る
島カフェ「しおかぜ」の午後は、風の音がよく聞こえる。
平久保岬へ向かう幹線道路沿いの小さな店。白い壁、木製の看板、入口で揺れる貝殻飾り。店内には、神戸の純喫茶「霧笛」を思わせるアンティークの椅子と、石垣の海を写した小さな額。カウンターには、黒糖プリンの甘く深い香りが漂っていた。
その日、店に入ってきたのは、沖縄本島から来たらしい母娘だった。
母は三十代半ばほど。疲れた顔をしているが、娘の前では明るく振る舞おうとしている。娘は小学生くらいで、店に入るなりショーケースを見つめた。
「黒糖プリン、ありますか?」
玲奈は静かに頷いた。
「あります」
娘の顔がぱっと明るくなる。
だが母親は、どこか落ち着かない。バッグを何度も探り、スマートフォンの画面を見つめ、またバッグの中へ手を入れる。観光客の疲れだけではない。何かを失くした人間の動きだった。
玲奈は水を二つ置いた。
「ご注文は、黒糖プリン二点でよろしいですか」
娘が元気に頷く。
母親は少しだけ迷ってから言った。
「すみません、一つだけで……」
娘の顔が曇る。
「え、二つじゃないの?」
「あとで何か食べるかもしれないし」
その声に、無理があった。
玲奈は伝票を置いたまま、母親を見る。
「何かお困りですか」
母親は慌てて笑う。
「いえ、大丈夫です。ちょっと財布が見当たらなくて。でもたぶん車の中か、どこかに……」
娘の表情が一気に不安になる。
玲奈は、すぐに判断した。
「まず座ってください。記憶を整理します」
母親は目を瞬かせる。
「あの、店主さんですよね?」
「現在はそうです」
奥の席で新聞を読んでいた常連のおじいが、顔を上げずに言った。
「玲奈ちゃん、また調書取るさぁ」
玲奈は無視した。
「最後に財布を確認した場所はどこですか」
母親は戸惑いながらも答えた。
午前中に川平湾へ行った。
売店で飲み物を買った。
その後、写真を撮り、駐車場へ戻り、別の観光地へ向かった。
途中で娘が「しおかぜ」の黒糖プリンを食べたいと言い、動画で見たこの店へ寄った。
そして店に入る直前、財布がないことに気づいた。
玲奈は紙に時系列を書き出した。
「売店で支払い後、財布をバッグに戻しましたか」
「戻したと思うんですけど……」
「思う、ではなく、映像として思い出してください。手に持ったまま外へ出ましたか。バッグのどのポケットに入れましたか」
母親はしばらく目を閉じた。
「売店の台の上に置いて、娘が貝殻のキーホルダーを見ていて……そのあと、飲み物を持って……あれ、財布、持ったかな……」
娘が小さな声で言った。
「ママ、ごめんね。私がキーホルダー見たいって言ったから」
母親はすぐに首を振る。
「違うよ。あなたのせいじゃない」
その声が震えていた。
玲奈は娘の前に、冷たい黒糖ミルクを置いた。
「これはサービスです。まず飲んでください」
娘は驚いたように玲奈を見た。
「いいんですか?」
「必要な糖分補給です」
常連のおじいが小さく笑った。
玲奈は川平湾の売店に電話をかけた。
落ち着いた声で、必要な情報だけを伝える。
「本日午前、沖縄本島からの母娘のお客様が利用。財布の置き忘れの可能性があります。色、形状、中身の特徴を確認します」
母親は申し訳なさそうに玲奈を見ていた。
「すみません、こんなことまで」
「困りごとは、早い段階で確認した方が被害が小さく済みます」
「警察の方みたいですね」
「元警察官です」
母親は一瞬だけ納得した顔になった。
しばらくして、売店から折り返しの電話が来た。
財布は届いていた。売店のスタッフが台の隅に置かれていた財布を見つけ、保管してくれていたという。中身も無事だった。
母親は、椅子に座ったまま力が抜けたように息を吐いた。
「よかった……」
娘も安心して、黒糖ミルクを両手で持ったまま笑った。
「ママ、よかったね」
玲奈は静かに頷く。
「帰りに川平湾へ立ち寄ってください。売店の方には、お名前と特徴を伝えてあります」
「本当にありがとうございます」
母親の目が潤んでいた。
玲奈はショーケースを見た。
今日の黒糖プリンは、残り一つ。
母娘が頼んだ一つを出せば、それで終わりだった。
だが、玲奈は冷蔵庫の奥から、翌日分として少し早めに仕込んでいたプリンを一つ取り出した。まだ店に出すには早いが、味は問題ない。
白い皿に二つ並べ、母娘の前へ置く。
「黒糖プリン二点です」
母親が驚く。
「でも、一つだけって」
「明日分を一つ前倒ししました。財布が戻るまでの待機時間に必要です」
娘は目を輝かせた。
「食べていいの?」
玲奈は小さく頷く。
「どうぞ」
母親は堪えきれず、涙を一粒落とした。
「ありがとうございます。本当に……旅行中、ずっと気を張っていて。財布までなくして、娘に嫌な思いをさせるところでした」
玲奈は平静を装った。
「財布は見つかりました。予定は修正可能です。黒糖プリンもあります。問題ありません」
常連のおじいが、新聞の向こうでぼそっと言う。
「玲奈ちゃん、いいこと言ってるのに硬いさぁ」
娘はプリンを一口食べ、ぱっと笑った。
「おいしい!」
その笑顔を見て、母親もようやく笑った。
玲奈は顔には出さなかった。
けれど、胸の奥が少しだけ温かくなった。
旅の途中の小さな危機。
なくした財布。
不安で曇った母親の顔。
自分のせいだと思いかけた娘の声。
それらが、黒糖プリンの甘さで少しほどけていく。
玲奈は、それが嬉しかった。
母娘は何度も礼を言い、川平湾へ向かっていった。
玲奈は店の外まで出て、車が道路へ出るのを見送った。
「安全運転で」
その短い言葉に、母親は深く頭を下げた。
夜になり、「しおかぜ」は静かになった。
玲奈はカウンターを拭き、カップを棚へ戻し、最後に端の席を丁寧に拭いた。入口と窓の両方が見える、まだ帰らぬ亮介の席。
外では石垣の夜風が、木製看板を小さく鳴らしていた。
玲奈は、誰もいない席へ向かって小さく呟く。
「今日は、財布をひとつ見つけたわ」
返事はない。
「それから、女の子の笑顔もひとつ戻した」
玲奈は少しだけ目を伏せる。
「黒糖プリン、役に立つのね。霧笛の女主人に報告したら、きっと笑うわ」
しばらく沈黙が流れた。
玲奈は、亮介の席に手を置いた。
「あなたが帰ってくるまでに、この店で何人の人を見送るのかしら」
その声は静かで、少しだけ切なかった。
「私はここで、待っているだけじゃないみたい。誰かが困って入ってきたら、どうしても動いてしまうの」
玲奈は小さく笑う。
「警察官の癖、なかなか抜けないわね」
南ぬ島の夜は深く、店の灯りは小さかった。
けれどその灯りは、今日、母娘の旅を少しだけ救った。
玲奈は最後に入口の鍵を確認し、店内を見渡した。
島カフェ「しおかぜ」。
黒糖プリンと深煎りコーヒーの店。
旅人が失くしたものを、少しだけ一緒に探す店。
まだ帰らぬ男の席は、今日も空いたままだった。
それでも玲奈は、明日もまたその席を拭く。
誰かの笑顔と、いつか帰る男を待つために。




