帰り道を見失った夫婦に、黒糖プリンは間に合う
平久保岬から戻る道は、夕方になると少し心細い。
昼間はあれほど明るかった海の色が、だんだん銀色に沈んでいく。観光客のレンタカーは、市街地へ戻る時間を気にしながら、細い幹線道路を急ぐ。島カフェ「しおかぜ」は、その途中にぽつんと灯る小さな店だった。
その日、閉店まであと一時間という頃、一台のレンタカーが店の前に滑り込んできた。
降りてきたのは、若い夫婦だった。
夫は運転席から降りるなり腕時計を見る。妻はスマートフォンの画面を握りしめ、店の看板を見てほっとしたような顔をした。
「ほら、ここだよ。動画で見た黒糖プリンの店」
「だから時間ギリギリだって言っただろ。レンタカー返す時間もあるし、飛行機もあるんだぞ」
「でも、ここまで来たのに食べないなんてありえないじゃん」
二人は小声で言い争っているつもりだったが、店内まで十分聞こえていた。
玲奈はカウンターの中で、静かに二人を見た。
妻は明るく振る舞っているが、目元に焦りがある。夫は怒っているというより、不安を怒りに変えている顔だった。車の返却、空港までの移動、搭乗時刻。旅の終盤にありがちな、時間と疲労の小さな爆発。
元警察官としての観察眼が、即座に動いた。
玲奈は水を置いた。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
妻は少し慌てて言う。
「黒糖プリン、まだありますか?」
「あります」
「よかった。じゃあ二つで」
夫が口を挟む。
「いや、一つでいい。急いでるんで」
妻が睨む。
「ここまで来て一つ?」
夫も小さく言い返す。
「時間見ろよ。返却十八時半だぞ」
玲奈は伝票を置き、静かに言った。
「状況確認をします」
夫婦は同時に玲奈を見た。
「え?」
玲奈は表情を変えない。
「レンタカー返却時刻、搭乗便の出発時刻、現在の燃料残量、返却店舗の場所を教えてください」
夫が面食らう。
「あの……注文というより、事情聴取みたいですね」
「安全な帰着のための確認です」
奥の席にいた常連のおばあが、黒糖プリンを食べながら笑った。
「玲奈ちゃん、また警察みたいになってるさぁ」
「必要な確認です」
おばあは夫婦に向かって言った。
「大丈夫よ。この子に任せたら、たぶん飛行機まで乗せてくれるさぁ」
玲奈はすぐに地図アプリを開いた。
夫婦の飛行機は二十時発。レンタカー返却は十八時半。返却店舗は空港近く。燃料は半分以下で、返却前の給油が必要。現在地は平久保岬方面から市街地へ戻る途中。
玲奈は地元客から聞いていた夕方の混雑箇所、工事中の道、給油所の位置を頭の中で並べる。
「このまま最短ルートで戻ると、市街地手前で混みます。途中の給油所は一か所、夕方はやや混雑します。レンタカー会社へ返却遅れの可能性を事前連絡します」
夫が慌てる。
「そこまでしてもらうのは……」
「遅れてから説明するより、先に連絡した方が印象が良いです」
玲奈は店の電話を取り、レンタカー会社へ事情を説明した。
冷静で、簡潔で、相手が必要とする情報だけを伝える。
「返却予定車両、現在平久保方面から戻る途中です。給油後、十八時四十分前後の到着見込み。搭乗便は二十時。十分快速に返却処理できるよう、必要書類を準備していただけますか」
夫婦はぽかんとしていた。
おばあは横から言う。
「ほらね。玲奈ちゃん、ただのカフェの人じゃないさぁ」
玲奈は受話器を置きながら返す。
「現在はカフェ店主です」
それから玲奈は、黒糖プリンを二つ出した。
「食べる時間はあります。十分以内でお願いします」
妻は目を輝かせた。
「え、食べていいんですか?」
「急いで食べる必要はありません。ただし、十五分を超えると予定が崩れます」
夫は苦笑した。
「分かりました。十以内で食べます」
黒糖プリンは、旅の終わりに少しだけ夫婦を黙らせた。
やや苦いカラメルと、石垣黒糖の深い甘さ。妻は一口食べて、泣きそうな顔で笑った。
「来てよかった」
夫はそれを見て、ようやく肩の力を抜いた。
「……間に合うなら、来てよかったな」
玲奈は会計を済ませ、手書きのメモを渡した。
給油所、曲がる交差点、混雑を避ける道、レンタカー会社の担当者名。
さらに、おばあが地元の道を一つ補足する。
「この交差点、夕方は右折しにくいから、ひとつ先で回るといいさぁ」
玲奈は即座にメモを修正した。
「有効な情報です」
おばあは得意げに笑った。
夫婦は何度も頭を下げ、レンタカーへ戻っていった。
玲奈は店の外まで出て、車が道路へ出るのを確認した。
「安全運転で」
その声は短かったが、不思議と心強かった。
数時間後、店を閉める頃、玲奈のスマートフォンにメールが届いた。
レンタカーは無事返却。
飛行機にも余裕で間に合った。
黒糖プリンが旅の最後の一番の思い出になった。
夫婦喧嘩も、空港で笑い話になった。
そんな内容だった。
玲奈はカウンターの中で、そのメールをしばらく見つめていた。
顔には出ない。
だが、目元だけがほんの少し柔らかくなっている。
閉店後、玲奈はいつものようにカウンター端の席を拭いた。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、毎朝丁寧に拭いている席。
玲奈は、その席にスマートフォンの画面を向けるように置いた。
「今日、若いご夫婦を空港まで間に合わせたわ」
返事はない。
外では石垣の夜風が、木製看板を小さく揺らしている。
「黒糖プリンが旅の思い出になったそうよ。……悪くないでしょう」
少し間を置いて、玲奈は小さく笑った。
「あなたが帰ってきたら、私の接客はまだ事情聴取みたいだって言うかしら」
誰もいない店内に、コーヒーの香りだけが残っていた。
「でもね、亮介。待っているだけじゃないの。私はここで、毎日誰かを少しだけ見送っている」
玲奈はカウンターの灯りを落とす。
夫婦を送り出した道の向こうに、空港の灯りがあった。
そして、もっと遠い時間の向こうに、まだ帰らぬ男がいる。
島カフェ「しおかぜ」は、今日も一組の旅を無事に終わらせた。
玲奈はその静かな達成感を胸に、明日の黒糖プリンの仕込みを考え始めていた。




