星空ツアーの嘘を見抜け――しおかぜ店主、夜の浜辺で静かに詰める
島カフェ「しおかぜ」の夕方は、少しだけ空が近くなる。
平久保岬へ向かう道沿いの小さな店。
日中の強い光がゆっくり和らぎ、窓の外の海は青から銀へ、銀から藍へ変わっていく。玲奈はカウンターの中で黒糖プリンの残りを数え、コーヒーカップを磨いていた。
その日、閉店間際の「しおかぜ」に、一人の若い女性が入ってきた。
名前は、榊原由衣。
東京都出身。
都会での忙しすぎる生活に疲れ、南ぬ島の自然と空に惹かれて石垣島へ移住してきた女性だった。今は小さな観光ツアー会社で、星空ツアーの案内スタッフとして働いている。
由衣は真面目で優しい。
島の海も、森も、夜空も、本気で好きだった。観光客に「石垣の星は本当に綺麗ですね」と言われると、自分のことのように喜ぶ。そんな子だった。
だが、その日の由衣は、黒糖プリンを前にしても笑わなかった。
玲奈は水を置く。
「何かありましたか」
由衣はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「私、観光客を騙しているみたいで……嫌なんです」
話は、星空ツアーのことだった。
由衣の勤める会社は、もともとは小規模ながら真面目な業者だった。天候が悪ければ無理に催行せず、星がよく見える場所を選び、ガイドも島の自然に敬意を持って案内していた。
だが、数ヶ月前から本土の資本と外資系の投資会社が入り、空気が変わった。
予約数を水増しする。
雲が厚い夜でも「星空保証」と言って強行する。
本来は避けるべき場所へ観光客を案内する。
写真映えする文句ばかりを並べ、見えもしない星を売る。
現場スタッフが危険だと言っても、「今は稼げる時に稼ぐべきだ」と押し切られる。
玲奈は黙って聞いていた。
詐欺と同じ匂いがした。
金を取るために期待を煽り、現場の良心を黙らせ、客の信頼を削っていく。
玲奈はそういうものを、かつて嫌というほど見てきた。NST時代、資金の流れを追い、表向きの綺麗な看板の裏にいる人間を見抜いてきた。
玲奈の目が、少し冷たくなる。
「資料はありますか」
由衣は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「募集文、予約画面、実際の催行記録、天候判断、案内場所。分かる範囲で」
その声は、もうただのカフェ店主のものではなかった。
数日後、玲奈は直接、その観光ツアー会社へ乗り込んだ。
白いシャツに細身のパンツ。派手な格好ではない。
だが、背筋の伸びた立ち姿だけで、事務所の空気が一瞬変わった。
応対した若い現場スタッフは、玲奈を見るなりほっとした顔をした。由衣だけでなく、他のスタッフも困っていたのだ。現場は真面目にやりたい。けれど、新しく入った資本側の管理者たちが、売上と回転率ばかりを要求していた。
奥から出てきた本土資本側の男は、愛想笑いを浮かべた。
「失礼ですが、どちら様ですか」
玲奈は静かに名乗った。
「島カフェしおかぜの岡本です。こちらのツアー運営について、確認したいことがあります」
男は笑った。
「うちは適正にやっていますよ。観光業は夢を売る仕事ですから」
玲奈は書類を一枚置いた。
「星が見えない夜に星を売るのは、夢ではありません。信用の切り売りです」
男の笑みが止まる。
玲奈は、集めた資料を淡々と並べた。
悪天候時の催行記録。
実際には使用許可が曖昧なエリアへの案内。
予約サイトの誇大な文言。
現場スタッフの中止判断を、資本側が覆した履歴。
さらに、投資会社側が短期回収を狙い、地元スタッフの声を無視して料金体系を変えていた形跡。
玲奈は、かつてNSTで培った嗅覚で、本質を見抜いていた。
これは単なる観光トラブルではない。
島の信用を食い物にする仕組みだ。
玲奈は観光協会、自治体窓口、地元の真面目なガイド、そして現場スタッフと連携した。
感情で騒がない。
相手をその場で糾弾するだけでは終わらせない。
契約、許可、広告表示、事故時責任、地域合意。逃げ道を一つずつ塞いでいく。
そして、曇天の夜。
本来なら中止すべき星空ツアーが、強行されようとしていた。
浜辺には不安そうな観光客たちが集まっていた。空は厚い雲に覆われ、星は一つも見えない。資本側の管理者は、それでも「雲の切れ間を待てば大丈夫」と案内を始めようとしていた。
そこへ、玲奈が現れた。
由衣と地元スタッフたちも一緒だった。
玲奈は観光客を不安にさせないよう、まず落ち着いた声で言った。
「本日のツアーは、安全と観測条件の面から中止が妥当です。返金および代替案内については、こちらで整理します」
管理者が声を荒げる。
「あなたにそんな権限はないでしょう」
玲奈は静かに見る。
「権限の問題ではありません。責任の問題です」
その冷たい声に、相手は詰まった。
観光協会の担当者も到着していた。自治体側も状況を把握している。地元ガイドたちも、由衣たち現場スタッフの側に立った。
数日後、怪しい本土資本と外資系の投資会社は撤退を決めた。
短期的な利益を狙った彼らにとって、地域と行政が目を光らせる事業は、もう旨味がなかった。
会社は、元の小さな業者へ戻った。
派手な広告文は消えた。
無理な催行もなくなった。
星が見えない日は、島の夜の音を聞く代替プランを提案する。
見える夜は、本当に美しい星を案内する。
由衣をはじめ、スタッフたちは大喜びだった。
「玲奈さん、ありがとうございます。これで、ちゃんと島の星を案内できます」
玲奈は短く答えた。
「あなたたちが守るべきものを守っただけです」
「でも、玲奈さんがいなかったら無理でした」
玲奈は少しだけ目を伏せる。
「私は、少し手伝っただけです」
その夜、事件が片づいたあと、玲奈は一人で浜辺に立った。
雲は晴れていた。
石垣の夜空は、驚くほど深かった。
星が海に落ちてくるように見える。
南の空の低いところに、南十字星が静かに輝いていた。
玲奈は、しばらく黙って見上げた。
神戸では、こんな空を見たことがなかった。
警察官として走り続けていた頃も、NSTのボスとして指揮を執っていた頃も、夜空を見上げる余裕などほとんどなかった。
今は違う。
亮介はまだ帰ってこない。
その日は、まだ何年も先かもしれない。
本当に来るのかさえ分からない。
それでも玲奈は、この島で店を開き、黒糖プリンを仕込み、客を迎え、時々こうして誰かの困りごとに動いてしまう。
玲奈は星空を見上げたまま、小さく呟いた。
「この南十字星を、亮介と一緒に眺める日が来るのかしら」
波の音だけが返ってくる。
玲奈は少しだけ笑った。
「……来るといいわね」
南ぬ島の夜風が、彼女の髪を揺らした。
星は何も答えなかった。
ただ、まだ帰らぬ男を待つ女の上で、静かに瞬いていた。




