美人店主に縁談の嵐――しおかぜの恋は予約不可
島カフェ「しおかぜ」は、少しずつ石垣島に名前を知られるようになっていた。
平久保岬へ向かう幹線道路沿い。市街地からは少し離れ、車がなければ来にくい場所にある小さな店。白い壁に木製の看板、入口横で風に鳴る貝殻飾り。店内には、神戸の純喫茶「霧笛」を思わせるアンティークな椅子とランプ、石垣らしいミンサー柄の小物、玲奈が手作りした貝殻のチャームが控えめに並んでいる。
名物は黒糖プリン。
神戸で覚えた苦いカラメルに、石垣の黒糖の深い甘さを重ねた、玲奈の店の顔だった。
最初は客足も頼りなかったが、玲奈の地道な努力は少しずつ実を結んでいた。集落の困りごとを解決し、台風前夜には迷子船を見つけ、特殊詐欺からおばあの年金通帳を守った。無愛想で、注文確認は調書のようで、笑顔は少ない。それでも島の人たちは、いつしか彼女をこう呼ぶようになった。
しおかぜの玲奈ちゃん。
その呼び名は、警察官時代のどんな肩書きよりも、玲奈には温かかった。
だが、知名度が上がると、別の問題も増える。
玲奈があまりにも美人すぎたのだ。
すらりとした立ち姿。女優のように整った顔立ち。静かで凛とした雰囲気。どこか影を抱えた大人の色気。観光客の中には、黒糖プリンより玲奈を見るために来たような者もいた。
ある午後、常連のおばあが黒糖プリンを食べながら、唐突に言った。
「玲奈ちゃん、いい人いるよ」
玲奈はコーヒーポットを持ったまま止まった。
「いい人、とは」
「お見合いさぁ。うちの甥っ子、役場勤めで真面目よ。車もあるし、家もあるさぁ」
隣のおじいも新聞を畳んで乗ってきた。
「漁協にも独身のええ男おるさぁ。魚も持ってくる。毎日刺身食べられるさぁ」
別のおばあは、まるで今日の天気を告げるように言った。
「玲奈ちゃんは美人だから、早く決めんと取られるさぁ」
玲奈は一瞬、言葉を探した。
被疑者の扱いなら慣れている。黙秘する相手、嘘をつく相手、挑発してくる相手。どんな相手でも、観察し、矛盾を拾い、冷静に詰めればよかった。
だが、縁談は違う。
玲奈は真顔で答えた。
「申し出はありがたいのですが、現在、結婚を前提とした交際の募集は行っておりません」
店内が静まり、次の瞬間、おじいとおばあが大笑いした。
「求人みたいに言うなさぁ!」
「玲奈ちゃん、恋愛も業務連絡かね!」
玲奈は少しだけ眉を寄せる。
「不適切な表現でしたか」
「適切すぎるさぁ。そこが問題さぁ」
観光客からも似たようなことはあった。
「店主さん、独身ですか」
「個人情報です」
「彼氏は?」
「回答を差し控えます」
「連絡先とか……」
「店内での営業妨害に該当する可能性があります」
その男は黒糖プリンの皿を抱えるようにして黙った。あとで常連のおばあは腹を抱えて笑った。
「玲奈ちゃん、求婚者を取り調べで撃退してるさぁ」
「不適切な接近への対応です」
「それを島では、モテて困ってるって言うさぁ」
玲奈は納得できない顔をしたが、反論はしなかった。
本当は、困っていた。
誰かの好意を粗末にしたいわけではない。島の人たちが自分を心配してくれていることも分かっている。一人で店を切り盛りする神戸から来た女を、どうにか幸せにしてやりたいと思ってくれている。その温かさは、ありがたかった。
けれど玲奈の心には、もう席がひとつ埋まっていた。
カウンターの端。
入口と窓の両方が見える席。
毎朝、誰よりも丁寧に拭いている席。
まだ誰も座らない。
けれど、玲奈の中ではもう、そこには男の影があった。
亮介。
罪を犯した男。
玲奈を騙した男。
それでも、取調室で「真人間になって、もう一度あなたの前に現れてもいいですか」と言った男。
その言葉が、玲奈の中から消えなかった。
嘘かもしれない。弱さかもしれない。罪から逃げるための、最後の縋りだったのかもしれない。
それでも玲奈は、あの瞬間の亮介の目を忘れられなかった。
神戸の夜、霧笛のカウンターで何度も考えた。
石垣に来て、黒糖プリンを仕込みながら何度も考えた。
なぜ待つのか。
なぜ忘れられないのか。
なぜ、ほかの誰かではだめなのか。
答えは、いつも綺麗ではなかった。
許したわけではない。
罪が消えたわけでもない。
ただ、もう一度まっとうに生きようとする彼を、どこかで見届けたいと思ってしまった。
そしてもし、彼が本当に帰ってくるなら、その時に灯りのついた場所を用意しておきたいと思ってしまった。
それは正義ではない。
職務でもない。
冷静な判断でもない。
ただ、女ごころだった。
ある夕方、閉店後の「しおかぜ」に、潮風だけが残っていた。玲奈はカウンター端の席を拭き、そこに売れ残った黒糖プリンを一つ置いた。
「今日も求婚されました」
誰もいない席へ向かって、玲奈は小さく言った。
返事はない。
「役場勤めの方と、漁協の方と、観光客の方。あと、軽トラのおじいからは、孫を勧められました」
言ってから、少しだけ頬が熱くなる。
こんなことを、まだ帰らぬ男に報告している自分が少し可笑しい。
けれど、言わずにはいられなかった。
「あなたが帰ってくるまで、私は何回断ればいいのかしら」
玲奈はプリンの皿を見つめた。
「早く帰ってきなさい、とは言わないわ。あなたには、背負わなければならない時間があるから」
声は静かだった。
少しだけ切なかった。
「でも、あまり遅いと……島のおばあたちに勝手に縁談を組まれるかもしれないわよ」
そこで玲奈は、ほんの少し笑った。
その笑みは、誰にも見せないものだった。
店主の笑顔でも、元警察官の顔でも、元戦隊ヒロインの顔でもない。
ただ、ひとりの男を待っている女の、柔らかくて少し寂しい笑みだった。
外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。
島カフェ しおかぜ。
黒糖プリンと深煎りコーヒーの店。
困りごとを解決してくれる店。
そして、美人店主がまだ帰らぬ男を健気に待ち続ける店。
玲奈はカウンターの灯りを少し落とした。
恋の予約は受け付けていない。
ただ一席だけ、ずっと空けてある。
その席に座る男が、本当に帰ってくるかどうかは分からない。
それでも玲奈は、明日もまたその席を拭く。
黒糖プリンを仕込み、コーヒーを淹れ、島の客を迎える。
待つということは、何もしないことではない。
毎日をきちんと続けることだと、玲奈はもう知っていた。




