おばあの年金通帳を守れ――黒糖プリンと静かな詐欺包囲網
島カフェ「しおかぜ」の午後は、いつもゆっくりだった。
平久保岬へ向かう幹線道路沿い。
市街地から少し離れた小さな店には、潮風がよく通る。白い壁、木製の看板、アンティーク調の椅子、神戸港の写真、石垣の海を写した小さな額。カウンターには、深煎りのコーヒーの香りと、黒糖プリンの甘く苦い匂いが静かに漂っていた。
玲奈は、黒糖プリンの皿を一つ、窓際の席へ運んだ。
その席に座っていたのは、常連のおばあだった。
いつもなら、店に入るなり、
「玲奈ちゃん、今日はプリンあるねえ?」
と笑う人である。
ところが、その日は様子が違った。
バッグを膝の上に抱え込み、何度もスマートフォンを確認している。
さんぴん茶にも手をつけない。
黒糖プリンを前にしても、スプーンを持たない。
玲奈は、すぐに異変に気づいた。
元警察官としての観察眼。
そして、かつて冷徹なる美貌のボスとして人の表情を読み、危険の匂いを嗅ぎ分けてきた感覚。
それは、石垣の小さなカフェ店主になった今も、消えてはいなかった。
玲奈は、あえてすぐには聞かなかった。
霧笛の女主人に教わった通り、まず温かいものを出し、相手が話せる空気を作る。
「黒糖プリンです」
「……ありがとうねえ」
おばあは笑おうとした。
しかし、その笑顔は硬かった。
その時、バッグの口から、封筒が少しだけ見えた。
市役所名を思わせるような印刷。
さらにスマートフォンに着信が入る。
おばあはびくりと肩を震わせた。
玲奈の目が細くなる。
「お電話、出なくてよろしいのですか」
「あとでいいさぁ。ちょっと、手続きのことでねえ」
「手続き」
「年金の戻りがあるとか、今日中にせんといけんとか……」
その言葉で、玲奈の中の空気が変わった。
還付金。
今日中。
ATM。
役所職員を装う電話。
焦らせる言葉。
典型的だった。
玲奈は静かに、おばあの向かいに座った。
「その電話、私が一緒に確認してもいいですか」
おばあは困ったように首を振る。
「いやいや、玲奈ちゃんに迷惑かけるわけにはいかんさぁ。わたしがちゃんと聞けばいいだけさぁ」
玲奈は声を荒げなかった。
ただ、いつもの無表情より少しだけ柔らかく言った。
「迷惑ではありません。これは、しおかぜの常連を守るための確認です」
おばあは、その言い方に少しだけ目を丸くした。
そして、小さく頷いた。
「……じゃあ、お願いしてもいいかねえ」
玲奈はスマートフォンの履歴と封筒を確認した。
相手は市役所の年金担当を名乗っていた。
還付金がある。
手続き期限は今日まで。
ATMで案内に従えば受け取れる。
すでに何度も電話があり、おばあは不安になって通帳を持って出てきたのだという。
玲奈の胸の奥に、冷たい火が灯った。
詐欺。
玲奈は詐欺が許せなかった。
それは正義感だけではない。
自分自身も、巨大詐欺事件で傷ついた被害者だったからだ。
日協商事事件。
金を奪われた人々。
生活を壊された高齢者たち。
そして、玲奈自身が本気で愛してしまった男、亮介が関わっていた罪。
詐欺は金だけを奪うのではない。
人の誇りを奪う。
判断力を責めさせる。
「騙された自分が悪い」と思わせる。
玲奈は、その傷をよく知っていた。
だからこそ、絶対に許せなかった。
しかし、怒りに任せて動くことはしない。
冷徹なる美貌のボスだった頃と同じく、玲奈はまず状況を整理した。
「おばあ、これから私がすることを聞いてください。あなたは悪くありません。相手が悪い。まず、それを覚えておいてください」
「でも、わたしがうっかりして……」
「違います」
玲奈の声は静かだが、強かった。
「騙されかけた人が悪いのではありません。騙そうとした人間が悪いのです」
おばあは、唇をきゅっと結んだ。
玲奈は駐在所へ連絡した。
続いて、市役所の担当窓口へ確認。
地域の民生委員、自治会長にも簡潔に連絡を入れる。
さらに、おばあのスマートフォンに次の電話が来た時のために、通話内容を記録できるよう準備した。
店内は、いつの間にか小さな本部のようになっていた。
おばあには黒糖プリンを食べてもらい、温かいさんぴん茶を出した。
不安で震える手に、甘さと苦さが少しずつ戻っていく。
「まず食べてください。血糖値が下がると判断が鈍ります」
「玲奈ちゃん、言い方が病院みたいさぁ」
「必要な処置です」
おばあは少し笑った。
その笑いを見て、玲奈は内心でほっとした。
やがて、再び電話が鳴った。
玲奈はおばあの横に座り、通話をスピーカーにする。
相手は焦らせる声で言う。
「今日中でないと還付金が受け取れません」
「通帳とカードを持ってATMへ」
「人に相談すると手続きが複雑になります」
玲奈は無表情でメモを取る。
言葉遣い。
誘導先。
指定されたATM。
受け渡しの可能性。
電話が切れると、玲奈は駐在所へ情報を共有した。
「指定ATMは南側の店舗内。受け子が近くで監視している可能性があります。おばあ本人は動かさない方がいい。危険を避けるため、警察側で確認をお願いします」
地元の駐在は、最初少し驚いていた。
しかし、玲奈の整理があまりにも的確だったため、すぐに協力態勢に入った。
「あんた、ほんまに元警察官なんやな」
「現在はカフェ店主です」
「いや、そこは今どうでもいいさぁ」
その後の動きは早かった。
駐在所、市役所、自治会が連携し、周辺の高齢者へ注意喚起が流れる。
指定されたATM付近には警戒が敷かれ、実際に様子を見に来た不審な若い男が職務質問を受ける。
電話をかけていたグループの末端、いわゆる受け子の一人だった。
事件は、大きな被害が出る前に止まった。
だが、玲奈が最も大事にしたのは、その後だった。
おばあが「騙されかけた人」として噂にならないこと。
恥をかかないこと。
自分を責めないこと。
玲奈は、翌日「しおかぜ」に常連たちを集めた。
もちろん、理由は重くしない。
「特殊詐欺注意のための地域確認会です。黒糖プリン付きです」
おじいが笑う。
「玲奈ちゃん、会議名が硬いさぁ」
「必要な会議です」
店内に、いつもの柔らかい笑いが広がる。
玲奈は、詐欺の手口を淡々と説明した。
役所を名乗る電話。
今日中という言葉。
ATMへ誘導する流れ。
人に相談させないようにする言い回し。
そして最後に、はっきり言った。
「騙された人が悪いのではありません。騙そうとした人間が悪いのです。不安に思ったら、ここに来てください。コーヒーを飲んでから、一緒に確認しましょう」
その言葉に、おばあは俯いた。
だが、隣のおばあがそっと肩を叩いた。
「みんな気をつけんといけんさぁ」
誰も責めなかった。
誰も笑わなかった。
その空気を作ったのは、玲奈だった。
数日後、助けられたおばあが、小さなお守りを持ってきた。
島の布で作った、手縫いの小さなお守りだった。
「玲奈ちゃん、これ、お礼さぁ。店に置いといて」
玲奈は少し困った顔をした。
「店内装飾との調和を確認します」
おばあは大笑いした。
「そういうところ、ほんと玲奈ちゃんさぁ」
結局、玲奈はそのお守りを入口近くの小さな棚に置いた。
亮介の席の近くではなく、店に入る誰もが見える場所に。
この店は、誰かを待つためだけの場所ではない。
ここへ来る人を守る場所にもなっていく。
その夜、閉店後の「しおかぜ」で、玲奈はカウンター端の席を拭いた。
まだ帰らぬ亮介の席。
「私、詐欺はやっぱり許せないわ」
小さく呟く。
亮介が関わった罪。
自分が傷ついた過去。
それでも、今の玲奈は誰かを恨むためではなく、誰かを守るためにその痛みを使っていた。
「あなたが帰ってきたら、こういうことも話すのかしら」
返事はない。
外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。
玲奈は入口のお守りを見た。
それから、ほんの少しだけ目を細める。
島カフェ「しおかぜ」は、今日も静かに灯っている。
黒糖プリンと深煎りコーヒーの店。
そして、誰かが不安になった時、逃げ込める場所。
玲奈は灯りを落とす前に、もう一度だけ呟いた。
「騙されかけた人は、悪くない」
その言葉は、島のおばあのためであり、かつての被害者たちのためであり、そして少しだけ、自分自身のためでもあった。




