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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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おばあの年金通帳を守れ――黒糖プリンと静かな詐欺包囲網

島カフェ「しおかぜ」の午後は、いつもゆっくりだった。


平久保岬へ向かう幹線道路沿い。

市街地から少し離れた小さな店には、潮風がよく通る。白い壁、木製の看板、アンティーク調の椅子、神戸港の写真、石垣の海を写した小さな額。カウンターには、深煎りのコーヒーの香りと、黒糖プリンの甘く苦い匂いが静かに漂っていた。


玲奈は、黒糖プリンの皿を一つ、窓際の席へ運んだ。


その席に座っていたのは、常連のおばあだった。

いつもなら、店に入るなり、


「玲奈ちゃん、今日はプリンあるねえ?」


と笑う人である。


ところが、その日は様子が違った。


バッグを膝の上に抱え込み、何度もスマートフォンを確認している。

さんぴん茶にも手をつけない。

黒糖プリンを前にしても、スプーンを持たない。


玲奈は、すぐに異変に気づいた。


元警察官としての観察眼。

そして、かつて冷徹なる美貌のボスとして人の表情を読み、危険の匂いを嗅ぎ分けてきた感覚。

それは、石垣の小さなカフェ店主になった今も、消えてはいなかった。


玲奈は、あえてすぐには聞かなかった。

霧笛の女主人に教わった通り、まず温かいものを出し、相手が話せる空気を作る。


「黒糖プリンです」


「……ありがとうねえ」


おばあは笑おうとした。

しかし、その笑顔は硬かった。


その時、バッグの口から、封筒が少しだけ見えた。

市役所名を思わせるような印刷。

さらにスマートフォンに着信が入る。

おばあはびくりと肩を震わせた。


玲奈の目が細くなる。


「お電話、出なくてよろしいのですか」


「あとでいいさぁ。ちょっと、手続きのことでねえ」


「手続き」


「年金の戻りがあるとか、今日中にせんといけんとか……」


その言葉で、玲奈の中の空気が変わった。


還付金。

今日中。

ATM。

役所職員を装う電話。

焦らせる言葉。


典型的だった。


玲奈は静かに、おばあの向かいに座った。


「その電話、私が一緒に確認してもいいですか」


おばあは困ったように首を振る。


「いやいや、玲奈ちゃんに迷惑かけるわけにはいかんさぁ。わたしがちゃんと聞けばいいだけさぁ」


玲奈は声を荒げなかった。

ただ、いつもの無表情より少しだけ柔らかく言った。


「迷惑ではありません。これは、しおかぜの常連を守るための確認です」


おばあは、その言い方に少しだけ目を丸くした。

そして、小さく頷いた。


「……じゃあ、お願いしてもいいかねえ」


玲奈はスマートフォンの履歴と封筒を確認した。

相手は市役所の年金担当を名乗っていた。

還付金がある。

手続き期限は今日まで。

ATMで案内に従えば受け取れる。

すでに何度も電話があり、おばあは不安になって通帳を持って出てきたのだという。


玲奈の胸の奥に、冷たい火が灯った。


詐欺。


玲奈は詐欺が許せなかった。

それは正義感だけではない。

自分自身も、巨大詐欺事件で傷ついた被害者だったからだ。

日協商事事件。

金を奪われた人々。

生活を壊された高齢者たち。

そして、玲奈自身が本気で愛してしまった男、亮介が関わっていた罪。


詐欺は金だけを奪うのではない。

人の誇りを奪う。

判断力を責めさせる。

「騙された自分が悪い」と思わせる。


玲奈は、その傷をよく知っていた。


だからこそ、絶対に許せなかった。


しかし、怒りに任せて動くことはしない。

冷徹なる美貌のボスだった頃と同じく、玲奈はまず状況を整理した。


「おばあ、これから私がすることを聞いてください。あなたは悪くありません。相手が悪い。まず、それを覚えておいてください」


「でも、わたしがうっかりして……」


「違います」


玲奈の声は静かだが、強かった。


「騙されかけた人が悪いのではありません。騙そうとした人間が悪いのです」


おばあは、唇をきゅっと結んだ。


玲奈は駐在所へ連絡した。

続いて、市役所の担当窓口へ確認。

地域の民生委員、自治会長にも簡潔に連絡を入れる。

さらに、おばあのスマートフォンに次の電話が来た時のために、通話内容を記録できるよう準備した。


店内は、いつの間にか小さな本部のようになっていた。


おばあには黒糖プリンを食べてもらい、温かいさんぴん茶を出した。

不安で震える手に、甘さと苦さが少しずつ戻っていく。


「まず食べてください。血糖値が下がると判断が鈍ります」


「玲奈ちゃん、言い方が病院みたいさぁ」


「必要な処置です」


おばあは少し笑った。

その笑いを見て、玲奈は内心でほっとした。


やがて、再び電話が鳴った。


玲奈はおばあの横に座り、通話をスピーカーにする。

相手は焦らせる声で言う。


「今日中でないと還付金が受け取れません」

「通帳とカードを持ってATMへ」

「人に相談すると手続きが複雑になります」


玲奈は無表情でメモを取る。

言葉遣い。

誘導先。

指定されたATM。

受け渡しの可能性。


電話が切れると、玲奈は駐在所へ情報を共有した。


「指定ATMは南側の店舗内。受け子が近くで監視している可能性があります。おばあ本人は動かさない方がいい。危険を避けるため、警察側で確認をお願いします」


地元の駐在は、最初少し驚いていた。

しかし、玲奈の整理があまりにも的確だったため、すぐに協力態勢に入った。


「あんた、ほんまに元警察官なんやな」


「現在はカフェ店主です」


「いや、そこは今どうでもいいさぁ」


その後の動きは早かった。


駐在所、市役所、自治会が連携し、周辺の高齢者へ注意喚起が流れる。

指定されたATM付近には警戒が敷かれ、実際に様子を見に来た不審な若い男が職務質問を受ける。

電話をかけていたグループの末端、いわゆる受け子の一人だった。


事件は、大きな被害が出る前に止まった。


だが、玲奈が最も大事にしたのは、その後だった。


おばあが「騙されかけた人」として噂にならないこと。

恥をかかないこと。

自分を責めないこと。


玲奈は、翌日「しおかぜ」に常連たちを集めた。

もちろん、理由は重くしない。


「特殊詐欺注意のための地域確認会です。黒糖プリン付きです」


おじいが笑う。


「玲奈ちゃん、会議名が硬いさぁ」


「必要な会議です」


店内に、いつもの柔らかい笑いが広がる。


玲奈は、詐欺の手口を淡々と説明した。

役所を名乗る電話。

今日中という言葉。

ATMへ誘導する流れ。

人に相談させないようにする言い回し。


そして最後に、はっきり言った。


「騙された人が悪いのではありません。騙そうとした人間が悪いのです。不安に思ったら、ここに来てください。コーヒーを飲んでから、一緒に確認しましょう」


その言葉に、おばあは俯いた。

だが、隣のおばあがそっと肩を叩いた。


「みんな気をつけんといけんさぁ」


誰も責めなかった。

誰も笑わなかった。

その空気を作ったのは、玲奈だった。


数日後、助けられたおばあが、小さなお守りを持ってきた。

島の布で作った、手縫いの小さなお守りだった。


「玲奈ちゃん、これ、お礼さぁ。店に置いといて」


玲奈は少し困った顔をした。


「店内装飾との調和を確認します」


おばあは大笑いした。


「そういうところ、ほんと玲奈ちゃんさぁ」


結局、玲奈はそのお守りを入口近くの小さな棚に置いた。

亮介の席の近くではなく、店に入る誰もが見える場所に。


この店は、誰かを待つためだけの場所ではない。

ここへ来る人を守る場所にもなっていく。


その夜、閉店後の「しおかぜ」で、玲奈はカウンター端の席を拭いた。

まだ帰らぬ亮介の席。


「私、詐欺はやっぱり許せないわ」


小さく呟く。


亮介が関わった罪。

自分が傷ついた過去。

それでも、今の玲奈は誰かを恨むためではなく、誰かを守るためにその痛みを使っていた。


「あなたが帰ってきたら、こういうことも話すのかしら」


返事はない。

外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。


玲奈は入口のお守りを見た。

それから、ほんの少しだけ目を細める。


島カフェ「しおかぜ」は、今日も静かに灯っている。

黒糖プリンと深煎りコーヒーの店。

そして、誰かが不安になった時、逃げ込める場所。


玲奈は灯りを落とす前に、もう一度だけ呟いた。


「騙されかけた人は、悪くない」


その言葉は、島のおばあのためであり、かつての被害者たちのためであり、そして少しだけ、自分自身のためでもあった。

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