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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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台風前夜の迷子船――元ボスは、島の灯りを消さない

石垣の空は、朝から低かった。


平久保岬へ向かう幹線道路沿いにある島カフェ「しおかぜ」の窓から見える海は、いつもの青ではなく、鉛を溶かしたような色をしていた。

風は昼前から強くなり、店先のハイビスカスは葉を裏返し、木製看板の貝殻飾りは、いつもより硬い音を立てて鳴っている。


台風が近づいていた。


玲奈は早めの閉店を決めた。

観光客は来ない。

地元の常連たちも、今日は買い出しと雨戸の確認で忙しい。

玲奈はカウンターを拭き、残った黒糖プリンを冷蔵庫にしまい、窓に養生テープを貼った。


神戸の純喫茶「霧笛」で覚えた店じまいとは違う。

石垣では、台風は生活の一部だった。


看板を店内へ入れ、入口の貝殻飾りを外す。

懐中電灯、飲料水、カセットコンロ、簡単な食材、予備のタオル。

玲奈は一つずつ確認していく。


「水、電池、非常食。問題なし」


自分で呟いて、少しだけ苦笑した。

まるで任務前の装備確認だった。


その時、店の扉が激しく叩かれた。


玲奈が開けると、常連のおばあが立っていた。

髪は風で乱れ、顔色が悪い。


「玲奈ちゃん、大変さぁ。孫が戻らんのよ」


「落ち着いてください。中へ」


玲奈はすぐにおばあを店内へ入れ、椅子に座らせた。

温かいさんぴん茶を出す。

おばあの手は震えていた。


話を聞くと、孫は小型船の手伝いで海へ出ていたという。

台風が近づく前に戻る予定だった。

だが、まだ帰ってこない。

携帯は繋がらない。

港の知人たちも台風対策で混乱している。


玲奈の表情が変わった。


さっきまでのカフェ店主ではない。

目の奥が冷え、声の温度が下がる。

かつて西日本特別諜報班のボスとして、危険な現場で仲間に指示を飛ばしていた女の顔だった。


「出発時間は?」


おばあは一瞬、戸惑う。


「朝の九時ごろさぁ」


「船の種類。人数。燃料。最後に見た場所」


「玲奈ちゃん……?」


「順番に教えてください」


その声は静かだった。

しかし逆らえない強さがあった。


玲奈は紙を出し、情報を書き込んでいく。

出港時刻。

船の大きさ。

乗っていた人数。

予定していた作業海域。

風向き。

潮の流れ。

連絡が途絶えた時間。


そしてすぐ、地元の漁師、港の関係者、駐在所へ連絡を入れる。


「闇雲に探せば、探す側も危険です。最後に確認された場所から、風と潮で流される範囲を絞ります」


集まった漁師たちは、最初、面食らった。


まだ若い女。

カフェの店主。

元警察官とは聞いているが、海のことまで分かるのか。

そんな空気が一瞬流れた。


だが、玲奈の言葉は無駄がなかった。


「この風なら、北東へ出る可能性は低い。むしろ、風を避けて小さな入り江へ入った可能性があります。燃料が少なければ、無理に港へ戻るより避難を選ぶはずです」


漁師の一人が眉をひそめる。


「なんでそこまで分かるさぁ」


玲奈は短く答えた。


「以前、海と空を使う任務に関わっていました」


説明はそれだけだった。


けれど、玲奈の頭の中にはNST時代の記憶が戻っていた。

海上ルートを読む河合美音。

空から対象を追った若林あおい。

港湾地区で逃走経路を塞いだ夜。

通信の向こうで響く仲間たちの声。


今ここに彼女たちはいない。

だが、彼女たちと積み重ねた経験は、玲奈の中に残っていた。


「捜索に出る船は最小限にしてください。無理をすれば二次被害になります。陸側から入れる入り江を確認。港側は連絡待機。見つけたら、まず無事確認。曳航は風が落ちてから判断します」


漁師たちは顔を見合わせた。


若い女性に指示されることへの戸惑いはあった。

だが、指示があまりにも的確だった。

現場を知らない人間の机上論ではない。

危険と手順を同時に見ている言葉だった。


年配の漁師が頷く。


「分かった。玲奈ちゃんの言う通りに動こう」


そこからは早かった。


漁師たちは連絡網を回し、陸から確認できるポイントへ人を出す。

駐在所は念のため関係機関へ状況を伝える。

玲奈は「しおかぜ」に残り、情報の集約と連絡役を引き受けた。


店は、いつの間にか小さな本部のようになっていた。


外では風が窓を叩く。

雨が強くなり始める。

店内には、おばあや近所の人たちが集まり、不安そうに椅子に座っていた。


玲奈はカセットコンロで湯を沸かし、温かい黒糖ミルクを出す。

タオルを配り、濡れた床を拭き、電話の内容を整理する。


カフェ店主として客を迎えながら、元ボスとして状況を見ている。

その二つが、今の玲奈の中で自然に重なっていた。


やがて、一本の連絡が入る。


「見つかったさぁ!」


船は、予想通り小さな入り江に入っていた。

エンジンの調子が悪くなり、風が強くなったため無理に戻らず、岩陰に避難していたという。

乗っていた者たちは無事。

怪我もない。


店内に、安堵の声が広がった。


おばあは泣き崩れそうになりながら、玲奈の手を握った。


「玲奈ちゃん、ありがとう。玲奈ちゃんがいてくれてよかったさぁ」


玲奈は少しだけ目を伏せる。


「無事で何よりです」


相変わらず仏頂面だった。

声も平坦だった。

けれど、胸の奥では、何か温かいものが静かにほどけていた。


その夜、「しおかぜ」は避難所のようになった。


風が強く、帰るのが不安な者たちがしばらく店に残る。

玲奈は温かい飲み物を出し、残っていたパンを軽く焼き、黒糖を小皿に分けた。

黒糖プリンも、冷蔵庫からいくつか出した。


「売り物ですから、代金は――」


と言いかけた玲奈を、おばあが遮る。


「今日はそういう日じゃないさぁ」


玲奈は少し黙り、頷いた。


「では、非常時対応とします」


「言い方が硬いさぁ」


店内に笑いが起きた。


誰もが口々に言った。


「玲奈ちゃんがいてくれてよかったさぁ」

「しおかぜが開いてて助かったさぁ」

「ここ、ほんとに灯りみたいな店さぁ」


玲奈はそのたびに、


「無事で何よりです」


とだけ返した。


でも、内心は嬉しかった。


自分はもう警察官ではない。

戦隊ヒロインでもない。

冷徹なる美貌のボスでもない。


けれど、ここでも誰かの役に立てる。

ここでも誰かを守れる。

その事実が、玲奈の胸に静かに残った。


深夜、風が少し弱まり、人々が帰っていったあと、店には玲奈ひとりが残った。


濡れた床を拭き、カップを洗い、椅子を戻す。

店内は少し散らかっていたが、灯りは消えていなかった。


玲奈はカウンター端の席を拭いた。


亮介の席。

まだ帰らぬ男のために空けている席。


外では、台風の名残の風が木製看板を揺らしている。


玲奈は小さく呟いた。


「私、やっぱりこういう時は動いてしまうのね」


その声には、呆れと、少しの誇りが混じっていた。


待つ女になった。

けれど、守る女であることは変わらない。


玲奈は灯りを落とす前に、もう一度店内を見回した。


島カフェ「しおかぜ」は、ただ亮介を待つためだけの店ではなくなりつつあった。

この島で、誰かが不安な夜に逃げ込める場所。

灯りの消えない、小さな店。


玲奈は最後に入口の鍵を確認し、静かに息を吐いた。


「無事で何よりです」


誰に向けた言葉でもない。

けれどその言葉は、台風前夜のしおかぜに、やさしく残った。

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