台風前夜の迷子船――元ボスは、島の灯りを消さない
石垣の空は、朝から低かった。
平久保岬へ向かう幹線道路沿いにある島カフェ「しおかぜ」の窓から見える海は、いつもの青ではなく、鉛を溶かしたような色をしていた。
風は昼前から強くなり、店先のハイビスカスは葉を裏返し、木製看板の貝殻飾りは、いつもより硬い音を立てて鳴っている。
台風が近づいていた。
玲奈は早めの閉店を決めた。
観光客は来ない。
地元の常連たちも、今日は買い出しと雨戸の確認で忙しい。
玲奈はカウンターを拭き、残った黒糖プリンを冷蔵庫にしまい、窓に養生テープを貼った。
神戸の純喫茶「霧笛」で覚えた店じまいとは違う。
石垣では、台風は生活の一部だった。
看板を店内へ入れ、入口の貝殻飾りを外す。
懐中電灯、飲料水、カセットコンロ、簡単な食材、予備のタオル。
玲奈は一つずつ確認していく。
「水、電池、非常食。問題なし」
自分で呟いて、少しだけ苦笑した。
まるで任務前の装備確認だった。
その時、店の扉が激しく叩かれた。
玲奈が開けると、常連のおばあが立っていた。
髪は風で乱れ、顔色が悪い。
「玲奈ちゃん、大変さぁ。孫が戻らんのよ」
「落ち着いてください。中へ」
玲奈はすぐにおばあを店内へ入れ、椅子に座らせた。
温かいさんぴん茶を出す。
おばあの手は震えていた。
話を聞くと、孫は小型船の手伝いで海へ出ていたという。
台風が近づく前に戻る予定だった。
だが、まだ帰ってこない。
携帯は繋がらない。
港の知人たちも台風対策で混乱している。
玲奈の表情が変わった。
さっきまでのカフェ店主ではない。
目の奥が冷え、声の温度が下がる。
かつて西日本特別諜報班のボスとして、危険な現場で仲間に指示を飛ばしていた女の顔だった。
「出発時間は?」
おばあは一瞬、戸惑う。
「朝の九時ごろさぁ」
「船の種類。人数。燃料。最後に見た場所」
「玲奈ちゃん……?」
「順番に教えてください」
その声は静かだった。
しかし逆らえない強さがあった。
玲奈は紙を出し、情報を書き込んでいく。
出港時刻。
船の大きさ。
乗っていた人数。
予定していた作業海域。
風向き。
潮の流れ。
連絡が途絶えた時間。
そしてすぐ、地元の漁師、港の関係者、駐在所へ連絡を入れる。
「闇雲に探せば、探す側も危険です。最後に確認された場所から、風と潮で流される範囲を絞ります」
集まった漁師たちは、最初、面食らった。
まだ若い女。
カフェの店主。
元警察官とは聞いているが、海のことまで分かるのか。
そんな空気が一瞬流れた。
だが、玲奈の言葉は無駄がなかった。
「この風なら、北東へ出る可能性は低い。むしろ、風を避けて小さな入り江へ入った可能性があります。燃料が少なければ、無理に港へ戻るより避難を選ぶはずです」
漁師の一人が眉をひそめる。
「なんでそこまで分かるさぁ」
玲奈は短く答えた。
「以前、海と空を使う任務に関わっていました」
説明はそれだけだった。
けれど、玲奈の頭の中にはNST時代の記憶が戻っていた。
海上ルートを読む河合美音。
空から対象を追った若林あおい。
港湾地区で逃走経路を塞いだ夜。
通信の向こうで響く仲間たちの声。
今ここに彼女たちはいない。
だが、彼女たちと積み重ねた経験は、玲奈の中に残っていた。
「捜索に出る船は最小限にしてください。無理をすれば二次被害になります。陸側から入れる入り江を確認。港側は連絡待機。見つけたら、まず無事確認。曳航は風が落ちてから判断します」
漁師たちは顔を見合わせた。
若い女性に指示されることへの戸惑いはあった。
だが、指示があまりにも的確だった。
現場を知らない人間の机上論ではない。
危険と手順を同時に見ている言葉だった。
年配の漁師が頷く。
「分かった。玲奈ちゃんの言う通りに動こう」
そこからは早かった。
漁師たちは連絡網を回し、陸から確認できるポイントへ人を出す。
駐在所は念のため関係機関へ状況を伝える。
玲奈は「しおかぜ」に残り、情報の集約と連絡役を引き受けた。
店は、いつの間にか小さな本部のようになっていた。
外では風が窓を叩く。
雨が強くなり始める。
店内には、おばあや近所の人たちが集まり、不安そうに椅子に座っていた。
玲奈はカセットコンロで湯を沸かし、温かい黒糖ミルクを出す。
タオルを配り、濡れた床を拭き、電話の内容を整理する。
カフェ店主として客を迎えながら、元ボスとして状況を見ている。
その二つが、今の玲奈の中で自然に重なっていた。
やがて、一本の連絡が入る。
「見つかったさぁ!」
船は、予想通り小さな入り江に入っていた。
エンジンの調子が悪くなり、風が強くなったため無理に戻らず、岩陰に避難していたという。
乗っていた者たちは無事。
怪我もない。
店内に、安堵の声が広がった。
おばあは泣き崩れそうになりながら、玲奈の手を握った。
「玲奈ちゃん、ありがとう。玲奈ちゃんがいてくれてよかったさぁ」
玲奈は少しだけ目を伏せる。
「無事で何よりです」
相変わらず仏頂面だった。
声も平坦だった。
けれど、胸の奥では、何か温かいものが静かにほどけていた。
その夜、「しおかぜ」は避難所のようになった。
風が強く、帰るのが不安な者たちがしばらく店に残る。
玲奈は温かい飲み物を出し、残っていたパンを軽く焼き、黒糖を小皿に分けた。
黒糖プリンも、冷蔵庫からいくつか出した。
「売り物ですから、代金は――」
と言いかけた玲奈を、おばあが遮る。
「今日はそういう日じゃないさぁ」
玲奈は少し黙り、頷いた。
「では、非常時対応とします」
「言い方が硬いさぁ」
店内に笑いが起きた。
誰もが口々に言った。
「玲奈ちゃんがいてくれてよかったさぁ」
「しおかぜが開いてて助かったさぁ」
「ここ、ほんとに灯りみたいな店さぁ」
玲奈はそのたびに、
「無事で何よりです」
とだけ返した。
でも、内心は嬉しかった。
自分はもう警察官ではない。
戦隊ヒロインでもない。
冷徹なる美貌のボスでもない。
けれど、ここでも誰かの役に立てる。
ここでも誰かを守れる。
その事実が、玲奈の胸に静かに残った。
深夜、風が少し弱まり、人々が帰っていったあと、店には玲奈ひとりが残った。
濡れた床を拭き、カップを洗い、椅子を戻す。
店内は少し散らかっていたが、灯りは消えていなかった。
玲奈はカウンター端の席を拭いた。
亮介の席。
まだ帰らぬ男のために空けている席。
外では、台風の名残の風が木製看板を揺らしている。
玲奈は小さく呟いた。
「私、やっぱりこういう時は動いてしまうのね」
その声には、呆れと、少しの誇りが混じっていた。
待つ女になった。
けれど、守る女であることは変わらない。
玲奈は灯りを落とす前に、もう一度店内を見回した。
島カフェ「しおかぜ」は、ただ亮介を待つためだけの店ではなくなりつつあった。
この島で、誰かが不安な夜に逃げ込める場所。
灯りの消えない、小さな店。
玲奈は最後に入口の鍵を確認し、静かに息を吐いた。
「無事で何よりです」
誰に向けた言葉でもない。
けれどその言葉は、台風前夜のしおかぜに、やさしく残った。




