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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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南ぬ島では、元ヒロインの過去を誰も聞かない

島カフェ「しおかぜ」の看板は、潮風に少しずつ馴染んできた。


開業したばかりの頃は、まだ木の色が新しく、どこかよそ者めいていた。

けれど、石垣の強い日差しと、夜の湿った風と、時折吹きつける雨に晒されるうちに、看板の角は少し丸くなり、白い壁も、赤瓦風の屋根も、島の景色の中に静かに溶け込んでいった。


店の名は、島カフェ しおかぜ。

ただし、常連たちはもう正式名では呼ばない。


「しおかぜ寄ってくるさぁ」

「玲奈ちゃんの黒糖プリン、まだあるかねえ」

「平久保行く前に、ちょっとしおかぜで休むさぁ」


そう呼ばれるたびに、玲奈は少しだけ胸の奥が温かくなる。


カウンターに立つ玲奈は、相変わらず静かだった。

白いシャツに、深い藍色のエプロン。

髪はきちんとまとめ、背筋はまっすぐ。

注文を取る声は少し硬い。


「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」


初めて来た観光客は、一瞬だけ目を丸くする。

地元のおじいは慣れたもので、新聞から顔も上げずに答える。


「相違ないさぁ」


隣のおばあが笑う。


「玲奈ちゃん、今日も調書取ってるさぁ」


玲奈は真顔で言う。


「確認は重要です」


「それも、しおかぜの味さぁ」


その一言で、店内に小さな笑いが広がる。


神戸の純喫茶「霧笛」でも、同じことを言われた。

注文が調書みたいだと。

確認が取り調べみたいだと。

笑顔の練習をすると、かえって事件性が増すと。


玲奈は何度か直そうとした。

しかし、どうしても警察官時代の癖は抜けなかった。

それならそれでよい、と島の人たちは受け入れてくれた。


「玲奈ちゃんは笑わんけど、悪い人じゃないさぁ」

「水はすぐ注いでくれる」

「プリンは優しい味するさぁ」


それで十分だった。


この島の常連たちは、玲奈のことをほとんど知らない。


神戸から来たらしい。

元警察官らしい。

ひどく美人だが、少し近寄りがたい。

でも、黒糖プリンはうまい。

それくらいである。


玲奈がかつて兵庫県警の交通課で「国道二号線の鬼台貫」と呼ばれ、過積載の取り締まりで恐れられていたこと。

県警音楽隊カラーガード隊で派手な衣装で白いロングブーツを履き、イベント会場で人目を引いていたこと。

県警のポスターに起用され、“美人すぎる警察官”として知られていたこと。

そして、戦隊ヒロインとして危険な任務に身を投じ、冷徹なる美貌のボスと呼ばれたこと。


ここでは、誰も知らない。


知る必要もない。


「玲奈ちゃん、前はいろいろあった顔してるさぁ」


ある日の午後、おばあが黒糖プリンを食べながら言った。


玲奈は、コーヒーポットを持つ手をほんの少し止めた。


おばあは続ける。


「でも、聞かんさぁ。今ここでコーヒー淹れてくれてるなら、それでいいさぁ」


玲奈はしばらく黙り、やがて静かに頷いた。


「ありがとうございます」


その言葉は、思ったより深いところから出た。


神戸での生活は、充実していた。

警察官として働く日々には、確かなやりがいがあった。

道路の安全を守ること。

事故を防ぐこと。

誰かの命を、まだ起きていない悲劇から守ること。


戦隊ヒロインとしての活動にも、誇りはあった。

仲間を率い、危険な現場に立ち、見えないところで誰かを守る。

それは確かに、玲奈の人生の大切な一部だった。


だが、その日々はあまりに張り詰めていた。


朝から晩まで判断を迫られた。

人の嘘を見抜き、逃げ道を塞ぎ、証拠を追い、仲間に指示を出す。

時には自分の感情を切り捨て、冷静さだけを武器に前へ進んだ。


神戸の街は好きだった。

港も、坂も、夜景も、霧笛のコーヒーも好きだった。

それでも、あの街では玲奈はいつも誰かに見られていた。


警察官として。

ヒロインとして。

ボスとして。

そして、事件に傷ついた女として。


ここ、南ぬ島では違った。


誰も急かさない。

誰も玲奈の過去を看板にしない。

誰も、なぜこの島に来たのかを根掘り葉掘り聞かない。


地元のおじいは、ただ新聞を読みに来る。

おばあは、黒糖プリンを食べながら畑の話をする。

農家の若者は、軽トラを店の前に停めてアイスコーヒーを飲む。

観光客は、平久保岬へ向かう途中で少し休んでいく。


玲奈は、その静けさが好きになっていた。


店の中には、戦隊ヒロイン時代の写真も、県警時代のポスターも飾っていない。

カラーガード隊の華やかな制服姿も、任務時代の記念品もない。


あるのは、神戸の純喫茶「霧笛」から持ってきた小さな港の写真。

石垣の海の写真。

ミンサー柄の布小物。

貝殻のチャーム。

玲奈が作ったコースター。

そして、カウンター端の一席。


その席だけは、毎朝少し丁寧に拭く。


入口と窓の両方が見える席。

まだ帰らぬ亮介のために、玲奈が勝手に空けている席だった。


常連のおばあは、それに気づいている。


「玲奈ちゃん、あそこはいつも綺麗にしてるねえ」


玲奈は、コーヒーカップを棚へ戻しながら答える。


「予備席です」


おばあは、深くは聞かない。


「そうねえ。予備は大事さぁ」


その距離感が、玲奈にはありがたかった。


夕方、客が引いたあと、店には潮風だけが残る。

玲奈は帳簿をつける。

黒糖プリンの売れ行きは悪くない。

大儲けではないが、店は少しずつ続いている。


閉店前、玲奈は亮介の席を拭いた。


「ここ、悪くないわよ」


小さく呟く。


返事はない。


「あなたが帰ってくる頃には、もう少しちゃんとした店にしておくわ」


少し間を置いて、玲奈は自分で自分に言い訳するように付け加えた。


「接客以外は」


誰もいない店内で、玲奈はほんの少しだけ笑った。


神戸の霧笛で覚えた苦いカラメルは、石垣の黒糖の甘さに変わり始めている。

追う女だった玲奈は、少しずつ待つ女になっていた。


誰も過去を聞かない南ぬ島で。

元警察官でも、元戦隊ヒロインでも、事件に傷ついた女でもなく。


玲奈は今日も、しおかぜの玲奈ちゃんとして、静かに店の灯りをともしている。

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