南ぬ島では、元ヒロインの過去を誰も聞かない
島カフェ「しおかぜ」の看板は、潮風に少しずつ馴染んできた。
開業したばかりの頃は、まだ木の色が新しく、どこかよそ者めいていた。
けれど、石垣の強い日差しと、夜の湿った風と、時折吹きつける雨に晒されるうちに、看板の角は少し丸くなり、白い壁も、赤瓦風の屋根も、島の景色の中に静かに溶け込んでいった。
店の名は、島カフェ しおかぜ。
ただし、常連たちはもう正式名では呼ばない。
「しおかぜ寄ってくるさぁ」
「玲奈ちゃんの黒糖プリン、まだあるかねえ」
「平久保行く前に、ちょっとしおかぜで休むさぁ」
そう呼ばれるたびに、玲奈は少しだけ胸の奥が温かくなる。
カウンターに立つ玲奈は、相変わらず静かだった。
白いシャツに、深い藍色のエプロン。
髪はきちんとまとめ、背筋はまっすぐ。
注文を取る声は少し硬い。
「ご注文を確認します。ブレンド一点、黒糖プリン一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」
初めて来た観光客は、一瞬だけ目を丸くする。
地元のおじいは慣れたもので、新聞から顔も上げずに答える。
「相違ないさぁ」
隣のおばあが笑う。
「玲奈ちゃん、今日も調書取ってるさぁ」
玲奈は真顔で言う。
「確認は重要です」
「それも、しおかぜの味さぁ」
その一言で、店内に小さな笑いが広がる。
神戸の純喫茶「霧笛」でも、同じことを言われた。
注文が調書みたいだと。
確認が取り調べみたいだと。
笑顔の練習をすると、かえって事件性が増すと。
玲奈は何度か直そうとした。
しかし、どうしても警察官時代の癖は抜けなかった。
それならそれでよい、と島の人たちは受け入れてくれた。
「玲奈ちゃんは笑わんけど、悪い人じゃないさぁ」
「水はすぐ注いでくれる」
「プリンは優しい味するさぁ」
それで十分だった。
この島の常連たちは、玲奈のことをほとんど知らない。
神戸から来たらしい。
元警察官らしい。
ひどく美人だが、少し近寄りがたい。
でも、黒糖プリンはうまい。
それくらいである。
玲奈がかつて兵庫県警の交通課で「国道二号線の鬼台貫」と呼ばれ、過積載の取り締まりで恐れられていたこと。
県警音楽隊カラーガード隊で派手な衣装で白いロングブーツを履き、イベント会場で人目を引いていたこと。
県警のポスターに起用され、“美人すぎる警察官”として知られていたこと。
そして、戦隊ヒロインとして危険な任務に身を投じ、冷徹なる美貌のボスと呼ばれたこと。
ここでは、誰も知らない。
知る必要もない。
「玲奈ちゃん、前はいろいろあった顔してるさぁ」
ある日の午後、おばあが黒糖プリンを食べながら言った。
玲奈は、コーヒーポットを持つ手をほんの少し止めた。
おばあは続ける。
「でも、聞かんさぁ。今ここでコーヒー淹れてくれてるなら、それでいいさぁ」
玲奈はしばらく黙り、やがて静かに頷いた。
「ありがとうございます」
その言葉は、思ったより深いところから出た。
神戸での生活は、充実していた。
警察官として働く日々には、確かなやりがいがあった。
道路の安全を守ること。
事故を防ぐこと。
誰かの命を、まだ起きていない悲劇から守ること。
戦隊ヒロインとしての活動にも、誇りはあった。
仲間を率い、危険な現場に立ち、見えないところで誰かを守る。
それは確かに、玲奈の人生の大切な一部だった。
だが、その日々はあまりに張り詰めていた。
朝から晩まで判断を迫られた。
人の嘘を見抜き、逃げ道を塞ぎ、証拠を追い、仲間に指示を出す。
時には自分の感情を切り捨て、冷静さだけを武器に前へ進んだ。
神戸の街は好きだった。
港も、坂も、夜景も、霧笛のコーヒーも好きだった。
それでも、あの街では玲奈はいつも誰かに見られていた。
警察官として。
ヒロインとして。
ボスとして。
そして、事件に傷ついた女として。
ここ、南ぬ島では違った。
誰も急かさない。
誰も玲奈の過去を看板にしない。
誰も、なぜこの島に来たのかを根掘り葉掘り聞かない。
地元のおじいは、ただ新聞を読みに来る。
おばあは、黒糖プリンを食べながら畑の話をする。
農家の若者は、軽トラを店の前に停めてアイスコーヒーを飲む。
観光客は、平久保岬へ向かう途中で少し休んでいく。
玲奈は、その静けさが好きになっていた。
店の中には、戦隊ヒロイン時代の写真も、県警時代のポスターも飾っていない。
カラーガード隊の華やかな制服姿も、任務時代の記念品もない。
あるのは、神戸の純喫茶「霧笛」から持ってきた小さな港の写真。
石垣の海の写真。
ミンサー柄の布小物。
貝殻のチャーム。
玲奈が作ったコースター。
そして、カウンター端の一席。
その席だけは、毎朝少し丁寧に拭く。
入口と窓の両方が見える席。
まだ帰らぬ亮介のために、玲奈が勝手に空けている席だった。
常連のおばあは、それに気づいている。
「玲奈ちゃん、あそこはいつも綺麗にしてるねえ」
玲奈は、コーヒーカップを棚へ戻しながら答える。
「予備席です」
おばあは、深くは聞かない。
「そうねえ。予備は大事さぁ」
その距離感が、玲奈にはありがたかった。
夕方、客が引いたあと、店には潮風だけが残る。
玲奈は帳簿をつける。
黒糖プリンの売れ行きは悪くない。
大儲けではないが、店は少しずつ続いている。
閉店前、玲奈は亮介の席を拭いた。
「ここ、悪くないわよ」
小さく呟く。
返事はない。
「あなたが帰ってくる頃には、もう少しちゃんとした店にしておくわ」
少し間を置いて、玲奈は自分で自分に言い訳するように付け加えた。
「接客以外は」
誰もいない店内で、玲奈はほんの少しだけ笑った。
神戸の霧笛で覚えた苦いカラメルは、石垣の黒糖の甘さに変わり始めている。
追う女だった玲奈は、少しずつ待つ女になっていた。
誰も過去を聞かない南ぬ島で。
元警察官でも、元戦隊ヒロインでも、事件に傷ついた女でもなく。
玲奈は今日も、しおかぜの玲奈ちゃんとして、静かに店の灯りをともしている。




