島のおじいとおばあは、女店主の過去を聞かない
島カフェ「しおかぜ」は、少しずつ島に馴染み始めていた。
最初の頃は、ほとんど客が来なかった。
平久保岬へ向かう幹線道路沿い。市街地から少し離れ、バスの本数も少ない。観光客が偶然見つけるには地味で、地元の人にとっても「あの新しい店、何の店かねえ」という程度の存在だった。
それでも玲奈は、毎朝きちんと看板を出した。
島カフェ しおかぜ
木製の小さな看板は、潮風に吹かれて少しずつ色を変えていった。
白い壁、アンティーク調の椅子、神戸港の写真、石垣の海を写した小さな額、レジ横に並ぶ玲奈手作りの貝殻チャーム。
派手な店ではない。けれど、玲奈が一つひとつ選び、磨き、整えた店だった。
地道な活動は、少しずつ実を結んだ。
公民館の清掃に参加し、手作り市に黒糖プリンを持って行き、祭りの準備では無言で机を運び、交通安全教室では子どもたちに妙な緊張感を与えた。
SNSの文章は相変わらず硬かったが、写真はよかった。観光情報誌の小さな広告も効き始めた。
やがて、地元のおじいとおばあが、気軽に立ち寄るようになった。
午前中には、畑帰りのおじいがブレンドを一杯。
昼過ぎには、おばあ二人が黒糖プリンを分け合いながら孫の話をする。
夕方には、軽トラで通りかかった農家の人がアイスコーヒーを頼む。
平久保岬へ向かうレンタカー客も、ぽつぽつ入るようになった。
大繁盛ではない。
けれど、開業当初のような危うい赤字続きではなくなっていた。
閉店後、玲奈は帳簿を見て、小さく息を吐く。
「……少しは、持ち直したわね」
利益はまだ薄い。
余裕などない。
それでも、明日も店を開けられる数字だった。
その事実が、玲奈には嬉しかった。
ただし、接客だけは相変わらずだった。
ある昼下がり、おばあがカウンター席に腰かけた。
「玲奈ちゃん、黒糖プリンと冷たいさんぴん茶ちょうだい」
玲奈は伝票を手に、まっすぐおばあを見る。
「ご注文を確認します。黒糖プリン一点、冷たいさんぴん茶一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」
おばあは一瞬きょとんとし、それから声を立てて笑った。
「玲奈ちゃん、また調書取ってるさぁ」
隣のおじいも新聞を畳んで笑う。
「この子の注文取り、警察みたいさぁ」
玲奈は真顔で答えた。
「確認は重要です」
「だから元警察官なんさぁ」
おばあは黒糖プリンを一口食べ、のんびり言った。
「でも、それもよいさぁ。玲奈ちゃんらしいさぁ」
玲奈は少しだけ目を伏せる。
神戸の純喫茶「霧笛」でも、同じことを言われた。
注文が調書みたい。
確認が取り調べみたい。
笑顔が事件性を帯びている。
自分なりに直そうとしたが、どうにもならなかった。
けれど石垣の常連たちは、それを欠点としてではなく、玲奈の味として受け入れてくれた。
「玲奈ちゃんは笑わんけど、水はすぐ注いでくれるさぁ」
「注文は怖いけど、プリンは優しいさぁ」
「元警察官なら仕方ないさぁ」
そんなふうに言いながら、誰も離れていかなかった。
彼らは、玲奈が元警察官であることは知っている。
けれど、それ以上のことは知らない。
玲奈がかつて戦隊ヒロインだったこと。
危険な裏任務の現場に立っていたこと。
巨額詐欺事件で被害者になったこと。
そして、その事件の男を本気で愛してしまったこと。
誰も知らない。
そして、誰も聞かない。
それが島の人たちの距離感だった。
ある午後、おばあが黒糖プリンを食べながら、ふと玲奈を見た。
「玲奈ちゃん、前はいろいろあったんやろうねえ」
玲奈の手が、ほんの少し止まった。
だが、おばあはそれ以上踏み込まなかった。
スプーンでプリンをすくいながら、穏やかに続ける。
「でも、聞かんさぁ。今ここでコーヒー淹れてくれてるなら、それでいいさぁ」
玲奈は何も言えなかった。
神戸では、過去と向き合った。
霧笛では、常連客の記憶、仲間たちの未練、自分自身の傷と向き合った。
だが石垣では、過去を無理に語らなくてもよかった。
聞かれないことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
干渉しすぎない。
けれど放っておくわけでもない。
困っていれば軽トラで助けに来る。売上が寂しければ友人を連れてきてくれる。
だが、心の奥の傷には、玲奈が自分で扉を開けるまで踏み込まない。
玲奈は、その島人気質を好きになっていた。
夕方、常連のおじいとおばあが帰ったあと、店には潮風だけが残った。
窓から入る光はやわらかく、カウンターの上で白いカップが静かに光っている。
玲奈は今日売れた黒糖プリンの数を帳簿に記した。
悪くない数字だった。
大儲けではない。
けれど、明日も看板を出せる数字だった。
玲奈はカウンターの端の席を拭く。
入口と窓の両方が見える席。
まだ誰も座らない席。
亮介のために、玲奈が勝手に空けている席。
「少しずつ、島に受け入れてもらえているみたい」
誰に向けた言葉かは分かっていた。
まだ帰らぬ男への、返事のない報告だった。
玲奈は少しだけ照れたように、続ける。
「あなたが帰ってきても、たぶん大丈夫。……たぶんね」
“たぶん”を付けるところが、今の玲奈らしかった。
不安が完全に消えたわけではない。
けれど、赤字の帳簿を見て一人で震えていた頃とは違う。
店は、島に根を張り始めていた。
玲奈は入口の木製看板を見る。
島カフェ しおかぜ
常連たちは、もう正式名では呼ばない。
ただ、こう呼ぶ。
「しおかぜ」
その響きが、玲奈は好きだった。
霧笛で学び、しおかぜで待つ。
神戸の苦いカラメルは、石垣の黒糖の甘さに変わり始めている。
元警察官でも、元戦隊ヒロインでも、騙された男を待つ女でもなく、
玲奈は少しずつ、島の人たちにこう呼ばれるようになっていた。
しおかぜの玲奈ちゃん。
その呼び名は、どんな肩書きよりも、今の玲奈には温かかった。




