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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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島のおじいとおばあは、女店主の過去を聞かない

島カフェ「しおかぜ」は、少しずつ島に馴染み始めていた。


最初の頃は、ほとんど客が来なかった。

平久保岬へ向かう幹線道路沿い。市街地から少し離れ、バスの本数も少ない。観光客が偶然見つけるには地味で、地元の人にとっても「あの新しい店、何の店かねえ」という程度の存在だった。


それでも玲奈は、毎朝きちんと看板を出した。


島カフェ しおかぜ


木製の小さな看板は、潮風に吹かれて少しずつ色を変えていった。

白い壁、アンティーク調の椅子、神戸港の写真、石垣の海を写した小さな額、レジ横に並ぶ玲奈手作りの貝殻チャーム。

派手な店ではない。けれど、玲奈が一つひとつ選び、磨き、整えた店だった。


地道な活動は、少しずつ実を結んだ。


公民館の清掃に参加し、手作り市に黒糖プリンを持って行き、祭りの準備では無言で机を運び、交通安全教室では子どもたちに妙な緊張感を与えた。

SNSの文章は相変わらず硬かったが、写真はよかった。観光情報誌の小さな広告も効き始めた。


やがて、地元のおじいとおばあが、気軽に立ち寄るようになった。


午前中には、畑帰りのおじいがブレンドを一杯。

昼過ぎには、おばあ二人が黒糖プリンを分け合いながら孫の話をする。

夕方には、軽トラで通りかかった農家の人がアイスコーヒーを頼む。

平久保岬へ向かうレンタカー客も、ぽつぽつ入るようになった。


大繁盛ではない。

けれど、開業当初のような危うい赤字続きではなくなっていた。


閉店後、玲奈は帳簿を見て、小さく息を吐く。


「……少しは、持ち直したわね」


利益はまだ薄い。

余裕などない。

それでも、明日も店を開けられる数字だった。


その事実が、玲奈には嬉しかった。


ただし、接客だけは相変わらずだった。


ある昼下がり、おばあがカウンター席に腰かけた。


「玲奈ちゃん、黒糖プリンと冷たいさんぴん茶ちょうだい」


玲奈は伝票を手に、まっすぐおばあを見る。


「ご注文を確認します。黒糖プリン一点、冷たいさんぴん茶一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」


おばあは一瞬きょとんとし、それから声を立てて笑った。


「玲奈ちゃん、また調書取ってるさぁ」


隣のおじいも新聞を畳んで笑う。


「この子の注文取り、警察みたいさぁ」


玲奈は真顔で答えた。


「確認は重要です」


「だから元警察官なんさぁ」


おばあは黒糖プリンを一口食べ、のんびり言った。


「でも、それもよいさぁ。玲奈ちゃんらしいさぁ」


玲奈は少しだけ目を伏せる。


神戸の純喫茶「霧笛」でも、同じことを言われた。

注文が調書みたい。

確認が取り調べみたい。

笑顔が事件性を帯びている。


自分なりに直そうとしたが、どうにもならなかった。

けれど石垣の常連たちは、それを欠点としてではなく、玲奈の味として受け入れてくれた。


「玲奈ちゃんは笑わんけど、水はすぐ注いでくれるさぁ」

「注文は怖いけど、プリンは優しいさぁ」

「元警察官なら仕方ないさぁ」


そんなふうに言いながら、誰も離れていかなかった。


彼らは、玲奈が元警察官であることは知っている。

けれど、それ以上のことは知らない。


玲奈がかつて戦隊ヒロインだったこと。

危険な裏任務の現場に立っていたこと。

巨額詐欺事件で被害者になったこと。

そして、その事件の男を本気で愛してしまったこと。


誰も知らない。

そして、誰も聞かない。


それが島の人たちの距離感だった。


ある午後、おばあが黒糖プリンを食べながら、ふと玲奈を見た。


「玲奈ちゃん、前はいろいろあったんやろうねえ」


玲奈の手が、ほんの少し止まった。


だが、おばあはそれ以上踏み込まなかった。

スプーンでプリンをすくいながら、穏やかに続ける。


「でも、聞かんさぁ。今ここでコーヒー淹れてくれてるなら、それでいいさぁ」


玲奈は何も言えなかった。


神戸では、過去と向き合った。

霧笛では、常連客の記憶、仲間たちの未練、自分自身の傷と向き合った。

だが石垣では、過去を無理に語らなくてもよかった。


聞かれないことが、こんなにも楽だとは思わなかった。


干渉しすぎない。

けれど放っておくわけでもない。

困っていれば軽トラで助けに来る。売上が寂しければ友人を連れてきてくれる。

だが、心の奥の傷には、玲奈が自分で扉を開けるまで踏み込まない。


玲奈は、その島人気質を好きになっていた。


夕方、常連のおじいとおばあが帰ったあと、店には潮風だけが残った。

窓から入る光はやわらかく、カウンターの上で白いカップが静かに光っている。


玲奈は今日売れた黒糖プリンの数を帳簿に記した。

悪くない数字だった。

大儲けではない。

けれど、明日も看板を出せる数字だった。


玲奈はカウンターの端の席を拭く。


入口と窓の両方が見える席。

まだ誰も座らない席。

亮介のために、玲奈が勝手に空けている席。


「少しずつ、島に受け入れてもらえているみたい」


誰に向けた言葉かは分かっていた。

まだ帰らぬ男への、返事のない報告だった。


玲奈は少しだけ照れたように、続ける。


「あなたが帰ってきても、たぶん大丈夫。……たぶんね」


“たぶん”を付けるところが、今の玲奈らしかった。

不安が完全に消えたわけではない。

けれど、赤字の帳簿を見て一人で震えていた頃とは違う。


店は、島に根を張り始めていた。


玲奈は入口の木製看板を見る。


島カフェ しおかぜ


常連たちは、もう正式名では呼ばない。

ただ、こう呼ぶ。


「しおかぜ」


その響きが、玲奈は好きだった。


霧笛で学び、しおかぜで待つ。

神戸の苦いカラメルは、石垣の黒糖の甘さに変わり始めている。


元警察官でも、元戦隊ヒロインでも、騙された男を待つ女でもなく、

玲奈は少しずつ、島の人たちにこう呼ばれるようになっていた。


しおかぜの玲奈ちゃん。


その呼び名は、どんな肩書きよりも、今の玲奈には温かかった。

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