赤字の潮風と、硬すぎる店主の宣伝戦
島カフェ「しおかぜ」は、今日も静かだった。
静かすぎるほど、静かだった。
平久保岬へ向かう幹線道路沿い。市街地から少し離れたその店には、朝から潮風が通る。白い壁、木製の小さな看板、玲奈が選んだアンティーク調の椅子とランプ。壁には神戸港の写真が一枚、その隣に石垣の青い海を写した小さな額。レジ横には、玲奈が夜な夜な作った貝殻のチャームや布コースターが控えめに並んでいる。
悪い店ではない。
むしろ、店としてはかなり整っていた。
コーヒーは丁寧に淹れている。
黒糖プリンは、神戸の純喫茶「霧笛」で覚えた味を石垣の黒糖で磨き直した自信作だった。
軽食も玲奈らしく几帳面で、トーストの焼き色も、サンドイッチの断面も、ナポリタンの盛りつけもきれいだった。
問題は、客が来ないことだった。
午前中は誰も来なかった。
昼前に近所のおじいが一人、ブレンドを飲んで帰った。
午後にレンタカーの観光客が一組、黒糖プリンを一つだけ分け合った。
夕方、地元のおばあが「玲奈ちゃん、ちゃんと食べてるね?」と様子を見に来た。
売上を帳簿に書くと、数字は驚くほど小さかった。
玲奈はカウンターの中で、静かに帳簿を見つめる。
「……最初はこんなものか」
そう言い聞かせていた時期もあった。
警察官時代も、戦隊ヒロイン時代も、玲奈の日々は常に張り詰めていた。任務、報告、指揮、追跡、判断。誰かを守るために、常に次の一手を考えていた。
その生活に比べれば、石垣の午後はあまりに穏やかだった。
客がいない時間に、玲奈は店先の草花に水をやった。
ハンドメイド雑貨を作った。
黒糖プリンの火加減を微調整した。
窓から入る潮風の中で、霧笛の女主人からもらった古いノートを読み返した。
スローライフ。
そう呼べば、少しおしゃれに聞こえた。
実際、玲奈はその静けさを少し気に入っていた。
けれど、帳簿だけはおしゃれではなかった。
家賃。
仕入れ。
光熱費。
改装費の返済。
備品代。
台風対策費。
赤字は、潮風よりも静かに、そして確実に店へ入り込んでくる。
閉店後、玲奈はカウンターの端の席を拭いた。入口と窓の両方が見える席。まだ誰も座らない席。
亮介の席だった。
「……あなたが帰ってくるまで、この店、続けられるのかしら」
声に出してから、玲奈は少しだけ頬を赤くした。
誰もいない店で、まだ帰らぬ男に話しかけている。冷徹なる美貌のボスと呼ばれた自分が、赤字の帳簿を前に、恋人でも夫でもない男のために不安になっている。
少し情けない。
少し可笑しい。
そして、どうしようもなく本気だった。
玲奈は翌日から、宣伝を始めることにした。
まずはSNSだった。
石垣の青い空。
店先の花。
黒糖プリンの艶。
アンティークなランプ。
コーヒーカップに落ちる午後の光。
写真のセンスは良かった。
元警察官らしい観察力があり、構図は正確で、光の扱いも悪くない。見る人が見れば、静かで品のある島カフェだと分かる写真だった。
問題は文章だった。
本日も通常営業です。
黒糖プリンの在庫は十分あります。
店内での動画配信はご遠慮ください。
駐車場は店舗前に三台分あります。
以上、よろしくお願いいたします。
投稿を見た地元のおばあは、スマートフォンを覗き込み、しばらく黙った。
「玲奈ちゃん、これは宣伝じゃなくて業務連絡さぁ」
玲奈は真面目に答える。
「必要情報は記載しています」
「必要情報だけじゃ、お客さん来ないさぁ。もっと、おいしいよ、来てね、って書くさぁ」
「感情表現を追加します」
翌日の投稿は、こうなった。
黒糖プリンは、おいしいです。
ご来店をお待ちしています。
おばあは頭を抱えた。
「硬いさぁ……」
「改善します」
「玲奈ちゃんの改善、役所の広報みたいになるさぁ」
それでも、写真はよかった。
黒糖プリンの深い色のカラメル、窓際に置かれた白い皿、石垣の光を受けた木のテーブル。
少しずつ、投稿には反応がつき始めた。
だが、それだけでは足りない。
おばあは、玲奈に次の助言をした。
「店は看板だけじゃなくて、人で覚えてもらうものさぁ。地域のイベントに出なさい」
玲奈は即座にメモを取った。
「地域イベント参加。優先度高」
「また任務みたいに書いてるさぁ」
こうして玲奈は、島の小さなイベントに出るようになった。
公民館の手作り市。
地域の清掃活動。
小さな物産マルシェ。
子ども向けの交通安全教室。
地元の祭りの出店手伝い。
最初の手作り市では、玲奈の説明が硬すぎた。
「本品は石垣産黒糖を使用し、カラメルはやや苦めに調整しています。冷蔵状態での保存を推奨します」
聞いていた地元の人が笑う。
「玲奈ちゃん、商品説明が検査報告書さぁ」
「不備がありますか」
「不備はないけど、かわいげが足りんさぁ」
清掃活動では、玲奈がゴミの分別を正確に仕切りすぎた。
「可燃、不燃、資源、危険物。こちらに分類してください」
地元のおじいが感心したように言った。
「この人、前は役所か警察の人だったさ?」
玲奈は淡々と答える。
「元警察官です」
おじいは大きく頷いた。
「やっぱりさぁ」
祭りの準備では、玲奈は黙々と机を運び、椅子を並べ、荷物を整理した。口数は少ない。笑顔もまだ硬い。だが、誰よりもよく働いた。
子ども向けの交通安全教室では、元警察官らしく妙に迫力があった。
「道路を渡る時は左右確認。運転手と目を合わせること。飛び出しは厳禁です」
子どもたちは妙に背筋を伸ばしたが、最後には玲奈の黒糖プリンを食べて笑った。
そうして少しずつ、島の人たちは玲奈を覚えていった。
「しおかぜの玲奈ちゃん」
「笑わんけど、悪い子じゃないさぁ」
「プリンがうまい店の人」
「元警察官のカフェの人」
「説明は硬いけど、仕事は丁寧さぁ」
玲奈は観光情報誌にも小さな広告を出した。
予算は限られている。大きな広告は無理だった。
だが、写真は玲奈自身が撮った黒糖プリンと店内の一枚を使った。文章は、高島里奈と地元のおばあが添削した。
最初に玲奈が書いた案は、こうだった。
平久保岬方面へ向かう幹線道路沿いに所在。
駐車場三台。
黒糖プリン、コーヒー、軽食を提供。
動画配信不可。
里奈は静かに言った。
「玲奈さん、これは不動産資料です」
おばあも続けた。
「観光客、来ないさぁ」
最終的な文面は、こうなった。
平久保岬へ向かう道の途中、小さな島カフェでひと休み。
石垣黒糖の黒糖プリンと、深煎りコーヒーをどうぞ。
玲奈は眉を寄せた。
「やや感情的ではありませんか」
おばあは笑った。
「これで普通さぁ」
努力は、少しずつ実を結んだ。
平久保岬へ向かうレンタカー客が立ち寄るようになった。
地元の農家の人が昼休みに来るようになった。
ツーリング客がアイスコーヒーを頼む。
移住者夫婦が黒糖プリンを気に入る。
公民館で知り合ったおばあが友人を連れてくる。
まだ繁盛店ではない。
行列ができるわけでもない。
けれど、昼過ぎに二つ三つ席が埋まる日が増えた。
黒糖プリンが売り切れる日も出てきた。
玲奈は閉店後、帳簿を見ながら小さく息を吐いた。
赤字は、まだ残っている。
余裕があるわけではない。
亮介が帰ってくるまで続けられるのかという不安も、完全には消えていない。
けれど、店は少しずつ島に根を下ろし始めていた。
カウンターの端の席を拭きながら、玲奈は小さく呟く。
「少しだけ、持ち直したわ」
誰に向けた言葉かは、分かっていた。
まだ帰らぬ男。
まだこの席に座らない男。
玲奈は少し間を置き、照れたように付け足した。
「だから……早く帰ってきなさい、とは言わないけど」
店内には誰もいない。
窓の外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。
玲奈は、亮介の席に置いた黒糖プリンの皿を見た。
「でも、あまり遅すぎると、私の宣伝文章が上達してしまうかもしれないわ」
そう言ってから、ほんの少し笑った。
島カフェ「しおかぜ」は、まだ小さな店だった。
まだ危うい店だった。
けれど、少しずつ人に知られ、少しずつ島に受け入れられ、少しずつ玲奈の待つ場所になっていく。
帰ってこない男を待つ女の店は、赤字の潮風の中で、ようやく最初の常連を迎え始めていた。




