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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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赤字の潮風と、硬すぎる店主の宣伝戦

島カフェ「しおかぜ」は、今日も静かだった。


静かすぎるほど、静かだった。


平久保岬へ向かう幹線道路沿い。市街地から少し離れたその店には、朝から潮風が通る。白い壁、木製の小さな看板、玲奈が選んだアンティーク調の椅子とランプ。壁には神戸港の写真が一枚、その隣に石垣の青い海を写した小さな額。レジ横には、玲奈が夜な夜な作った貝殻のチャームや布コースターが控えめに並んでいる。


悪い店ではない。


むしろ、店としてはかなり整っていた。

コーヒーは丁寧に淹れている。

黒糖プリンは、神戸の純喫茶「霧笛」で覚えた味を石垣の黒糖で磨き直した自信作だった。

軽食も玲奈らしく几帳面で、トーストの焼き色も、サンドイッチの断面も、ナポリタンの盛りつけもきれいだった。


問題は、客が来ないことだった。


午前中は誰も来なかった。

昼前に近所のおじいが一人、ブレンドを飲んで帰った。

午後にレンタカーの観光客が一組、黒糖プリンを一つだけ分け合った。

夕方、地元のおばあが「玲奈ちゃん、ちゃんと食べてるね?」と様子を見に来た。


売上を帳簿に書くと、数字は驚くほど小さかった。


玲奈はカウンターの中で、静かに帳簿を見つめる。


「……最初はこんなものか」


そう言い聞かせていた時期もあった。


警察官時代も、戦隊ヒロイン時代も、玲奈の日々は常に張り詰めていた。任務、報告、指揮、追跡、判断。誰かを守るために、常に次の一手を考えていた。


その生活に比べれば、石垣の午後はあまりに穏やかだった。


客がいない時間に、玲奈は店先の草花に水をやった。

ハンドメイド雑貨を作った。

黒糖プリンの火加減を微調整した。

窓から入る潮風の中で、霧笛の女主人からもらった古いノートを読み返した。


スローライフ。


そう呼べば、少しおしゃれに聞こえた。

実際、玲奈はその静けさを少し気に入っていた。


けれど、帳簿だけはおしゃれではなかった。


家賃。

仕入れ。

光熱費。

改装費の返済。

備品代。

台風対策費。


赤字は、潮風よりも静かに、そして確実に店へ入り込んでくる。


閉店後、玲奈はカウンターの端の席を拭いた。入口と窓の両方が見える席。まだ誰も座らない席。


亮介の席だった。


「……あなたが帰ってくるまで、この店、続けられるのかしら」


声に出してから、玲奈は少しだけ頬を赤くした。


誰もいない店で、まだ帰らぬ男に話しかけている。冷徹なる美貌のボスと呼ばれた自分が、赤字の帳簿を前に、恋人でも夫でもない男のために不安になっている。


少し情けない。

少し可笑しい。

そして、どうしようもなく本気だった。


玲奈は翌日から、宣伝を始めることにした。


まずはSNSだった。


石垣の青い空。

店先の花。

黒糖プリンの艶。

アンティークなランプ。

コーヒーカップに落ちる午後の光。


写真のセンスは良かった。

元警察官らしい観察力があり、構図は正確で、光の扱いも悪くない。見る人が見れば、静かで品のある島カフェだと分かる写真だった。


問題は文章だった。


本日も通常営業です。

黒糖プリンの在庫は十分あります。

店内での動画配信はご遠慮ください。

駐車場は店舗前に三台分あります。

以上、よろしくお願いいたします。


投稿を見た地元のおばあは、スマートフォンを覗き込み、しばらく黙った。


「玲奈ちゃん、これは宣伝じゃなくて業務連絡さぁ」


玲奈は真面目に答える。


「必要情報は記載しています」


「必要情報だけじゃ、お客さん来ないさぁ。もっと、おいしいよ、来てね、って書くさぁ」


「感情表現を追加します」


翌日の投稿は、こうなった。


黒糖プリンは、おいしいです。

ご来店をお待ちしています。


おばあは頭を抱えた。


「硬いさぁ……」


「改善します」


「玲奈ちゃんの改善、役所の広報みたいになるさぁ」


それでも、写真はよかった。

黒糖プリンの深い色のカラメル、窓際に置かれた白い皿、石垣の光を受けた木のテーブル。

少しずつ、投稿には反応がつき始めた。


だが、それだけでは足りない。


おばあは、玲奈に次の助言をした。


「店は看板だけじゃなくて、人で覚えてもらうものさぁ。地域のイベントに出なさい」


玲奈は即座にメモを取った。


「地域イベント参加。優先度高」


「また任務みたいに書いてるさぁ」


こうして玲奈は、島の小さなイベントに出るようになった。


公民館の手作り市。

地域の清掃活動。

小さな物産マルシェ。

子ども向けの交通安全教室。

地元の祭りの出店手伝い。


最初の手作り市では、玲奈の説明が硬すぎた。


「本品は石垣産黒糖を使用し、カラメルはやや苦めに調整しています。冷蔵状態での保存を推奨します」


聞いていた地元の人が笑う。


「玲奈ちゃん、商品説明が検査報告書さぁ」


「不備がありますか」


「不備はないけど、かわいげが足りんさぁ」


清掃活動では、玲奈がゴミの分別を正確に仕切りすぎた。


「可燃、不燃、資源、危険物。こちらに分類してください」


地元のおじいが感心したように言った。


「この人、前は役所か警察の人だったさ?」


玲奈は淡々と答える。


「元警察官です」


おじいは大きく頷いた。


「やっぱりさぁ」


祭りの準備では、玲奈は黙々と机を運び、椅子を並べ、荷物を整理した。口数は少ない。笑顔もまだ硬い。だが、誰よりもよく働いた。


子ども向けの交通安全教室では、元警察官らしく妙に迫力があった。


「道路を渡る時は左右確認。運転手と目を合わせること。飛び出しは厳禁です」


子どもたちは妙に背筋を伸ばしたが、最後には玲奈の黒糖プリンを食べて笑った。


そうして少しずつ、島の人たちは玲奈を覚えていった。


「しおかぜの玲奈ちゃん」

「笑わんけど、悪い子じゃないさぁ」

「プリンがうまい店の人」

「元警察官のカフェの人」

「説明は硬いけど、仕事は丁寧さぁ」


玲奈は観光情報誌にも小さな広告を出した。


予算は限られている。大きな広告は無理だった。

だが、写真は玲奈自身が撮った黒糖プリンと店内の一枚を使った。文章は、高島里奈と地元のおばあが添削した。


最初に玲奈が書いた案は、こうだった。


平久保岬方面へ向かう幹線道路沿いに所在。

駐車場三台。

黒糖プリン、コーヒー、軽食を提供。

動画配信不可。


里奈は静かに言った。


「玲奈さん、これは不動産資料です」


おばあも続けた。


「観光客、来ないさぁ」


最終的な文面は、こうなった。


平久保岬へ向かう道の途中、小さな島カフェでひと休み。

石垣黒糖の黒糖プリンと、深煎りコーヒーをどうぞ。


玲奈は眉を寄せた。


「やや感情的ではありませんか」


おばあは笑った。


「これで普通さぁ」


努力は、少しずつ実を結んだ。


平久保岬へ向かうレンタカー客が立ち寄るようになった。

地元の農家の人が昼休みに来るようになった。

ツーリング客がアイスコーヒーを頼む。

移住者夫婦が黒糖プリンを気に入る。

公民館で知り合ったおばあが友人を連れてくる。


まだ繁盛店ではない。

行列ができるわけでもない。

けれど、昼過ぎに二つ三つ席が埋まる日が増えた。

黒糖プリンが売り切れる日も出てきた。


玲奈は閉店後、帳簿を見ながら小さく息を吐いた。


赤字は、まだ残っている。

余裕があるわけではない。

亮介が帰ってくるまで続けられるのかという不安も、完全には消えていない。


けれど、店は少しずつ島に根を下ろし始めていた。


カウンターの端の席を拭きながら、玲奈は小さく呟く。


「少しだけ、持ち直したわ」


誰に向けた言葉かは、分かっていた。

まだ帰らぬ男。

まだこの席に座らない男。


玲奈は少し間を置き、照れたように付け足した。


「だから……早く帰ってきなさい、とは言わないけど」


店内には誰もいない。

窓の外では、石垣の夜風が木製看板を揺らしている。


玲奈は、亮介の席に置いた黒糖プリンの皿を見た。


「でも、あまり遅すぎると、私の宣伝文章が上達してしまうかもしれないわ」


そう言ってから、ほんの少し笑った。


島カフェ「しおかぜ」は、まだ小さな店だった。

まだ危うい店だった。

けれど、少しずつ人に知られ、少しずつ島に受け入れられ、少しずつ玲奈の待つ場所になっていく。


帰ってこない男を待つ女の店は、赤字の潮風の中で、ようやく最初の常連を迎え始めていた。

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