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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

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18/42

紀州の舞姫は、苦いカラメルの前で少し大人になる

神戸港近くの純喫茶「霧笛」には、いろいろな人がやってくる。


昔を置きに来る老人。

港の仕事帰りに黙ってコーヒーを飲む男。

北野帰りの観光客。

そして時折、かつて玲奈の部下だった戦隊ヒロインたちが、お忍びで扉を開ける。


そこでは任務の話はしない。

肩書きも、コード名も、表の顔も、少しだけ脱いでいい。

深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルの霧笛プリン。

アンティークのランプが灯る小さな店は、戦場から戻った者たちが呼吸を整える場所になりつつあった。


その日の午後、扉のベルを鳴らして入ってきたのは、白浜麻衣だった。


紀州の舞姫。

和歌山出身の戦隊ヒロイン。

小柄で童顔、今でも制服を着れば中学生に間違えられそうなほど、あどけない顔立ちをしている。


けれど玲奈は知っている。

この小さな体の中に、どれほど大きな勇気が育ってきたかを。


戦隊ヒロインプロジェクトに加入して、最も成長したのは誰か。

そう聞けば、多くの者が麻衣の名を挙げる。


加入当初の麻衣は、優しかった。

誰かを傷つけることを嫌い、困っている人にはすぐ寄り添う。

だが、その優しさはまだ弱さと紙一重だった。

戦闘任務では一歩が踏み出せない。

危険な相手を前にすると、足が止まる。

仲間を思う気持ちは本物なのに、その気持ちを行動に変える勇気が追いつかなかった。


玲奈は、そんな麻衣を何度も見てきた。


叱るべき時は叱った。

待つべき時は待った。

麻衣が自分の中の弱さと向き合う時間を、現場の厳しさの中で何度も見守ってきた。


そして、ある日を境に麻衣は変わり始めた。


子どもたちが巻き込まれそうになった現場で、麻衣は逃げなかった。

小さな体を大きく見せ、震える声で避難を促し、自分より大きな相手の前に立った。


強かったからではない。

怖くなかったからでもない。

怖くても、守りたいものがあったから前に出た。


それからの麻衣は、ぐんぐん伸びた。

同僚ヒロインからの信頼も厚くなり、フロント陣からの評価も高まった。

穏やかで、丁寧で、子どもや高齢者への対応が抜群にうまい。

それでいて、いざという時には逃げない。


白浜麻衣は、もう頼りない少女ではなかった。


「いらっしゃいませ」


玲奈が水を置くと、麻衣は少し照れたように笑った。


「玲奈さん、ブレンドと……霧笛プリン、お願いします」


「承知しました」


玲奈はいつものように伝票へ書き込んだ。

だが、麻衣の表情がいつもより少し硬いことには、すぐ気づいていた。


麻衣はアンティーク調のランプを見上げ、壁の古い港の写真を眺め、両手を膝に置いて静かに座っている。

普段ならもう少し柔らかく笑う。

少し恥ずかしそうに近況を話す。

だが今日は、何かを胸に抱え込んでいる顔だった。


玲奈はブレンドを淹れた。

湯が豆の上をゆっくり通り、深い香りが立ち上る。

白いカップを麻衣の前に置き、少し間を空けてから声をかけた。


「何か考え事?」


麻衣はカップを両手で包んだ。

しばらく、湯気を見つめていた。


「私、最近よく分からなくなってきたんです」


玲奈は急かさなかった。

霧笛で学んだことの一つは、悩んでいる人間には、すぐに答えを迫らないことだった。


麻衣は少しずつ話し始めた。


「私、幼稚園の先生になりたいんです。子どもが好きで、子どもたちのそばで働きたくて。だから戦隊ヒロインは大学までって、最初から決めてました」


「ええ」


「でも、最近……このまま続けてもいいのかなって、思うことがあるんです」


玲奈は黙って聞く。


「現場で、子どもたちを守ることがあります。怖い目に遭った子が泣いていて、私がその前に立つと、少し安心してくれることがあるんです。そういう時、もっと強くなりたいって思うんです」


麻衣の声は小さい。

けれど、そこには確かな熱があった。


「昔の私なら、たぶん足が止まっていました。でも今は、怖くても前に出たいんです。もっと強くなって、もっとちゃんと守れる人になりたいんです」


麻衣は少し恥ずかしそうに笑った。


「幼稚園の先生になる夢は本物です。でも、戦隊ヒロインを続けたら、もっとたくさんの子どもたちを守れるのかなって。最近、そう考えてしまって」


玲奈は、麻衣の顔を見た。


順風満帆に見える者にも、悩みはある。

成長した者ほど、自分の道が一本ではないことに気づいてしまう。

麻衣の迷いは、弱さではなかった。

大切にしたいものが増えた証だった。


「贅沢な悩みですよね」


麻衣はそう言った。


「みんなによくしてもらって、評価してもらって、それなのに迷ってるなんて」


玲奈は静かに首を振った。


「贅沢ではないわ」


麻衣が顔を上げる。


「道が二つとも大切だから迷う。どちらかがどうでもよければ、悩まない」


その言葉に、麻衣の目が少し潤んだ。


玲奈は続けた。


「あなたが幼稚園教諭になりたいと思うのは、子どもを守りたいから。戦隊ヒロインを続けたいと思うのも、子どもを守りたいから。根は同じよ」


「根は、同じ……」


「だから、今すぐ答えを出さなくてもいい。自分が何を守りたいのか、もう少し見てから決めればいい」


麻衣はブレンドを一口飲んだ。

少しだけ眉を寄せる。


「玲奈さんのコーヒー、苦いですね」


「霧笛の味です」


「でも、落ち着きます」


玲奈は霧笛プリンを出した。

固めのプリン。

深い色のカラメル。

白い皿の上で、控えめに光っている。


麻衣はスプーンを入れ、カラメルを絡めて一口食べた。


「……おいしい」


声が少しだけほどけた。


「甘いだけじゃないんですね」


「ええ」


「このお店、すごいです。静かなのに、いろいろ考えたくなります」


玲奈は店内を見渡した。


アンティークのランプ。

古い港の写真。

磨き込まれた木のカウンター。

時計の針が静かに時を刻む音。

ここには、誰かの心を急がせない時間があった。


「女主人の店づくりが良いから」


奥で女主人が笑う。


「玲奈ちゃんも、だいぶこの店の人らしくなってきたけどね」


麻衣は少しだけ背筋を伸ばした。


「こういう場所で真剣に考えるのって、いいですね。なんだか、ちょっと大人になった気がします」


玲奈は小さく頷く。


「それは良いことね」


麻衣はプリンをもう一口食べ、少し照れたように笑った。


「でも、まだプリンで元気になるくらいには子どもです」


「それも悪くないわ」


その笑顔は、加入当初の頼りなさとは違っていた。

柔らかくて、でも芯がある。

子どもを守りたいと本気で願う者の顔だった。


帰り際、麻衣は玲奈に言った。


「私、もう少し悩んでみます。逃げるためじゃなくて、ちゃんと選ぶために」


「それでいい」


「また相談に来てもいいですか?」


玲奈は伝票を整えながら言う。


「コーヒー代を払うなら」


麻衣はくすっと笑った。


「払います。プリン代も」


「なら、いらっしゃいませ」


扉のベルが鳴り、麻衣は神戸港の夕暮れへ出ていった。


玲奈はカップを片づけながら、麻衣の小さな背中を思い出していた。

頼りなかった少女が、今は誰かを守るために悩んでいる。

それは立派な成長だった。


女主人がカウンターの奥から言う。


「あの子、ええ子やね」


玲奈は短く答えた。


「ええ。強くなりました」


「玲奈ちゃんが言うなら、ほんまに強いんやね」


玲奈は何も言わず、磨き終えたカップを棚へ戻した。


霧笛の灯りは、神戸港近くの路地に静かにともっている。

そこには今日も、誰かが迷いを持ってやってくる。

そして、苦いコーヒーと少し甘いプリンの前で、自分の答えを探して帰っていく。


紀州の舞姫は、アンティークな時間の中で少しだけ大人になった。

そして玲奈もまた、誰かの夢と迷いを受け止める店主になるための、大切な一歩を学んでいた。

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