表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/43

遠州の勇者は、黙って深煎りを飲む

神戸港近くの純喫茶「霧笛」は、夕方になると静けさが深くなる。


古い木の扉、磨き込まれたカウンター、壁に飾られた港の写真。真鍮のランプが琥珀色の光を落とし、店内には深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルの香りが漂っている。


岡本玲奈は、その静かな空間でカップを磨いていた。


白いブラウスに黒いエプロン。

かつて西日本特別諜報班のボスとして、冷徹なる美貌の指揮官と呼ばれた女は、今では純喫茶「霧笛」の修行中のウェイトレスである。


扉のベルが、控えめに鳴った。


入ってきた女を見て、玲奈は一瞬だけ目を細めた。


河合美音。

浜松市在住。

バイオレットのショートカットが印象的な、静かなクールビューティー。

大型自動二輪免許を持ち、船舶免許まで保有する、戦隊ヒロイン側でも稀有な機動型サポートメンバーだった。


美音は任務のたびに、浜松から大型二輪で現場へやってくる。


夜明け前の東名を走り、雨の名神を抜け、神戸、大阪、但馬、淡路、時には港湾地区まで、当たり前のようにバイクで現れる。

それが美音だった。


誰かが驚いても、美音はいつも淡々としていた。


「浜松からなら、走れば着きます」


そう言うだけだった。


だが、玲奈は知っている。

その一言で片づけられるほど、彼女の働きは軽くない。


海上ルートの封鎖。

港湾地区での追跡。

敵の逃走車両を大型二輪で追い込む任務。

船舶を使った移送支援。

音響や楽器の知識を活かした特殊任務。

誰にもできない仕事を、美音は涼しい顔でこなしてきた。


勇猛果敢。

だが、荒っぽくない。

判断は冷静で、手際は正確。

困難な任務ほど、彼女は無駄なことを言わずに動く。


だから、仲間たちは美音をこう呼んだ。


遠州の勇者。


玲奈にとっても、美音は特別な存在だった。

部下ではない。

主力メンバーでもない。

だが、必要な時に最も難しい場所へ現れ、最も難しい役割を果たして帰っていく。

玲奈は、そんな美音に何度救われたか分からない。


霧笛の店内で、美音は窓際の席に静かに座った。


玲奈が水を置く。


「いらっしゃいませ」


美音は短く頷いた。


「ブレンドを」


「濃いめで?」


「ええ」


会話は、それだけだった。


女主人はカウンターの奥から、少し面白そうに二人を見る。

昔の仲間が来れば、普通は近況を話し、思い出を語り、笑い声が起きる。

だが玲奈と美音の間には、そういう賑やかさがない。


それでも、気まずくはない。


むしろ、静かな信頼がそこにあった。


玲奈は深煎りの豆を少し濃いめに挽き、ゆっくり湯を落とした。

カップを温め、余分な香りを逃がさないように置く。

美音の前へ運ぶ。


美音は一口飲んだ。


「いい味です」


玲奈は短く答えた。


「ありがとう」


また沈黙。


美音は窓の外を見る。

港へ続く路地、夕方の薄い光、遠くで聞こえる車の音。

その横顔には疲れが見えた。

けれど、美音は疲れたとは言わない。


玲奈は、それも分かっていた。


美音のような人間は、助けを求めるのが下手だ。

任務の後でも、平然としている。

大きな成果を上げても、淡々と報告する。


「必要だったので」


それだけで済ませてしまう。


かつて玲奈が、美音に礼を言った時もそうだった。


「助かったわ」


「間に合っただけです」


「あなたでなければ無理だった」


「道が空いていました」


あまりにも淡々としていて、褒めた側が拍子抜けするほどだった。

だが玲奈は、その平然とした言葉の奥にある強さを高く評価していた。


どんな任務でも、騒がない。

焦らない。

必要な場所に、必要な速度で到着する。

それは簡単なことではない。


女主人が小声で言った。


「玲奈ちゃん、あの子とはあんまり話さんのやね」


玲奈はカップを磨きながら答える。


「話さなくても分かります」


「へえ。玲奈ちゃんがそう言うなら、ほんまなんやろね」


美音はしばらくして、静かに言った。


「この店、落ち着きますね」


玲奈は頷く。


「私もそう思う」


「仕事のあとに来るには、ちょうどいいです」


「ここでは、仕事の話はしないで」


美音は淡く笑った。


「失礼。では、走ったあとに来るには、ちょうどいいです」


「それなら問題ない」


その短いやり取りだけで、二人には十分だった。


やがて美音は霧笛プリンを注文した。

玲奈が皿を置くと、美音はカラメルの色をしばらく眺めた。


「苦いですね」


「霧笛の名物です」


「でも、最後は甘い」


「ええ」


美音は静かにプリンを食べた。

その姿は、夜の高速を大型二輪で走る遠州の勇者とは違っていた。

力が抜けている。

何かを戦うためではなく、ただ自分の時間を取り戻すために、ここへ来ている。


玲奈は、それを邪魔しなかった。


あかりには言葉が必要だった。

彩香には厳しいやり取りが必要だった。

迫田ツインズには軽い会話が必要だった。

けれど美音には、静けさが必要だった。


水が減れば注ぐ。

カップが空けば、少しだけ間を置いて声をかける。

それ以上は踏み込まない。


霧笛の時計が、ゆっくり時を刻む。


美音は会計の時、玲奈を見た。


「また来ます」


玲奈は短く答える。


「お待ちしています」


それは接客用の言葉ではなかった。

玲奈なりの本心だった。


美音は店を出ていく。

扉のベルが鳴り、夕方の港町の空気が一瞬だけ店内へ流れ込む。

おそらく彼女はまた、浜松まで大型二輪で帰るのだろう。

あるいは次の任務があれば、またどこかの現場へ、何事もない顔で走っていくのだろう。


女主人が言った。


「不思議な子やねえ」


玲奈は窓の外を見た。


「頼れる子です」


「玲奈ちゃんがそこまで言うなら、相当やね」


玲奈は何も言わなかった。

だが、美音への評価は、言葉にする必要もないほど明確だった。


遠州の勇者。

海を知り、道を知り、音を知り、必要な場所へ必ず辿り着く女。


霧笛には、いろいろな客が来る。

泣きに来る者。

昔を置きに来る者。

賑やかに喋りに来る者。

そして美音のように、黙って深煎りを飲み、自分の時間を取り戻しに来る者。


カフェとは、そういう場所でもあるのだと玲奈は思う。


言葉をかけるだけが接客ではない。

何も話さずにいられる時間を守ることも、店の役目だ。


南の島で開く店にも、きっと美音のような客が来るだろう。

何も言わず、海を見て、コーヒーを飲み、少しだけ心を整えて帰っていく客が。


そのために必要なのは、派手な言葉ではない。

静けさを壊さない気配りと、ちょうどいい苦さのコーヒー。


玲奈はカウンターを拭いた。

霧笛の灯りは、港町の路地に小さく残っている。


遠州の勇者は、黙って深煎りを飲んだ。

そして玲奈は、その沈黙を、かつてのどんな任務よりも丁寧に扱った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ