表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/38

四日市の突貫娘、苦いコーヒーで少し泣く

神戸港近くの純喫茶「霧笛」は、夕方になると、少しだけ人を黙らせる。


窓の外では、港町の光がゆっくり沈んでいく。古い路地に潮風が流れ、扉のガラスには、通りを歩く人影が淡く映る。店内には深煎りのコーヒーの香りと、やや苦いカラメルの匂い。磨き込まれた木のカウンター、真鍮のランプ、壁に飾られた昔の神戸港の写真。


その静けさの中に、岡本玲奈はいた。


白いブラウスに黒いエプロン。

背筋は相変わらずまっすぐで、立ち姿には警察官時代の名残がある。だが、いま彼女の手にあるのは捜査資料ではなく、白いコーヒーカップだった。


戦隊ヒロインを辞め、警察官も辞めた玲奈は、この店でカフェ開業の修行をしている。

それでも霧笛には、かつての仲間たちが時々やってきた。任務の話はしない。肩書きも出さない。ただコーヒーを飲み、プリンを食べ、少しだけ息を抜いて帰っていく。


その日、扉のベルが弱く鳴った。


入ってきたのは、山本あかりだった。


四日市の突貫娘。

いつもなら、入店しただけで店の空気が明るくなる。声は大きく、表情は豊かで、椅子に座る前から何か喋り出す。落ち着きはないが、その元気さが現場を動かすこともある。


だが、その日のあかりは違った。


「……玲奈さん、ブレンドください」


声が小さかった。

目線も落ちていた。

椅子に座る動きにも、いつもの勢いがない。


玲奈はカウンターの奥から、すぐに異変を察した。

元警察官としてではない。元ボスとしてでもない。

ただ、あかりという子を知っている者として。


「ブレンドね」


玲奈は余計なことを言わず、湯を落とした。

豆の香りが静かに立つ。あかりは両手を膝の上に置き、いつになく行儀よく座っている。それがかえって痛々しかった。


玲奈はカップを温め、少し苦めにブレンドを淹れた。

白いカップをあかりの前に置く。


「なんや、あかり。元気ないな」


その声は短い。

だが、冷たくはなかった。


あかりはカップを両手で包み、しばらく湯気を見つめていた。

やがて、ぽつりと言う。


「今日、彩香さんにめっちゃ怒られました」


玲奈は黙って聞く。


「いや、怒られるのはいつものことなんですけど。今回は、ちょっと堪えました」


あかりは、いつも前へ出る。

考えるより先に身体が動く。現場が停滞すれば、誰より早く飛び込む。そういう突破力は、彼女にしかない武器だった。


だが同時に、指示の受け取り方が独特だった。

要点を取り違える。優先順位を間違える。危険を危険だと理解する前に、もう一歩踏み込んでしまう。


そのたびに、現場キャップとなった西川彩香は厳しく叱った。


彩香は悪意で怒る女ではない。

むしろ、見捨てられない相手ほど厳しくなる。守りたいから怒る。伸びると思うから怒る。玲奈は、それをよく知っている。


あかりはカップを見つめたまま、彩香の言葉を口にした。


「“あんたは根性ある。でも、根性だけで現場に立つな”って言われました」


その声は、いつものあかりらしくなかった。

明るさの奥にある、細い傷が見えた。


「私、また指示を勘違いして。危ない方向に突っ込みかけて。大事にはならなかったんですけど……彩香さん、本気で怒ってました」


あかりは無理に笑おうとした。


「私、やっぱり向いてへんのかなって。元気だけで突っ込んで、みんなに迷惑かけてるんかなって」


玲奈はすぐに答えなかった。


昔の玲奈なら、問題点を整理しただろう。

指示理解の不足、状況確認の甘さ、突入判断の早すぎる傾向。そういう項目を並べ、改善策を提示しただろう。


けれど霧笛での修行は、玲奈に別のことを教え始めていた。


落ち込んだ人間に、最初から正解を突きつけても届かない。

まず座らせること。温かいものを出すこと。言葉がこぼれるまで待つこと。


玲奈は静かに言った。


「彩香は、あなたを見捨てていない」


あかりが顔を上げる。


「見捨ててたら、怒らない。厳しく言うのは、あなたがまだ伸びると思っているから」


「でも、彩香さんの言い方きついんです」


「それは事実ね」


あまりにも即答だったので、あかりは少しだけ笑った。


「玲奈さん、そこは否定してくれへんのですね」


「事実を曲げる必要はない」


「ひどいようで優しいですね」


玲奈はカウンターに手を置き、あかりをまっすぐ見た。


「彩香は不器用や。あの子は、守りたい相手ほどきつく言う。特にあなたのように前へ出る子には、余計に厳しくなる」


「私、ほんまに役に立ってますか?」


その問いは、思ったより弱かった。


玲奈は迷わなかった。


「役に立っている」


あかりの目が揺れる。


「あなたには、他の人にない突破力がある。場が止まった時、誰かが最初に動かなければならない時、あなたの勢いは武器になる。あなたが動くことで、現場の空気が変わることがある」


玲奈は少し間を置いた。


「ただし、勢いだけでは仲間を危険に巻き込む。だから彩香は怒る」


あかりはブレンドを一口飲んだ。

少し顔をしかめる。


「苦いですね」


「霧笛のブレンドは少し苦めです」


「でも、美味しいです」


「なら大丈夫」


「何がですか?」


「苦いものを飲み込めるなら、まだ立ち直れる」


あかりはカップを見つめ、それから小さく笑った。


「玲奈さん、カフェの人になっても、言うことボスですね」


「現在は修行中のウェイトレスです」


「いや、絶対まだボスです」


カウンターの奥で、女主人がくすりと笑った。


「玲奈ちゃん、辞めても部下の面倒見てるんやねえ」


玲奈は無表情で返す。


「元部下です」


「そういうところやで」


女主人はそう言って、奥へ引っ込んだ。

だが、その横顔はどこか嬉しそうだった。


玲奈は冷蔵ケースから霧笛プリンを一つ出した。

固めのプリン。深い色のカラメル。白い皿。

それをあかりの前に置く。


「食べなさい。今日は私から」


あかりは目を丸くした。


「いいんですか?」


「元気を戻す必要があります」


「それ、任務ですか?」


「いいえ。店の判断です」


あかりは少し笑って、スプーンを手に取った。

霧笛プリンを一口食べる。

やや苦いカラメルのあとに、卵の甘さがゆっくり広がる。


「……美味しい」


「そう」


「なんか、怒られた後に食べるプリンって、めっちゃ沁みますね」


「それは初めて聞いた感想ね」


あかりは、ようやく少しいつもの顔に戻っていた。


「私、明日ちゃんと彩香さんに謝ります。それで、どこを直せばいいか聞きます」


「それでいい」


「でも、また怒られたら、ここ来ていいですか?」


玲奈は少しだけ口元を緩めた。


「コーヒー代を払うなら」


「払います。プリン代も払います」


「なら、いらっしゃいませ」


あかりは笑った。

完全な元気ではない。けれど、落ち込んだままでは帰らない顔だった。


しばらくして、あかりは店を出た。

扉のベルが鳴り、神戸港近くの夕暮れが一瞬だけ店内に差し込む。


玲奈はカップを洗いながら、少しだけ考えていた。


自分はもう、戦隊ヒロインではない。

正式なボスでもない。

指令を出す立場にもいない。


それでも、かつての仲間たちは霧笛へ来る。

悩みを抱え、苦いコーヒーを飲み、プリンを食べて、また現場へ戻っていく。


玲奈の影響力は、まだ消えていなかった。


それは命令の力ではない。

役職の力でもない。

かつて同じ危険をくぐり、背中を預け合った者たちが、今も彼女の言葉を信じているということだった。


女主人が戻ってきて、玲奈の横に立つ。


「ええ店になってきたねえ」


玲奈は少し首を傾げた。


「霧笛は、もともと良い店です」


「違うよ。あんたが立つことで、また別の帰る場所になってきたんよ」


玲奈は何も言わなかった。

ただ、磨き終えたカップを棚へ戻す。


外はもう夜だった。

霧笛の灯りは、港町の路地に小さく残っている。


四日市の突貫娘は、苦いコーヒーで少し泣き、霧笛プリンで少し笑った。

そして明日、また前へ出る。


玲奈はもう命令しない。

けれど、カウンター越しの一杯で、誰かの背中を押すことはできる。


それもまた、彼女がこれから開くカフェに必要な力なのだと、霧笛の夜は静かに教えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ