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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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ただいま、神戸。 ――「おかえり」を南ぬ島に置いてきた日

「島カフェ しおかぜ」が、開業して初めて長い休みに入った。


ほんの数日。


長い人生から見れば、瞬きほどの時間でしかない。


けれど、これまで定休日以外はほとんど休まず店を開けてきた玲奈にとって、それは十分すぎるほどの「長期休業」だった。


店の扉には、玲奈自身が書いた臨時休業の案内が貼られている。


戦隊ヒロインOGイベント出演および店主帰省のため、しばらくお休みいたします。


再開予定日。


常連客への簡単な挨拶。


最後には、


ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。


いかにも玲奈らしい、端正で無駄のない文章だった。


朝。


亮介は、その貼り紙を腕組みして眺めていた。


「何だか大げさですね」


「何がですか?」


「しばらくお休みします、って」


「開業以来初めてですから」


「でも数日でしょう?」


玲奈が振り向いた。


「何日休むか、覚えていますか?」


「もちろん」


「では?」


亮介は一拍置いた。


「……数日」


玲奈が目を細める。


「かなり曖昧ですね」


「俺、日付じゃなくて感覚で生きる男なんですよ」


「だから心配なのです」


「留守番を任される男への評価とは思えない!」


営業しない「しおかぜ」は、不思議なほど静かだった。


メニューも出ていない。


黒糖プリンの仕込みもない。


客席の椅子は几帳面に揃えられ、窓際の小さな二人掛けソファ――亮介が「ロマンスシート」と呼び、玲奈が頑として「窓際二名席」と呼ぶ場所にも、人の気配はない。


そしてカウンターの端。


玲奈の旅行鞄の横に、一冊のクリアファイルが置かれていた。


亮介はそれを見るなり、嫌な予感がした。


「玲奈さん」


「はい」


「そのファイル、何です?」


「亮介さんへ」


「餞別?」


「留守中にお願いすることです」


玲奈から渡されたファイルを開く。


一枚目。


大きく、


留守期間中の確認事項


と書かれている。


字がきれいだった。


恐ろしくきれいだった。


まっすぐ。


読みやすい。


項目ごとの間隔まで揃っている。


元警部補の几帳面さが、紙一枚から圧を放っていた。


「これ、業務命令書じゃないですよね?」


「お願いです」


「お願いの書式じゃないですよ」


内容を見る。


家庭菜園の水やりは原則早朝。


ただし前日の雨量を考慮。


土の表面だけで判断せず、指を入れて湿り気を確認。


トマトへの過剰な水やりは禁止。


ゴーヤの蔓が隣の支柱へ絡んだ場合の戻し方。


強風が予想される場合の鉢植えの移動場所。


次の紙。


店内換気。


床掃除。


窓拭き。


厨房。


コーヒーミル。


排水口。


冷蔵庫。


防犯確認。


戸締まり。


ロマンスシートについては、


窓際二名席のクッションは、強い日差しへ長時間さらさない。


亮介が顔を上げる。


「玲奈さん」


「はい」


「ロマンスシートじゃない」


「正式名称ではありません」


「留守の時くらいいいでしょう」


「私がいない間に既成事実化されると困ります」


「元警部補、先読みが怖い!」


そして最後。


赤字であった。


黒糖プリンの試作は禁止。


さらに、


冷蔵庫内の黒糖プリンを勝手に食べない。


そして念を押すように、


『一個くらいなら』は禁止。


亮介はしばらく紙を見つめた。


「玲奈さん」


「何でしょう」


「俺が言う前から俺の言い訳が書いてあります」


「日頃の行動から容易に予測できます」


「元警部補のプロファイリングを黒糖プリンに使わないでください!」


玲奈は平然としている。


「分からない場合は自己判断せず、連絡してください」


「俺、四十近い大人なんですよ」


「知っています」


「小学生の留守番より指示細かくないですか?」


「小学生なら黒糖プリンを勝手に試作しないでしょう」


「俺のほうが危険人物みたいになってる!」


亮介はぶつぶつ言いながら、もう一度リストを見る。


けれど、少しだけ嬉しくもあった。


店を営業させてもらえるわけではない。


黒糖プリンも任されない。


それでも。


「しおかぜ」と家庭菜園を、玲奈は自分に預けていく。


「でも」


「はい?」


「これって」


亮介はファイルを持ち上げる。


「俺に留守を任せるってことですよね」


玲奈は少しだけ間を置いた。


「店を営業することは任せません」


「そこは分かってます」


「黒糖プリンも作らせません」


「分かってます」


「家庭菜園も、書いてある範囲でお願いします」


「……はい」


「それでも」


玲奈は亮介を見る。


「留守をお願いするのは、亮介さんです」


短い言葉だった。


「お願いします」


亮介も、その時だけはふざけなかった。


「はい。任せてください」


少しだけいい空気になる。


玲奈が続けた。


「水はやりすぎないでくださいね」


「今の感動、三秒しかもたなかった!」


「大切ですから」


「俺の信用よりトマト!」


玲奈が笑った。


その笑顔を見ながら亮介は思った。


数日間。


この人がここにいないのか。


その意味を、この時の亮介はまだ十分に分かっていなかった。


南ぬ島空港。


見送りには亮介も来た。


玲奈が引いているのは、小さな旅行鞄だけだった。


警察官時代のような装備はない。


NSTの資料もない。


戦隊ヒロインの華やかな衣装もない。


数日分の着替え。


身の回りのもの。


純喫茶「霧笛」の女主人や、みうちゃんへ渡す南ぬ島の土産。


ただそれだけ。


普通の女性が、久しぶりに故郷へ帰る。


今の玲奈にとっては、それが何より似合っていた。


亮介はやけに落ち着かなかった。


「忘れ物ないです?」


「確認しました」


「スマートフォン」


「あります」


「財布」


「あります」


「充電器」


「あります」


「OG会の資料」


「あります」


「留守番リスト」


玲奈が見る。


「それは亮介さんのものです」


「あ」


「空港まで持ってきていますよね?」


亮介が鞄を見る。


「あります」


「今日もう一度読んでください」


「飛行機に乗る直前まで管理されてる!」


玲奈は少し笑った。


「久しぶりの神戸ですね」


亮介が言う。


「はい」


「楽しみですか?」


玲奈は少し考えた。


「楽しみです」


「緊張は?」


「少し」


「OG会?」


「それもあります」


玲奈は搭乗口の向こうへ視線を向ける。


「故郷へ帰るというのは、不思議なものですね」


「何で?」


「昔は神戸へ帰ることを、こんなふうに意識したことがありませんでしたから」


今では、南ぬ島が日常になった。


家庭菜園。


黒糖プリン。


潮風。


夕暮れの海。


そして亮介。


亮介が言う。


「もうすっかり島人ですもんね」


玲奈が横を見る。


「やはり、そこは否定しませんね」


「完全に島人でしょう」


「亮介さんもです」


「俺は心の住民票を移してますから」


「その制度はありません」


「心ですよ、心」


「行政手続きはできません」


「元警部補は夢がない!」


二人で笑った。


やがて搭乗案内が始まる。


亮介は笑顔だった。


いつものように。


「じゃあ、楽しんできてください」


「はい」


「彩香さんたちにもよろしく」


「伝えます」


「霧笛の女主人さんにも」


「はい」


「みうちゃんにも」


「はい」


「俺のことも、何か格好よく話してください」


玲奈が真面目に考える。


「……何を?」


「考え込まないでくださいよ!」


「候補がありません」


「一つくらいあるでしょう!」


「留守番をきちんとできたら考えます」


「帰ってきてから査定!」


玲奈は少し笑った。


「では」


旅行鞄の持ち手を握り直す。


「行ってきます」


亮介も笑う。


「はい。いってらっしゃい」


玲奈は搭乗口へ向かう。


途中で一度だけ振り返る。


亮介はまだ手を振っていた。


玲奈も小さく手を上げる。


そして姿が見えなくなる。


亮介はその場所へ、ほんの少し長く立っていた。


「……変な感じだな」


小さく呟く。


まだ、


寂しい


とは思っていない。


ただ、四六時中当たり前に視界へ入っていた人がいない。


それが妙に落ち着かなかった。


南ぬ島から那覇へ。


那覇で乗り継ぎ。


そして神戸へ。


機内から見える海の色が変わっていく。


南国の鮮やかな青。


雲。


やがて本州。


瀬戸内側の海。


街。


港。


山。


機体が高度を下げ始めると、玲奈の胸の奥に、何とも言えない感覚が広がった。


神戸。


生まれ故郷。


それなのに、


帰ってきた


というより、


知っている場所へ久しぶりに来た


というほうが近い。


神戸の海上空港へ降り立つ。


コンコースへ出た玲奈は、そこで一度足を止めた。


空港独特の音。


アナウンス。


行き交う人々。


大きな窓の向こうの海。


懐かしい。


ここは玲奈にとって、ただの空港ではない。


かつての職場だった。


NST時代。


兵庫県警の特命で、長い期間この空港へ駐在したことがある。


警戒。


情報収集。


捜査。


報告。


連絡。


毎日のように歩いたコンコース。


あの頃の玲奈は警察官だった。


今の玲奈は、小さな旅行鞄を引くカフェ店主。


同じ床を歩きながら、自分だけが大きく変わったような気がした。


そして、記憶の中から仲間たちの顔が次々と現れる。


麻衣。


最初は危なっかしく、それでも日を追うごとに成長していった。


あかり。


美咲。


華やかな容姿で周囲の空気まで変えてしまう迫田ツインズ。


結月。


遠州からやってきた美音。


支えてくれたあおい。


失敗した。


叱った。


励ました。


時には自分も助けられた。


あの頃は一日一日が必死だった。


今になってみれば、どれも少し眩しい。


そして。


最も強く浮かんだのは、西川彩香だった。


何度叱ってもついてきた。


玲奈の背中を追いかけた。


警察官という道を選んだ。


そして本当に、兵庫県警の警察官になった。


「もう、私の後輩ではなく、一人の警察官なのですね」


誰に言うでもなく、小さく呟く。


年月とは、不思議なものだった。


その時だった。


「……玲奈さんですよね?」


背後から声がした。


玲奈が振り返る。


空港警察の制服。


一瞬、現在と昔が重なった。


「里緒さん?」


真砂里緒だった。


県警の後輩。


一時期NSTにも加わり、玲奈たちと活動した仲。


里緒の表情もぱっと明るくなる。


「やっぱり玲奈さん!」


「お久しぶりです」


「本当に久しぶりです!」


短い再会。


それなのに昔の空気が、一瞬で戻ってくる。


里緒は今も空港警察で働いていた。


今では若手の警察官へ指示を出し、後輩を指導する立場になっている。


玲奈は感慨深そうに言う。


「里緒さんも、もう教える側なのですね」


里緒は笑う。


「玲奈さんたちに散々教えられましたから」


「散々?」


「結構厳しかったですよ」


「そうでしたか?」


「本人だけ覚えてないんですね」


玲奈も笑った。


すると里緒は、改めて玲奈の顔を見る。


「でも」


「はい?」


「玲奈さん、変わりましたね」


「そうでしょうか」


「柔らかくなりました」


玲奈は少し目を丸くする。


「昔は、もっとこう……」


里緒は背筋を伸ばしてみせる。


「常に何かを見てる感じでした」


「警察官でしたから」


「今は、本当にカフェの店主って感じです」


玲奈は少し笑った。


「今では、そちらのほうが自分らしいかもしれません」


里緒も嬉しそうに笑う。


「OG会ですよね?」


「はい」


「彩香さん、すごく楽しみにしてますよ」


「想像できます」


「昨日も玲奈さんの話してました」


「何を?」


里緒が笑う。


「それは本人に聞いてください」


「少し怖いですね」


「昔の彩香さんを知ってるなら分かるでしょう?」


「よく分かります」


里緒と別れる。


ほんの短い時間。


けれど玲奈の中で、この空港の記憶が一つ、穏やかなものへ塗り替えられた。


新交通システムで三宮方面へ。


窓の外に、神戸の街が近づいてくる。


港湾施設。


海。


街。


その向こうの山。


知っている景色。


でも、少しだけ知らない景色。


自分が離れている間にも、当然ながら街は生き続けていた。


スマートフォンが震える。


亮介。


無事着きました?


玲奈は返信する。


着きました。今、三宮へ向かっています。


ほとんど間を置かず返ってくる。


こっちは平和です。


さらに、


トマトにも水やりました。


玲奈は即座に、


土の湿り気は確認しましたか?


送信。


返信が止まる。


一分ほど。


やがて、


しました。


その直後。


今しました。


玲奈は車内で思わず笑った。


今では遅いです。


数秒後。


神戸にいても元警部補!


玲奈の口元に、小さな笑みが残った。


神戸へ戻ってきた。


何百キロも離れた。


それでも、会話だけはいつもの「しおかぜ」と何も変わらない。


最初に玲奈が向かったのは、純喫茶「霧笛」。


玲奈が「しおかぜ」を始める前。


店というものを一から学んだ場所。


コーヒー。


接客。


客との距離。


話しかけるべき時。


そっとしておくべき時。


人が店に求めるのは、食事や飲み物だけではないこと。


そのすべてを教えてくれた師匠がいる。


扉を開ける。


深い木の色。


落ち着いた照明。


磨かれたカウンター。


コーヒーの香り。


明るい南ぬ島の「しおかぜ」とは正反対に近い。


けれど玲奈の身体は、この空気を覚えていた。


女主人が顔を上げる。


一瞬。


そして、穏やかに笑った。


「……久しぶりやね」


玲奈の口からも、ごく自然に神戸の言葉が出る。


「ご無沙汰してます」


その一言で、


ああ、本当に帰ってきた。


そう思った。


昔話に花が咲く。


玲奈が修業を始めた頃。


手順ばかり完璧にしようとしていたこと。


コーヒーを淹れる時間まで正確に測り、客の顔を見る余裕がなかったこと。


「店は料理だけ出す場所やないよ」


と何度も叱られたこと。


玲奈は苦笑する。


「随分、面倒な弟子でしたね」


「今ごろ気づいたん?」


「今は少し改善したと思います」


「どうやろねえ」


女主人も笑う。


そして、今の「しおかぜ」の話。


黒糖プリン。


家庭菜園。


観光客。


常連客。


台風。


南ぬ島のゆっくりした暮らし。


「随分、店主らしくなったんやね」


「まだまだです」


「一緒に働いてる人もおるんやろ?」


玲奈は一拍だけ置いた。


「ウェイターです」


「そう」


女主人は深追いしない。


ただ長年、人の顔を見続けてきた人らしい目で玲奈を見る。


「前より、ええ顔するようになったね」


玲奈は少し困った。


「島の暮らしが合っているのかもしれません」


「それだけやない気もするけど」


玲奈はコーヒーカップへ逃げる。


「いただきます」


女主人が笑う。


「逃げたね」


「何からでしょう」


「昔より上手になったわ」


「それは褒められているのでしょうか」


「さあ」


やはり、師匠には勝てなかった。


「霧笛」を出た玲奈は、両親の墓へ向かった。


ここでは、一人。


花を供える。


静かに手を合わせる。


昔なら、もっと大きな報告をしたかもしれない。


警部補になった。


事件を解決した。


誰かを守った。


任務をやり遂げた。


今は違う。


南ぬ島でカフェをしています。


黒糖プリンが少し評判です。


家庭菜園まで始めました。


なんでもない話。


でも、今の玲奈にとっては、それが一番大切だった。


そして最後。


心の中で、少しだけ付け加える。


毎日、よくしゃべる人が一人います。


墓前なのに、玲奈の口元がわずかに緩んだ。


両親へ亮介の存在を報告している。


そのこと自体が、妙におかしかった。


元気にしています。


最後は、それだけ。


さらに丹波篠山へ。


神戸が「生まれた場所」なら、


丹波篠山は「大人になっていった場所」だった。


両親を失ったあと。


祖父母のもとで暮らした。


学校へ通った。


勉強した。


自分の将来を考えた。


大学へ行く道だってあった。


それでも、年老いた祖父母へこれ以上負担をかけたくなかった。


そして、両親のような悲惨な事故を少しでも減らしたかった。


誰かの被害へ寄り添える警察官になりたかった。


だから警察を選んだ。


祖父母の墓前へ花を供える。


玲奈は長く手を合わせた。


「随分、遠くまで来ました」


思わず声になった。


丹波篠山。


神戸。


兵庫県警。


NST。


戦隊ヒロイン。


そして南ぬ島。


振り返れば、一本の道とは思えないほど遠回りしている。


「でも」


玲奈は微笑む。


「元気にしています」


それで十分だった。


その頃。


南ぬ島。


亮介は、人生の自由を満喫していた。


はずだった。


玲奈はいない。


「しおかぜ」は長期休業。


黒糖プリンを作れと言われることもない。


営業時間もない。


朝一番に、


「亮介さん、遅いです」


と言われる心配もない。


留守番リストの仕事さえ済ませれば、何をしてもいい。


「自由だ」


亮介は誰もいない店で両腕を広げた。


返事はない。


「これですよ」


誰もいない。


「久しぶりの独身貴族」


そもそも独身である。


まず家庭菜園。


玲奈の指示書を片手に水をやる。


途中で止まる。


「……これ多いかな」


玲奈の顔が頭に浮かぶ。


『やりすぎです』


「やめとこう」


本人はいない。


なのに、玲奈の声だけは脳内に残っている。


店の換気。


床掃除。


窓拭き。


厨房。


コーヒーミル。


窓際の二人掛けソファ。


「ロマンスシート――」


亮介は止まる。


誰もいないのに言い直した。


「……窓際二名席、異常なし」


自分で気づいて笑う。


「何で俺、いない人に配慮してるんだ」


ひと通り終わった。


ここからは本当に自由。


亮介は久しぶりにパチンコへ行った。


誰にも、


「使いすぎないでください」


と言われない。


好きな台。


好きなだけ。


思う存分。


そして、


負けた。


かなり負けた。


財布の中身を見ながら呟く。


「玲奈さんには言えないな」


数秒。


「あ」


顔が明るくなる。


「玲奈さん、いないんだった」


自由である。


その夜は、「しおかぜ」の常連のおじいたちと泡盛。


「今日は玲奈ちゃんは?」


「神戸です」


「リョウちゃん、寂しいんじゃないか」


亮介は笑う。


「まさか!」


グラスを掲げる。


「久しぶりの自由ですよ!」


「本当か?」


「本当ですって!」


飲む。


誰も止めない。


もう一杯。


誰も、


「亮介さん、そろそろやめたほうが」


と言わない。


帰る時間も自由。


飯も自由。


酒も自由。


金の使い方も自由。


小言なし。


最高。


――少なくとも、夕方までは。


夜。


亮介は「しおかぜ」へ戻った。


玲奈に頼まれた最後の確認。


窓。


戸締まり。


厨房。


家庭菜園。


冷蔵庫。


ひとつずつ確認する。


「よし」


誰も返事をしない。


「異常なし」


静かだった。


営業していないのだから、当然だ。


カウンターへ座る。


「静かでいいなあ」


何も返ってこない。


いつもなら、


「早く帰ったらどうですか」


くらい言われる。


今日はない。


自分の声だけが、少し広い店内へ響いた。


「……静かすぎない?」


冷蔵庫を開ける。


黒糖プリンが残っている。


玲奈が出発前に作ったもの。


亮介の視線が止まる。


指示書。


赤字。


勝手に食べない。


亮介が手を伸ばす。


「一個くらいなら――」


自分で止まった。


「そこまで書かれてたな」


苦笑する。


でも。


誰も、


「駄目です」


と言わない。


取り出しても、怒られない。


玲奈はいない。


完全な自由。


それなのに。


亮介は冷蔵庫の扉を閉めた。


「……怒られないと、つまらないな」


言ってから、自分で驚いた。


何を言っているのだろう。


昼間は最高だった。


パチンコ。


泡盛。


自由。


なのに、ほんの数時間である。


すでに何かが足りない。


亮介は窓際の二人掛けソファへ座った。


一人で。


広い。


こんなに広い席だったか。


「これ、本当に二人掛けだったんだな」


普段なら玲奈が片側へ座る。


少し距離を空けて。


亮介が近づけば、


「狭いです」


と言う。


亮介が、


「ロマンスシートですから」


と返す。


玲奈が、


「窓際二名席です」


と訂正する。


何度繰り返したか分からない。


今日は、その全部がない。


暗い海。


波の音。


亮介はスマートフォンを取り出す。


玲奈からのメッセージ。


墓参りを終えました。これから宿へ戻ります。


返信を書く。


今日はパチンコでかなり負けました。おじいたちと泡盛も飲みました。正直言うと玲奈さんいないと結構暇です。


そこまで打つ。


見る。


消す。


打ち直す。


こっちは異常なしです。


送信。


しばらくして返ってくる。


ありがとうございます。飲みすぎないでくださいね。


亮介は画面を見つめる。


「……何で分かるんだよ」


それでも笑ってしまう。


何百キロ離れても、見抜かれている。


妙に安心した。


神戸のホテル。


玲奈も、一人だった。


忙しい一日だった。


神戸空港。


里緒との再会。


三宮。


「霧笛」。


師匠。


両親の墓。


丹波篠山。


祖父母の墓。


一日で、いくつもの昔の自分へ会いに行ったような気分だった。


疲れている。


けれど、嫌な疲れではない。


ホテルの窓の向こうには、神戸の夜景。


懐かしい街の灯り。


帰ってきた。


確かにそう思う。


ここは故郷。


何年離れても、自分の中から消えない場所。


それなのに。


玲奈はスマートフォンを見る。


亮介から届いた、


こっちは異常なしです。


あの亮介にしては、ずいぶん短い。


「……珍しいですね」


少し笑う。


寂しいのだろうか。


そこまで考えて、


「まさか」


と自分で否定する。


きっとパチンコへ行った。


きっと泡盛も飲んだ。


自分がいないことをいいことに、存分に羽を伸ばしているはずだ。


それなのに。


頭へ浮かんだのは、閉店後の「しおかぜ」。


夕暮れの窓際。


小さな二人掛けソファ。


片側だけが空いている。


そしてなぜか、そこに一人で座る亮介の姿まで想像してしまう。


玲奈は少しだけ困った顔になる。


「何を考えているのでしょうね」


神戸は「ただいま」と言える場所だった。


間違いなく。


でも。


南ぬ島には、自分で鍵を開ける店がある。


毎朝立つ厨房がある。


黒糖プリンがある。


家庭菜園がある。


そして。


帰れば、おそらく誰より大きな声で、


「おかえりなさい」


と言う男がいる。


神戸へ帰った初日の夜。


玲奈は初めて気づいた。


自分にはもう、


二つの帰る場所がある。


南ぬ島。


亮介はまだ一人でロマンスシートにいた。


「自由って」


ぽつり。


「一日で飽きるもんなんだな」


玲奈には絶対に言わない。


言えば、


「昨日はあれほど嬉しそうでしたよ」


と確実に返される。


でも。


朝にバカな話をする。


玲奈に呆れられる。


昼には働く。


何か余計なことをして叱られる。


夕方には二人で片づける。


時々このソファに並んで海を見る。


そういうものが、自分でも気づかないうちに「一日」という形を作っていた。


玲奈がいなくなっただけで、その形が少し崩れている。


「四六時中、一緒だったんだな」


返事はない。


亮介は自嘲気味に笑う。


「夫婦でもないのに」


数秒。


待つ。


何も返ってこない。


いつもなら、ほぼ反射的に、


「夫婦ではありません」


と返ってくるはずなのに。


亮介はさらに寂しくなった。


「……そこは言ってくれないと調子狂うな」


誰もいない店で、一人で笑った。


その夜。


玲奈のスマートフォンへ、次々と通知が入った。


彩香。


玲奈さん、明日のリハーサル、みんな本当に楽しみにしています!


美月。


大量の絵文字と賑やかな文章。


麻衣。


丁寧な近況と明日の確認。


あかり。


相変わらず短い一文。


迫田ツインズ。


華やかな自撮り。


懐かしい名前が、画面いっぱいに並ぶ。


玲奈は微笑んだ。


明日。


かつての戦隊ヒロインたちと、本格的に再会する。


昔の世界。


スポットライト。


ステージ。


仲間。


久しぶりに、あの華やかな時間へ足を踏み入れる。


ただし。


昔の玲奈としてではない。


今の、


南ぬ島でカフェを営む岡本玲奈として。


眠る前。


玲奈は亮介へ一通送った。


明日は朝からリハーサルです。家庭菜園、よろしくお願いします。


南ぬ島。


ソファで半分眠りかけていた亮介のスマートフォンが震える。


画面を見る。


返信。


了解。任せてください。


送る。


少し考える。


さらに、


楽しんできてください。


送る。


それからもう一つ。


早く帰ってきてください。


入力。


指が止まる。


しばらく見る。


削除。


「……まだ早いよな」


誰も聞いていない。


神戸。


玲奈は二つのメッセージを見る。


了解。任せてください。


楽しんできてください。


短い。


でも、亮介らしい。


玲奈はスマートフォンを枕元へ置く。


神戸の夜景を見る。


懐かしい。


嬉しい。


ここへ帰ってこられてよかったと思う。


それでも胸の奥に、


南ぬ島の海がある。


「しおかぜ」がある。


誰もいない厨房がある。


家庭菜園がある。


一人では妙に広い二人掛けのソファがある。


そして。


「ちゃんとやっているでしょうか」


玲奈は小さく笑った。


店の心配。


家庭菜園の心配。


そういうことにしておこう。


本当は。


その中に一人、


少し気になる男が混ざっているだけだった。


帰郷初日。


玲奈は忙しかった。


昔の仲間と再会し。


師匠のコーヒーを飲み。


両親へ今の暮らしを報告し。


祖父母へ手を合わせ。


自分が歩いてきた道を一つずつ確かめた。


一方。


南ぬ島で自由を手に入れた亮介は、


パチンコを打ち。


泡盛を飲み。


誰にも注意されない時間を存分に楽しんだ。


そして夜には、


その自由が思ったより広く、


思ったより静かで、


少しだけつまらないことに気づいた。


人は、離れてみないと分からないことがある。


毎日隣にいる人が、


どれほど自分の日常の中へ入り込んでいるのか。


「ただいま」と言える故郷がありながら、


別の場所に、


「おかえり」と言ってくれる人がいることが、


どれほど心を温かくするのか。


その夜。


玲奈は神戸で眠り、


亮介は南ぬ島で眠った。


物理的には、これまでで一番遠く離れている。


なのに不思議なことに。


離れたその日に初めて、


二人は互いが、


思っていたよりずっと近いところで暮らしていたことを知った。


そして翌朝。


玲奈には、かつての仲間たちとの再会が待っている。


警察官になった彩香。


相変わらず賑やかな美月。


麻衣。


あかり。


美咲。


迫田ツインズ。


懐かしい顔ぶれが集まる、


戦隊ヒロインOG会のリハーサル。


華やかだった昔の世界へ、


島人になった今の岡本玲奈が、


もう一度足を踏み入れる。


けれど、その胸の片隅にはすでに、


神戸へ来る前にはなかった小さな気持ちが芽生えていた。


ただいま、神戸。


そう言える故郷へ帰ってきたはずなのに。


いつの間にか自分は、


南ぬ島にも、


「おかえり」


を待つ場所を作っていたのだった。

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