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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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県警のエースが帰ってきた日、ウェイターは急に語彙を失った ――ロマンスシートと知的会話と、嫉妬する元詐欺師の長い午後

模様替えをしてから、「島カフェ しおかぜ」にはちょっとした名物ができた。


窓際へ移した、小さな二人掛けのソファである。


正式名称は、ただの「窓際二名席」。


少なくとも店主の岡本玲奈は、そう言い張っている。


しかし、亮介だけは頑として認めなかった。


彼の中ではすでに、


ロマンスシート。


それ以外の呼び方は存在しないらしい。


しかも困ったことに、このロマンスシートが予想以上に好評だった。


若い観光客のカップルが並んで海を眺めるのは想定内だったが、意外だったのは年配の夫婦である。


六十代、七十代。


中には金婚式をとうに過ぎたような二人まで、


「いやあ、こんな席は若い人向けだろう」


「あなた、いいじゃない。たまには」


などと最初は照れながら座る。


ところが、海を眺めているうちに表情が変わる。


「あの頃も、こんな海を見たねえ」


「新婚旅行だったな」


「あなた、昔はもっと細かったのよ」


「お前だって」


そんな会話が始まる。


時には、帰り際に少し照れながら手をつなぐ夫婦までいる。


それを見た亮介が、黙っているはずがなかった。


開店準備の朝。


亮介はロマンスシートのクッションを整えながら、やたらと真剣な顔で言った。


「玲奈さん」


「はい」


カウンターでは玲奈がコーヒー豆を量っている。


「俺、分かりました」


「何がですか?」


「このロマンスシート、地域社会に貢献してます」


「窓際二名席です」


「名称の話じゃありません」


「亮介さんがその名称を使うたびに訂正することにしています」


「行政処分みたいに言わないでください」


玲奈は量りを確認しながら、淡々としている。


亮介は構わず続ける。


「昨日のご夫婦、帰りに手つないでましたよ」


「仲のよいご夫婦でしたね」


「つまりですよ」


亮介は人差し指を立てた。


「ロマンスには年齢制限がない」


「それは、まあ」


「この席へ座ることによって、夫婦が若い頃を思い出す」


「そういう方はいらっしゃるでしょうね」


「ということは」


亮介は胸を張った。


「これは南ぬ島の夫婦円満施策です」


玲奈の手が止まる。


「いつから行政事業になったのですか?」


「いずれ島から補助金が出ます」


「出ません」


「結婚五十周年以上なら黒糖プリン一個無料」


「勝手に利益を減らさないでください」


「じゃあ、手をつないだら五十円引き」


「ありません」


「見つめ合ったら――」


「亮介さん」


「はい」


玲奈がようやく顔を上げた。


呆れた表情。


けれど口元には、ほんの少し笑いがある。


「朝から何を言っているのですか」


「店の発展について真剣に議論しています」


「ほぼ全部くだらなかったですが」


「ほぼ?」


「全部と言ってもよいです」


「評価が下がった!」


玲奈は小さくため息をつく。


そして、ふと昔を思い出したように亮介を見る。


「亮介さんに一番最初に会った婚活パーティーの時は、ベンチャー企業で営業部長やってるって言うて……もっと知的なイメージがあったのやけどなぁ」


たまに出る、柔らかな神戸弁だった。


亮介が振り返る。


「そりゃあ、元詐欺師でしたから」


玲奈がじっと見る。


「胸を張るところではありません」


「当時は日協商事の営業部長でしたからね」


「投資詐欺会社の、でしょう」


「そこまで全部言うと急に印象悪くなるんですよ」


「実態が悪かったのです」


亮介は悪びれずに笑う。


「婚活パーティーで『はじめまして、投資詐欺会社の営業部長です』なんて言う男いないでしょう」


「ですから、それを世間では騙したと言うのです」


「でも玲奈さん、騙されましたよね」


言った瞬間。


亮介は、ちょっとだけ後悔した。


玲奈が静かに微笑んだからである。


「そうですね」


「……はい」


「私も当時は未熟でした」


「玲奈さん?」


「今なら三分ほど話せば、かなり怪しい方だと分かると思います」


「三分?」


「特に『海外案件も扱っています』と言いながら具体的な国名を一つも出さなかったところで」


亮介の目が丸くなる。


「そこまで覚えてるんですか?」


「覚えていますよ」


「婚活パーティーの会話ですよ」


「警察官でしたから」


「婚活にも職務能力を持ち込まないでください!」


玲奈が吹き出す。


亮介は頭を抱える。


「でも、昔の俺、もっと知的だったでしょう」


「知的に見せていましたね」


「見せてた!」


「今より口数も少なかったですし」


「猫かぶってたんですよ」


「ずいぶん大きな猫ですね」


「詐欺師ですから」


「開き直らないでください」


くだらない。


けれど、玲奈は笑っている。


最近では、こういう朝も悪くないと思っている自分がいる。


もちろん亮介には言わない。


言えば三日くらい得意になるからだ。


その時だった。


からん。


入口のベルが鳴った。


まだ開店前。


玲奈と亮介が同時に顔を上げる。


「やあ。久しぶりだね」


聞き覚えのある低い声。


扉の向こうから入ってきたのは、大城誠司警部だった。


本島への長期出張を終え、ようやく南ぬ島へ戻ってきたのである。


片手には本島土産らしい紙袋。


姿勢はよく、表情は涼しい。


そして相変わらず、ただ店へ入ってきただけなのに妙に絵になる。


「大城警部」


玲奈の表情が少し明るくなる。


「お久しぶりです」


「久しぶりだね、玲奈さん」


大城は穏やかに微笑んだ。


「ようやく島へ戻ってきたよ。本島も悪くないが、やはりこの店の潮風は違う」


亮介が小声で言う。


「入店三秒でキザだ」


大城が見る。


「何か言ったかな、ウェイター君」


「いいえ。お帰りなさいませ、県警のエース候補様」


「候補は余計だよ」


「自分でよく言ってるでしょう」


玲奈は苦笑する。


大城は玲奈へ紙袋を差し出した。


「本島の土産だよ。焼き菓子と、それから少し珍しいコーヒー豆があったのでね」


「ありがとうございます」


玲奈は素直に嬉しそうだった。


「この豆は面白そうですね」


「玲奈さんならどう淹れるのか、少し興味があってね」


そのやり取りを聞いた亮介は、さっそく横から紙袋を覗き込む。


「俺のは?」


大城はもう一つ小さな袋を差し出した。


「ウェイター君にもあるよ」


亮介の顔が明るくなる。


「あるんですか?」


「黒糖菓子だ」


亮介は受け取った。


「警部さん、いい人ですね」


玲奈が呆れる。


「判断基準がお土産なのですか?」


「人間関係は分かりやすいほうがいいんですよ」


大城は軽く笑いながら、店内を見回した。


「少し変わったね」


「模様替えをしました」


玲奈が説明する。


テーブルの位置を変えたこと。


通路を少し広くしたこと。


海を見やすい向きへソファを移したこと。


大城は感心したように店内を眺める。


「いいねぇ。前より海が近く感じる」


そして当然、その視線は例の二人掛けソファへ向かった。


「これは?」


亮介が食い気味に答える。


「ロマンスシートです」


玲奈が即座に、


「窓際二名席です」


大城は二人を見比べ、笑った。


「いや、ボクはウェイター君の呼び方のほうが好きだな」


亮介が目を見開く。


「警部さん」


「何かな」


「今日は初めて話が合いましたね」


「それは光栄だ」


「俺たち、案外仲良くなれるかもしれません」


大城はロマンスシートの前へ立ち、窓の向こうを見る。


「確かに、夕方はきれいだろうね」


玲奈が頷く。


「かなりきれいですよ」


大城は、さらりと言った。


「玲奈さんとここで海を眺めながらコーヒーを飲めば、悪くない時間になりそうだ」


亮介の顔が固まる。


「前言撤回します」


玲奈が振り向く。


「何をです?」


「何でもありません」


大城は、そんな亮介を面白そうに見る。


「ところでウェイター君」


「はい」


「ボクが本島にいる間、玲奈さんをしっかり守っていたのかな?」


亮介の背筋が少し伸びる。


偽札事件もあった。


台風の夜もあった。


防犯訓練もした。


少しくらいは胸を張ってもよさそうなものだ。


だが。


大城は続ける。


「まあ、玲奈さんは強いからね」


亮介の胸が少ししぼむ。


「……はい」


「キミがいなくても、ほとんどのことは自分で対処できると思うが」


「……はい」


玲奈が横を見る。


「認めるのですか?」


亮介は真顔で答えた。


「反論材料がありません」


大城が頷く。


「素直なのはいいことだ」


「その上から目線が腹立つんですよ!」


「久しぶりでも元気そうで安心したよ」


「警部さんが来ると俺の血圧が上がるんです!」


玲奈がまた笑う。


開店時間になる。


やがて奈央も来店し、いつもの席へ座った。


お気に入りの文庫本を開く。


その日の奈央は、最初から明らかに、


今日は静かに読みたい。


という雰囲気を全身から出していた。


大城は久しぶりの「しおかぜ」で、ゆっくり過ごすことにした。


そして亮介にとって、ここから長い午後が始まる。


大城と玲奈の会話が、やたらと理知的なのだ。


話題の始まりは、本島の古い住宅だった。


「今回、北部へ行く機会があってね」


大城がコーヒーを飲みながら言う。


「昔ながらの家がまだ残っていた。やはり本島と八重山では、台風への向き合い方が少し違う」


玲奈が頷く。


「屋根だけではなく、集落全体の造りにも違いがありますね」


「そう。風をどう逃がすか」


「海との距離の取り方も」


「暮らしそのものが建築に残っているんだよ」


「面白いですね」


そこから沖縄本島の都市化。


那覇周辺の交通事情。


離島との物価差。


人口流出。


さらに話は県警内部へ移る。


「本部から見れば合理的な人員配置でも、離島では一人抜けるだけで影響が大きい」


大城が言う。


玲奈も元警察官らしく自然に応じる。


「地域との信頼関係まで含めると、単純な人数では測れませんからね」


「そうなんだ。現場で築いた関係は、人事表には載らない」


「警察だけではないと思います」


玲奈は店内を見渡す。


「この店でも、効率だけなら省けることはいろいろあります。でも、お客様が安心するためには残したほうがいいものもありますから」


大城が少し嬉しそうに笑う。


「相変わらずだね、玲奈さん」


「何がです?」


「警察を辞めても、物を見る軸は変わっていない」


玲奈も笑う。


「大城警部も変わっていませんね」


知識。


経験。


警察という共通言語。


沖縄という土地への理解。


会話は途切れない。


その少し離れた場所。


トレーを持った亮介がいる。


「……人員配置」


小声で復唱する。


理解できないわけではない。


亮介だって元々、商品先物取引会社の営業マンだった。


日協商事では営業部長。


数字を扱うことも、人を説得することも得意だった。


少なくとも頭が悪い男ではない。


ただ、現在の玲奈と大城の会話へどう入ればいいか。


それが分からない。


亮介は一度、勇気を出す。


「俺も昔、組織で部下を――」


玲奈と大城が同時に見る。


亮介は、その先を言いかけて気づいた。


日協商事時代の組織論を語ると、ほぼ犯罪組織の営業管理論になる。


「……何でもありません」


大城が首を傾げる。


「何か言いかけなかったか?」


「俺の組織論は法廷で不利になりそうなのでやめました」


玲奈が吹き出す。


「賢明です」


別の入口を探す。


スポーツ。


「組織と言えば、ラグビーも十五人の連携が――」


大城が頷く。


「それは確かに興味深いね」


亮介の顔が輝く。


「でしょう!」


「ウェイター君はラグビーでは何が得意だったんだ?」


「千五百メートル四国八位です」


沈黙。


大城が首を傾げる。


「……ラグビーの話では?」


玲奈も同じ顔をしている。


亮介は自分でも気づく。


「俺も途中で思いました」


玲奈。


「なぜ言ったのですか?」


「代表的な実績なので」


大城。


「今は必要なかったね」


亮介。


「俺もそう思います」


完全敗北。


それでも仕事はしなければならない。


亮介がコーヒーを運ぶ。


「どうぞ」


「ありがとう、ウェイター君」


「警部さん」


「何かな」


「俺には名前があります」


「知っているよ」


「一回くらい呼んでください」


大城は涼しい顔。


「ありがとう、ウェイター君」


「絶対わざとでしょう!」


玲奈がまた笑う。


その笑い声まで、今日は何となく悔しい。


大城と話す玲奈は楽しそうなのだ。


落ち着いた笑顔。


話の通じる相手との自然な間。


昔の仕事を共有する二人だからこその呼吸。


亮介は徐々に居場所を失っていく。


そして。


逃げた。


奈央のところへ。


奈央は静かに文庫本を読んでいる。


「奈央さん」


「はい」


視線は上がらない。


「警部さん、久しぶりですね」


「そうですね」


ページがめくられる。


「玲奈さんと随分盛り上がってますね」


「そうですね」


亮介は眉を寄せる。


「奈央さん」


「はい」


「今、俺が相談しようとしてるの分かります?」


「分かります」


「じゃあ、もうちょっと興味持ってくれません?」


奈央は本から目を離さない。


「今、いいところなので」


「俺より本?」


「はい」


即答。


亮介は傷ついた顔になる。


「俺、今日どこにも居場所がない」


「カウンターがあります」


「そこは職場です」


「働いてください」


「玲奈さんと同じこと言う!」


奈央はまた本へ戻る。


亮介はまだ諦めない。


「奈央さん」


「はい」


「知的な男って、どうしたらなれます?」


今度は少しだけ顔が上がる。


「本を読んだらどうですか?」


亮介は奈央の本を見る。


「なるほど」


「では」


奈央は再び読書。


「初心者向け、何かあります?」


「本屋さんで聞いてください」


「冷たい!」


「今日は静かに読みたいんです」


「俺、奈央さんには結構優しくしてきたでしょう」


「嫌いではありませんよ」


「じゃあ」


「でも静かにしてください」


「嫌いじゃないのに扱いが冷たい!」


奈央からも追い出される。


亮介は仕方なく新聞を広げた。


せめて知的なところを見せておこう。


「なるほど……」


わざとらしく唸る。


玲奈が気づいた。


「亮介さん。新聞を読むのは珍しいですね」


亮介は待ってましたとばかりに顔を上げる。


「俺だって社会情勢くらい把握してますよ」


大城も見る。


「それは感心だ」


亮介は新聞を広げる。


「最近の国際情勢についてですが――」


玲奈が首を傾げる。


「亮介さん」


「はい」


「それ、スポーツ面ですよ」


亮介が新聞を確認する。


大きく高校野球の記事。


「……社会面だと思っていました」


大城が静かに言う。


「ウェイター君」


「はい」


「無理はしないほうがいい」


亮介は新聞を畳んだ。


「警部さんにだけは言われたくない!」


奈央が本の向こうで、ほんの少し笑う。


亮介が即座に気づく。


「奈央さん、今笑いましたね!」


「静かにしてください」


「そこだけ参加するな!」


午後。


大城はついに例のロマンスシートへ腰を下ろした。


亮介の警戒レベルが、一気に跳ね上がる。


大城は窓の向こうを見る。


「確かに、いい席だ」


玲奈がカウンターから答える。


「夕方は、もっときれいですよ」


「そうだろうね」


大城は少し笑う。


「玲奈さん。一度この席で――」


その瞬間。


亮介がものすごい勢いで割り込んだ。


「警部さん!」


大城が驚く。


「何だい?」


「コーヒーのおかわりはいかがですか!」


大城はカップを見る。


半分以上ある。


「まだあるよ」


「黒糖プリンは!」


「今、食べている」


「お水!」


「ある」


「おしぼり!」


「使った」


「追加のおしぼり!」


「何に使うんだい?」


亮介は必死になる。


「俺に何かできることは!」


玲奈が呆れる。


「働いてください」


亮介が思わず言う。


「働いてるから邪魔できないんですよ!」


店内が一瞬、静まり返った。


亮介自身も止まる。


玲奈がゆっくり尋ねる。


「何を邪魔するのです?」


亮介は数秒固まる。


「……接客の流れです」


大城の口元が上がる。


「ああ」


亮介が警戒する。


「何ですか?」


「なるほど」


「何がなるほどなんです?」


「ボクがいない間に、ウェイター君も少し成長したようだ」


亮介は慌てる。


「何もありません!」


玲奈もほぼ同時に言う。


「何もありません」


ぴたりと重なった。


大城が眉を上げる。


「息が合っているね」


二人同時。


「合っていません」


また重なる。


奈央が本を読みながら言う。


「合っていますね」


亮介が振り向く。


「奈央さん、そこだけ入ってくるんですか!」


「面白かったので」


「俺の危機だけ娯楽扱い!」


玲奈が聞き逃さない。


「危機?」


「言葉の綾です」


大城は愉快そうだった。


「ウェイター君。もう少し堂々としたほうがいい」


「警部さんは堂々としすぎなんですよ」


「そうかな」


亮介は勢いで言ってしまう。


「何で玲奈さんと話す時だけ声が半音低くなるんですか!」


大城が止まる。


玲奈も止まる。


奈央のページをめくる指まで一瞬止まる。


亮介は二秒後に後悔した。


「……今の忘れてください」


大城はゆっくり笑う。


「よく観察しているね」


亮介はやけくそになった。


「元詐欺師ですから!」


玲奈がとうとう声を出して笑った。


夕方前。


大城は署へ戻るため席を立った。


「そろそろ行くよ」


玲奈が見送る。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ。やはりこの店は落ち着く」


大城はロマンスシートを振り返る。


「今度は、夕暮れ時に座ってみたいものだね」


そして意味ありげに玲奈を見る。


亮介の顔がまた曇る。


だが。


玲奈は何の含みもなく答えた。


「本当にきれいですよ」


「そうだろうね」


「模様替えをした日に、亮介さんと二人で座りましたから」


大城の動きが一瞬止まる。


亮介も止まる。


奈央だけが、一ページめくる。


玲奈は普通に続ける。


「閉店後にコーヒーを飲みながら、夕日を見ました。座り心地も悪くありません」


亮介の顔が、見る見る明るくなる。


大城が亮介を見る。


「……そうか」


亮介は急に胸を張った。


「ええ。確認済みです」


玲奈が不思議そうに見る。


「なぜ亮介さんが勝ち誇っているのです?」


「別に?」


大城が笑う。


「ウェイター君。全部顔に出ているよ」


亮介は反論する。


「元敏腕詐欺師ですよ。表情管理は得意です」


玲奈が即座に言う。


「今日は朝から、ほぼ全部出ています」


「玲奈さんまで!」


大城は苦笑し、


「じゃあ次は、一人で座るとしよう」


と言った。


亮介が即答。


「ぜひ一人で」


玲奈。


「亮介さん」


「はい」


「お客様の席の使い方を指定しないでください」


「はい……」


最後まで余裕のある大城。


店を出る。


ベルが鳴る。


扉が閉まる。


亮介はしばらくその背中を見送っていた。


そして小さく呟く。


「県警のエース候補、強敵だな……」


奈央が本から顔も上げずに言う。


「何の競争ですか?」


「男の戦いです」


「そうですか」


「興味なさそうですね」


「ありません」


「最後まで冷たい!」


やがて奈央も読み終え、会計を済ませて帰っていく。


「今日は静かに読めました」


亮介は不満そう。


「俺、結構話しかけましたけど」


「途中から聞いていませんでした」


「本人に言います?」


「では、また」


「奈央さん!」


ベルが鳴る。


店には、玲奈と亮介だけが残った。


夕方。


玲奈は食器を片づけながら、何気なく言う。


「亮介さん」


「はい」


「今日は、大城警部をずいぶん気にしていましたね」


亮介は即答。


「気にしてません」


「そうですか?」


「全然」


玲奈は一つずつ数える。


「ロマンスシートへ座った途端、コーヒー、水、おしぼりを一分以内に勧めました」


「接客です」


「突然、新聞まで読み始めました」


「知的好奇心です」


「奈央さんに、知的な男になる方法まで聞いていました」


亮介が止まる。


「……聞こえてたんですか?」


「店内ですから」


「元警部補の耳って何でそんなに性能いいんです?」


玲奈は少し楽しそうに尋ねる。


「嫉妬ですか?」


亮介が完全に固まる。


「玲奈さん」


「はい」


「そういうこと、直接聞きます?」


「いけませんか?」


「昼ドラなら、もう少し引っ張ります」


「ここはカフェです」


「今日何回目、それ」


玲奈は片づけを続ける。


亮介はしばらく黙っていた。


そして観念したように言う。


「……少しだけですよ」


玲奈が手を止める。


「警部さん、頭いいでしょう」


「はい」


「仕事もできる」


「そうですね」


「昔の警察の話も玲奈さんとできる」


「はい」


「沖縄の文化とか、社会とか、難しい話までできる」


「そうですね」


亮介はため息をつく。


「しかもキザだけど、顔も悪くない」


玲奈が少し笑う。


「ずいぶん高く評価していますね」


「敵は正確に評価しないと」


「敵ではありません」


「仮想敵です」


亮介は少し間を置いた。


「俺、最初に玲奈さんと会った時は、もっと知的な男を演じてたでしょう」


「演じていたのですか?」


「そこ、確認しなくてもいいでしょう」


「経済の話は随分流暢でしたね」


「仕事でしたから」


「詐欺の」


「何で毎回そこを正確にするんです」


玲奈が笑う。


亮介は自分を指す。


「今なんて朝から、ロマンスシートを夫婦円満施策とか言ってる男ですよ」


玲奈は少し肩を揺らす。


「かなりくだらなかったですね」


「そこは否定してください」


「でも」


玲奈が少し考える。


「私は嫌いではありませんよ」


亮介が顔を上げる。


「何がです?」


「亮介さんの、そういう話」


「バカ話?」


「はい」


「そこはもっと綺麗に言ってください」


「くだらない話」


「悪化した!」


玲奈は楽しそうに笑う。


そして、そのあとだけ少し声を柔らかくした。


「大城警部とは、昔の仕事の話ができます」


「はい」


「警察の話もできます」


「はい」


「沖縄の文化や社会についても、いろいろ教えていただけます」


亮介は小さく頷く。


「でしょう」


「でも」


玲奈は店内を見渡す。


「毎朝、一緒にこの店を開けているのは亮介さんです」


亮介が黙る。


「どの椅子が少しぐらついているか」


「はい」


「黒糖プリンが残り何個か」


「はい」


「私が忙しい時、コーヒーを飲み忘れることも」


亮介が少し笑う。


「知ってます」


「私が機嫌の悪い時も、最近は分かるのでしょう?」


「かなり」


玲奈が見る。


「かなり?」


「……少しです」


玲奈はまた笑う。


「そういうことです」


亮介はしばらく黙った。


「それって」


「はい?」


「俺のほうが、玲奈さんの日常には近いってことですか?」


玲奈は一拍置いた。


亮介の顔に期待が浮かぶ。


「そこまで言うと」


「はい」


「亮介さんが調子に乗ります」


「いいところで止めた!」


玲奈は笑いながら続ける。


「ただ、張り合う必要はありません」


亮介は少し照れたように視線を落とす。


「……はい」


「それに」


「まだあるんですか?」


玲奈は少しだけ躊躇した。


「婚活パーティーで初めてお会いした頃より」


「はい」


「今の亮介さんのほうが、話していて楽です」


亮介が完全に止まった。


「玲奈さん」


「何ですか?」


「今、かなりすごいこと言いましたよ」


「そうでしょうか」


「知的な営業部長時代の俺より、今の俺がいいってことでしょう」


「『いい』とまでは言っていません」


「また微妙なところで止める!」


「ただ」


玲奈は少し笑う。


「今のほうが、嘘が少ないでしょう?」


亮介は一瞬黙る。


そして笑った。


「それは間違いないです」


閉店後。


亮介はロマンスシートを、いつもより念入りに拭いていた。


玲奈が厨房から二杯のコーヒーを持ってくる。


亮介が見る。


「今日はそこですか?」


「疲れましたので」


「警部さんの残留成分を消すため?」


「何です、その残留成分は」


「俺の精神衛生上の概念です」


「意味が分かりません」


「でも座るんですよね?」


玲奈は先に腰を下ろす。


「二人掛けですから」


亮介も隣へ座った。


夕方の海。


橙色の光が、静かな水面の上に長く伸びている。


亮介はコーヒーを一口飲む。


「やっぱり」


「何がですか?」


「この席、俺たちが一番似合いますよ」


「そこまでは言っていません」


「でも、今日も座ってくれた」


「疲れたので」


「また家具のせいにするんですね」


玲奈が少し笑う。


「便利ですから」


亮介も笑う。


しばらく、二人で海を見る。


大城が座っていた時とは違う。


何か特別な話をするわけでもない。


黙っていても気まずくない。


亮介がぽつりと言った。


「警部さん、知的ですよね」


「そうですね」


「俺も、少し勉強しようかな」


「よいと思います」


「何から?」


玲奈は考える。


「新聞でしょうか」


「一面から?」


「はい」


「スポーツ面からじゃ駄目です?」


玲奈は真顔で答える。


「まず、社会面とスポーツ面を間違えないところからですね」


亮介が頭を抱えた。


「遠いなあ、知性」


玲奈が小さく笑う。


「急がなくてもよいでしょう」


「どうして?」


玲奈は海を眺めたまま答えた。


「今の亮介さんでも、私とは十分会話が成立していますから」


亮介が横を見る。


少し嬉しそうに。


「夫婦漫才として?」


玲奈は即答した。


「夫婦ではありません」


「最後はそこなんですね!」


夕暮れの「しおかぜ」に、二人の笑い声が響く。


知的な会話なら、大城警部のほうがずっと上手なのかもしれない。


警察官として共有した過去もある。


同じ言葉で語れる世界もある。


けれど。


朝一番にくだらない話をして。


黒糖プリンの残りを数えて。


椅子のぐらつきを直して。


玲奈がコーヒーを飲み忘れれば気づいて。


閉店後には、何となく同じ席へ座る。


そんな日常を積み重ねているのは、今は亮介だった。


恋に順位表はない。


県警のエース候補と、元詐欺師。


どちらが優勢なのか、そんなことは誰にも分からない。


ただ一つ確かなのは――


大城警部が帰ったあとも。


ロマンスシートの片側には玲奈が座り、


そのすぐ隣には、


今日も相変わらず余計なことばかり言うウェイターが座っている。


そして玲奈は、


婚活パーティーで出会った、知的な営業部長を装っていた男よりも。


今、目の前でくだらないことを言って笑わせてくる亮介のほうを、


ほんの少しだけ、


気に入っているのだった。

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