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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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ソファを動かしただけなのに、二人の距離まで近くなった ――定休日の模様替えと、“ロマンスシート”をめぐる終わらない議論

定休日の「島カフェ しおかぜ」は、朝からいつもより騒がしかった。


客はいない。


入口のベルも鳴らない。


コーヒーミルも回っていない。


それなのに店内では、


「せーの!」


「亮介さん、右です!」


「右って俺から見て右ですか!」


「普通はそうです!」


「こういう時だけ説明が雑!」


そんな声が、何度も響いていた。


原因は、店内の模様替えだった。


午後になると西日が強く入りすぎる席がある。


逆に、せっかく海がきれいに見えるのに、テーブルの向きが少し悪く、視界が惜しい席もある。


玲奈は以前から気になっていたらしい。


定休日の朝。


メジャーとメモ帳を手にした玲奈が、


「今日は、店内の配置を少し変えたいと思います」


と言った瞬間。


亮介の顔が、あからさまに輝いた。


「待ってました」


玲奈が顔を上げる。


「何をですか?」


「こういう仕事です」


亮介は両腕の袖をまくった。


「元ラガーマンの筋力が、ようやく正当に評価される日が来ました」


「先日の台風でも同じことをおっしゃっていましたね」


「今回は本当に家具ですから」


「台風の時も家具を動かしました」


「今回は風がありません」


「亮介さん自身が風のように暴れなければ大丈夫です」


「始まる前から信用が低い!」


玲奈はメモ帳を見ながら、配置変更の説明を始める。


窓際の四人掛けテーブルを少し奥へ。


中央の丸テーブルを入口側へ。


壁際の大きなソファを、海が見えやすい角度へ。


そして最後に、店の奥へ置いてある小さな二人掛けソファを窓際へ。


「なるほど」


亮介は腕を組んだ。


「大工事ですね」


「家具を数点動かすだけです」


「こういうのは勢いですよ」


「寸法です」


「力です」


「寸法です」


「筋肉です」


「寸法です」


亮介が黙る。


「玲奈さん、今の会話だけで俺の存在意義がかなり削られましたよ」


「重いものを持っていただければ十分です」


「結局そこだけ!」


それでも亮介は、待ってましたとばかりに動き始めた。


まず四人掛けテーブル。


玲奈が、


「椅子を先にどけましょう」


と言う前に、


「大丈夫です!」


と丸ごと持ち上げる。


「亮介さん」


「軽い軽い」


「椅子が足に引っかかっています」


「これは演出です」


「危ないだけです」


「元ラガーマンはこれくらい――」


ガタン。


「痛っ!」


「だから申し上げました」


「椅子側の連携が悪かったです」


「家具へ責任を転嫁しないでください」


次は壁際の大きなソファ。


幅もある。


重さもある。


しかも移動先へ向かう途中に、カウンターの角がある。


玲奈はメジャーを当てて確認する。


「そのままでは通りませんね」


「いけます」


「七センチ足りません」


「七センチくらい気合いで」


「家具は気合いで縮みません」


「人間は縮こまりますけど」


「今は家具の話です」


亮介はソファの横へ回り込む。


「じゃあ少し押します」


「通りません」


「少し斜めに」


「そこではなく――」


亮介が力を入れる。


ソファが数センチ動く。


「ほら!」


さらに押す。


カウンターの角へ見事につかえた。


「……あれ」


玲奈が腕を組む。


「七センチ足りないと申し上げました」


「ソファ側がもう少し協力的なら」


「協力する家具はありません」


「では立てます」


「何を?」


「ソファを」


玲奈が止めるより早く、亮介は片側を持ち上げる。


大きなソファが徐々に縦になる。


背もたれが天井の照明へ近づく。


「亮介さん」


「はい」


「止めてください」


「あと少し」


「照明に当たります」


「三センチくらい」


「止めてください」


「二センチ」


「亮介さん」


玲奈の声が少し低くなった。


亮介は即座に戻した。


「はい」


「素直ですね」


「元警部補の声が出ました」


「普通の声です」


「俺には違いが分かります」


結局。


玲奈の言った通り、一度ソファを斜めに振り、右側を先へ通すと。


するり。


驚くほど簡単に抜けた。


亮介はソファを持ったまま、しばらく無言になる。


「玲奈さん」


「はい」


「力、ほとんどいらなかったですね」


「最初から申し上げています」


「俺のラグビー人生が否定された気分です」


「ラグビーでは家具を運ばないでしょう」


「たまに運ぶかもしれません」


「いつですか?」


「部室の模様替えとか」


「競技とは関係ありません」


「細かい!」


そんな調子で、模様替えは進んでいった。


亮介が動かす。


玲奈が測る。


亮介が、


「ここでいいでしょう」


と言う。


玲奈がメジャーを当てる。


「十二センチずれています」


「十二センチなんて誤差です」


「店内配置では誤差ではありません」


「元詐欺師より元警部補のほうが数字に厳しい!」


「当然です」


「俺だって数字には強かったんですよ」


玲奈がちらりと見る。


「悪い方向でですね」


「そこを掘り返さないでください!」


昼を過ぎる頃。


店の雰囲気はかなり変わっていた。


通路は広くなり。


窓からの海もよく見える。


テーブル同士の間隔も自然になった。


最後に残ったのは、店の奥にあった小さな二人掛けソファ。


丸みのある背もたれ。


少し低めの座面。


二人で並べば、自然と近くなる程度の幅。


玲奈は窓際を指した。


「これを、ここへ」


亮介は軽々と持ち上げる。


「これは余裕ですね」


「二人掛けですから」


「ようやく俺の筋肉が素直に評価される家具が来た」


「では、もう少し右へ」


「ここ?」


「あと十五センチ」


「ここ?」


「あと五センチ」


「ここ?」


「あと二センチ」


亮介が止まる。


「二センチまで測るんですか」


「測ります」


「玲奈さん、生活でも細かそうですね」


「何の生活ですか?」


「一般的な生活です」


「ずいぶん曖昧ですね」


「今のは危険な話題になりそうだったので」


「自覚はあるのですね」


ようやく位置が決まる。


窓の向こうには、南ぬ島の青い海。


真正面に水平線。


午後の光が水面に反射し、ゆっくりと揺れている。


亮介は両手を腰へ当て、満足そうに眺めた。


「いいですねえ」


「はい」


「この席、名前をつけましょう」


玲奈が振り向く。


「名前?」


「普通の二名席じゃもったいないですよ」


「普通の二名席です」


「海が見える」


「はい」


「二人掛け」


「はい」


「ちょっと小さい」


「はい」


亮介が人差し指を立てる。


「ロマンスシートです」


玲奈は三秒ほど黙った。


「却下します」


「早い!」


「普通の二名席です」


「夢がない!」


「カフェの座席に、夢を義務づける必要はありません」


「じゃあカップルシート」


「普通の二名席です」


「恋人席」


「普通の二名席です」


「夫婦席」


「普通の二名席です」


亮介は肩を落とした。


「全部同じ返事じゃないですか」


「用途が同じですから」


「せめてロマンスくらい許してくださいよ」


「お客様それぞれに事情があります」


「友達同士でも?」


「はい」


「親子でも?」


「はい」


「男二人でも?」


「はい」


「じゃあ全方位ロマンスシート」


「意味が分からなくなりました」


亮介はそのままソファへ腰を下ろした。


少し沈む。


「おお」


背もたれへ寄りかかる。


窓の向こうの海を見る。


「かなりいいですよ」


玲奈はメジャーを畳みながら答える。


「そうですか」


「玲奈さんも座ってみてください」


「なぜ?」


「二人掛けですよ」


「一人でも座り心地は確認できます」


「いやいや。二人で座った時の距離感が重要でしょう」


玲奈がじっと亮介を見る。


「何の距離感でしょう」


「座席としてです」


「今、一瞬だけ別のものが混じりましたね」


「気のせいです」


それでも、仕事として確認する必要はある。


玲奈は亮介の隣へ腰を下ろした。


小さい。


想像以上に小さい。


大柄な亮介と並ぶと、二人の間にはクッション一つ分もない。


妙に二人とも姿勢がよくなる。


しばらく無言。


亮介が海を見る。


「……いいですね」


「そうですね」


「目の前が海」


「はい」


「二人掛け」


「それは先ほどから分かっています」


「やっぱりロマンスシート――」


「違います」


「最後まで言わせてください!」


亮介が少しだけ玲奈側へ寄る。


玲奈は同じだけ反対へ動く。


亮介が横を見る。


「玲奈さん」


「はい」


「今、逃げましたよね」


「座りやすい位置へ動いただけです」


「俺が二センチ近づいたら、正確に二センチ離れました」


「偶然です」


「元警部補の間合い管理が怖い!」


「人との距離は大切です」


「この席では近くなるのが仕様でしょう」


「では亮介さんが反対へ動けばよいのでは?」


「俺が逃げるんですか!」


「言い方です」


亮介がさらに少しだけ寄る。


玲奈もまた少し動く。


だが、小さなソファである。


玲奈はすぐ端まで行った。


「これ以上は動けません」


亮介が嬉しそうに言う。


「ようやく距離が縮まりましたね」


「物理的に追い詰められただけです」


「結果は同じです」


「まったく違います」


「恋愛も結果が――」


玲奈が見る。


亮介はすぐ言い直した。


「家具配置も結果が大事です」


「今、完全に別の単語が出ましたね」


「気のせいです」


「聞こえました」


「元警部補の聴取力をこういう時に使わないでください」


そんな夫婦漫才のようなやり取りをしながら、結局二人はソファの座り心地を確認した。


「悪くないですね」


玲奈が言う。


亮介は満足げに頷く。


「でしょう?」


「ただ、二人で座ると少し近いです」


「そこが売りです」


「誰が決めたのですか?」


「俺です」


「却下します」


「商品企画会議、俺一人しかいないのに否決された!」


模様替えがすべて終わった頃には、夕方になっていた。


さすがの亮介も疲れている。


朝からテーブルを持ち。


ソファを押し。


鉢植えを動かし。


最後には、


「元ラガーマンの体力を使い切りました」


とカウンターへ肘をついた。


玲奈は淡々と答える。


「有り余っていたのでは?」


「有り余っていたものが、ちょうどなくなりました」


「よかったですね」


「良くないですよ」


「夜はよく眠れると思います」


「健康相談みたいになってる!」


玲奈も一日中動いていたので、さすがに少し疲れていた。


「コーヒーを淹れましょうか」


「お願いします」


玲奈は厨房へ入り、二杯のコーヒーを用意した。


一つを亮介へ渡す。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


亮介はいつものカウンター席へ向かおうとした。


ところが玲奈は、そのまま窓際へ歩く。


昼間に移した、小さな二人掛けソファ。


そこへ腰を下ろした。


亮介が足を止める。


「そこなんですか?」


「座り心地の最終確認です」


「真面目ですね」


「疲れたので座りたいだけです」


「急に本音が出た!」


亮介も隣へ座る。


今度は昼間ほどお互いに距離を気にしない。


二人の間には、小さな隙間。


肩は触れない。


でも、かなり近い。


夕方の海は、昼とはまるで違って見えた。


青かった水面が、少しずつ金色へ変わる。


西の空には薄い橙色。


遠くの雲の縁が、ゆっくりと赤く染まっていく。


白いカーテンが、潮風に揺れる。


二人は並んでコーヒーを飲んだ。


「……いいですね」


亮介が言う。


「はい」


玲奈も海を見たまま答える。


「この時間にここへ座ると、本当にいい」


「そうですね」


「夕日」


「はい」


「海」


「はい」


「男女二人」


「はい」


亮介はゆっくり玲奈を見る。


「ロマンスです」


玲奈は一口コーヒーを飲む。


「最後だけ論理が飛んでいます」


「いや、完璧につながったでしょう!」


「夕日と海と男女二人が揃えば、必ずロマンスになるのですか?」


「昼ドラならなります」


「ここはカフェです」


「昼ドラだってカフェくらい出ますよ」


「今日は定休日です」


「そこを現実に戻さないでください!」


玲奈が少し笑う。


亮介は海へ視線を戻した。


「でも、本当にここ人気出ますよ」


「そうなるとよいですね」


「夕方なんて特に」


「はい」


「カップルが座って」


「はい」


「二人で夕日見て」


「はい」


「告白とかするんでしょうね」


玲奈が少し考える。


「する方もいらっしゃるかもしれませんね」


「ほら。やっぱりロマンスシートでしょう」


「告白しない方もいます」


「何でそこまで否定したいんです?」


「亮介さんが押しつけるからです」


「俺は店の魅力を高めようとしてるんですよ」


「『ロマンスシート』という札を置くと、座りづらい方もいると思います」


亮介が想像する。


「……確かに男二人で来て『ロマンスシートどうぞ』って言われたら、少し戸惑いますね」


「でしょう」


「じゃあ非公式名称で」


「必要ありません」


「俺だけ呼びます」


「お客様の前ではやめてください」


「玲奈さんと二人の時だけ?」


玲奈が亮介を見る。


「なぜ、そこで限定するのですか?」


「特別感が出るので」


「不要です」


「また切った!」


少し間が空く。


波の音。


遠くで海鳥が鳴く。


夕日は少しずつ低くなっていく。


亮介はソファの背へもたれた。


「でも不思議ですね」


「何がです?」


「朝から家具を動かしてただけなのに」


「はい」


「こうして座ると、ちょっと旅行に来たみたいですよ」


玲奈も海を見る。


「毎日見ている海ですよ」


「毎日見てても、座る場所が変わると違いますね」


玲奈は少し頷く。


「そうかもしれません」


「人もそうですかね」


玲奈が横を見る。


「何がでしょう」


「立つ場所が変わると、見え方が変わるとか」


少しだけ真面目な言葉だった。


だが亮介はすぐに笑う。


「俺なんか昔は玲奈さんに逮捕される側でしたけど、今は隣でコーヒー飲んでます」


玲奈が答える。


「かなり変わりましたね」


「しかもロマンスシートで」


「そこを付け足さなければ、よい話でした」


「俺の長所は余計な一言です」


「長所ではありません」


「玲奈さんが毎日拾ってくれるので成立してるんです」


「私は処理しているだけです」


「それ、夫婦漫才でいうツッコミですよ」


「夫婦ではありません」


「そこだけ今日何回目!」


玲奈が笑う。


亮介も笑う。


そして二人はまた海を見る。


今度は少し長い沈黙。


気まずくはない。


むしろ、ちょうどいい。


亮介がぽつりと言う。


「この席、いいですね」


「先ほどから何度もおっしゃっています」


「今度は席そのものじゃなくて」


玲奈が待つ。


「こういう時間が、いいですね」


玲奈は少しだけ視線を下げた。


コーヒーカップの中で、夕日の色が小さく揺れている。


「そうですね」


短い返事だった。


けれど、亮介は嬉しそうに笑った。


「じゃあ定休日の夕方は、ここ予約で」


「誰が予約するのです?」


「俺です」


「従業員が店内の席を予約しないでください」


「じゃあ玲奈さん名義で」


「なぜ私が?」


「二人席ですから」


「一人でも座れます」


「一人でここ座るの、ちょっと寂しくないです?」


「私は平気です」


「俺が寂しいです」


「でしたら亮介さんも座ればよいでしょう」


亮介が止まる。


「……今、自然に二人で座る前提になりましたね」


玲奈も一瞬止まる。


「二人掛けですから」


「そこに逃げる!」


「家具の仕様です」


「今日は家具が全部玲奈さんの逃げ道になってる!」


玲奈は笑いながらコーヒーを飲む。


亮介も、もう追及しない。


しばらくして、夕日が水平線へ近づいた。


亮介が言う。


「正式名称、最後にもう一回だけ交渉していいです?」


「どうぞ」


「ロマンスシート」


「却下です」


「カップルシート」


「却下です」


「夕暮れの恋人席」


「却下です」


「海辺の愛の特等席」


「もっと却下です」


「夫婦席」


「夫婦ではありません」


「席の名前ですよ!」


「利用対象が限定されます」


「じゃあ、玲奈さんが名前つけてください」


玲奈は少し考える。


「窓際二名席」


亮介が頭を抱える。


「役所の図面みたい!」


「分かりやすいです」


「夢がない」


「座る方が勝手に意味をつければよいと思います」


亮介が玲奈を見る。


「じゃあ、今ここに座っている二人は?」


玲奈は海を見たまま、少しだけ間を置いた。


「今日は」


「はい」


「私と亮介さんの席でよいのでは?」


亮介が完全に止まった。


コーヒーカップを持ったまま。


口も少し開いたまま。


玲奈は何事もなかったように海を見る。


「亮介さん」


「……はい」


「冷めますよ」


「玲奈さん」


「何ですか?」


「今の、もう一回言ってください」


「聞こえたでしょう」


「心の録音が間に合わなかったので」


「必要ありません」


「こういうところが昼ドラならCMなんですよ!」


玲奈が吹き出す。


「大げさですね」


「俺にとっては今日一番の事件です」


「家具を動かしただけです」


「家具以上のものが動きました」


「何が?」


亮介は自分の胸を指す。


「この辺が」


玲奈は真顔で答えた。


「筋肉痛ですね」


「元ラガーマンの胸を筋肉痛だけで片づけないでください!」


「一日中、家具を動かしましたから」


「理屈では正しいけど違う!」


玲奈は楽しそうに笑った。


亮介も、もう笑うしかない。


夕方の「しおかぜ」。


小さな二人掛けソファ。


並んで座る二人。


話している内容だけを聞けば、完全に夫婦漫才だった。


本人たちは、もちろん夫婦ではないと言い張る。


けれど、誰もいない店で夕日を眺めながら、同じタイミングでコーヒーへ口をつける姿だけなら、事情を知らない人が見れば少し違って見えたかもしれない。


片づけを終え、店を閉める頃。


玲奈は新しい座席表へ正式名称を書いた。


窓際 二名席


亮介は横で不満そうに見る。


「本当にそれでいくんですか?」


「はい」


「せめて括弧でロマンスシート」


「入れません」


「小さく」


「入れません」


「鉛筆で」


「消します」


「俺の夢を先回りして消さないでください」


玲奈が厨房へ行った隙。


亮介は座席表の裏側へ、小さな字で書き込んだ。


ロマンスシート(非公式)


数分後。


戻ってきた玲奈が発見する。


「亮介さん」


「はい」


「これは?」


「裏側です」


「場所を聞いているのではありません」


「非公式名称です」


玲奈はペンを取った。


二重線。


ロマンスシート(非公式)


全部消えた。


亮介が叫ぶ。


「非公式まで取り締まるんですか!」


「店の座席表ですから」


「元警部補の行政執行が厳しい!」


「行政ではありません」


「俺のロマンスが二重線で消された!」


玲奈はペンを置く。


「ロマンスがあるなら、名前を書かなくてもよいでしょう」


亮介が止まった。


玲奈も、自分で言ってから少しだけ間を置く。


「……席の話です」


亮介の顔がゆっくり笑顔になる。


「俺、何も言ってませんよ」


「片づけますよ」


「玲奈さん、今ちょっと照れました?」


「片づけます」


「二回言った!」


翌朝。


営業前。


亮介が店へ入る。


窓際の小さな二人掛けソファは、昨日決めた位置にきちんと収まっていた。


そして。


そこに置かれた二つのクッションが、昨日よりほんの少しだけ近づけて並べられている。


亮介は足を止めた。


カウンターでは玲奈がコーヒー豆を量っている。


「玲奈さん」


「はい」


「このクッション」


「何ですか?」


「昨日より近くないです?」


玲奈は振り向きもしない。


「見栄えを整えました」


「本当に?」


「はい」


「ロマンスシートだから?」


玲奈が豆を量る手を止める。


「窓際二名席です」


「そこは絶対譲らない!」


亮介は笑いながら、二つのクッションを見る。


昨日、動かしたのは家具だけだった。


テーブル。


椅子。


ソファ。


鉢植え。


それだけのはずだった。


けれど、ほんの少し近づいた二つのクッションを見ていると。


どうやら別のものまで、数センチほど動いてしまったらしい。


名前をつければ、玲奈に二重線で消される。


だから亮介は、それ以上言わなかった。


言えば、クッションまでまた離されそうだったからだ。


正式名称は、ただの窓際二名席。


けれど。


定休日の夕暮れ。


海が金色に染まる時間だけは。


そこは確かに、


玲奈と亮介だけの、


誰にも看板を出さない小さなロマンスシートになっていた。

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