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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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目隠しをしたウェイターは、店主の味だけ間違えなかった ――利きコーヒー五番勝負と、元敏腕詐欺師を騙した元敏腕警部補

定休日の「島カフェ しおかぜ」は、営業日より少しだけ時間の流れが遅い。


入口のベルは鳴らない。


客の話し声もない。


白いカーテンだけが潮風にふわりと膨らみ、その向こうで南ぬ島の海が静かに光っている。


そんな店内で、玲奈は朝からカウンターに小さなカップをいくつも並べていた。


深煎り。


浅煎り。


酸味の強い豆。


苦味のしっかりした豆。


そして、新しく仕入れを検討している二種類のブレンド。


一つずつ香りを確かめ、ノートへ短く感想を書き込んでいく。


そこへ亮介が顔を出した。


「玲奈さん、今日は随分本格的ですね」


「新しい豆のサンプルをいただきました」


「味見ですか?」


「はい。今使っているブレンドと比較して、今後の仕入れを考えようと思っています」


亮介は、すぐに胸を張った。


「じゃあ俺も手伝います」


玲奈が顔を上げる。


「亮介さんが?」


「何です、その反応」


「毎日コーヒーへ砂糖を二杯入れていらっしゃいますよね」


「砂糖を入れてもコーヒーはコーヒーです」


「豆の特徴が分かりますか?」


「分かりますよ」


亮介は自信満々だった。


「毎日、玲奈さんの淹れたコーヒーをお客さんに運んでるんですよ。香りなんて完全に覚えてます」


「運んでいるだけですが」


「賄いでも飲んでます」


「砂糖二杯で」


「そこを何度も確認しないでください」


玲奈は少し考えた。


それから、普段ならあまり見せない、ほんの少し悪戯っぽい表情を浮かべる。


「それほど自信がおありでしたら、試してみますか?」


「何を?」


「利きコーヒーです」


亮介の顔が輝く。


「いいですね」


「目隠しで」


「もちろん」


「砂糖なしで」


亮介が止まった。


「……なし?」


「利きコーヒーですから」


「いきなり俺のホームを奪いましたね」


「砂糖はホームではありません」


「難易度調整ですよ」


「ありません」


亮介は少し考えたあと、強がるように言った。


「まあいいでしょう。元敏腕詐欺師を甘く見ないでください」


「では」


玲奈はにっこりする。


「元敏腕警部補として、少し工夫します」


亮介は眉をひそめた。


「今、勝負の種類が変わった気がするんですけど」


「気のせいです」


その時点で、もう玲奈はかなり楽しんでいた。


亮介はカウンター席へ座り、清潔なタオルで目隠しをする。


「見えていませんね?」


「見えてません」


玲奈は亮介の目の前で指を二本立てた。


「何本ですか?」


亮介は一瞬考える。


「三本」


「見えていませんね」


「わざと間違えた可能性は?」


玲奈は今度は何も出さない。


「では、これは?」


亮介は堂々と答えた。


「五本」


玲奈が思わず吹き出した。


「何で笑うんです?」


「いえ」


「今日、玲奈さんちょっと楽しんでません?」


「始めましょう」


「否定しないんですね」


第一問。


玲奈が小さなカップを亮介の前へ置く。


「どうぞ」


亮介は慎重に香りを嗅いだ。


一口。


しばらく黙る。


「なるほど」


玲奈は笑いをこらえながら尋ねる。


「分かりますか?」


「これは南米系ですね」


「ほう」


「苦味がしっかりしている。酸味は控えめ。たぶんコロンビア」


「最終回答ですか?」


「はい」


玲奈は静かに告げた。


「インスタントコーヒーです」


亮介の動きが止まる。


「……え?」


「亮介さんが先日、非常用に買ってきたものです」


「最初からそんなもの入れます?」


「比較対象として」


「もっと普通に始めましょうよ!」


「元敏腕詐欺師には簡単すぎると思いまして」


「絶対楽しんでるでしょう!」


玲奈は何事もなかったように次のカップを準備する。


第二問。


亮介はさっきより慎重になった。


香りを嗅ぐ。


口へ含む。


「これは分かります」


「どうぞ」


「香ばしい」


「はい」


「苦味はあるけど、後味が軽い」


玲奈は黙っている。


亮介は勝ち誇ったように言った。


「これは、しおかぜのいつものブレンドです」


玲奈が答える。


「麦茶です」


亮介が完全に止まった。


「ちょっと待ってください」


「はい」


「コーヒーですらない!」


「香ばしかったでしょう?」


「そこじゃない!」


亮介は目隠しを外そうとする。


玲奈がすぐ止めた。


「まだ二問目です」


「これ詐欺ですよ」


「利きコーヒーとは申し上げましたが、全部コーヒーとは申し上げていません」


「元警部補が言葉の隙を使うな!」


「元詐欺師の方には分かりやすいかと思いまして」


「完全に遊ばれてる!」


玲奈は肩を震わせて笑っている。


亮介は目隠しの向こうで気配を感じ取った。


「今、笑ってますね」


「笑っていません」


「声が少し上ずってますよ」


「第三問です」


「逃げた!」


第三問。


今度は本物の浅煎りコーヒー。


亮介は一口飲み、少し時間を置く。


「酸味が強い」


「はい」


「浅煎り」


玲奈が答える。


「正解です」


亮介は一気に元気になる。


「ほら!」


「一問正解ですね」


「三問中一問」


「三割三分三厘です」


「野球なら使えるでしょう」


「利きコーヒーでは微妙です」


「数字にすると急に厳しい!」


第四問。


亮介はかなり警戒していた。


「これは本当にコーヒーですよね?」


「どうでしょう」


「その言い方が一番怖い!」


一口飲む。


「薄い」


「はい」


「かなり薄いですね」


「そうですね」


亮介は考え込む。


「これは……玲奈さんが失敗したコーヒーです」


玲奈は即答した。


「違います」


「じゃあ何です?」


「昨日、亮介さんが冷めたコーヒーへお湯を足して飲んでいたものを再現しました」


亮介が目隠しの下で天井を仰ぐ。


「昨日の俺を今日の俺にぶつけないでください!」


「『これでも十分うまい』とおっしゃっていました」


「過去の発言を証拠として提出しないでください!」


ここで玲奈は、とうとう声を出して笑った。


いつもの落ち着いた微笑みではない。


少し子供っぽく、楽しそうな笑い方だった。


亮介はそれを聞いて、逆に少し嬉しくなる。


「玲奈さん」


「はい?」


「今日、かなり楽しんでますよね」


玲奈は素直に認めた。


「少し」


「絶対少しじゃない」


「元敏腕詐欺師を騙す機会は、あまりありませんから」


「そこに喜びを見いださないでください」


「インスタントをコロンビアと言った時は、危なかったです」


「何が?」


「笑いそうになりました」


「もう笑ってくださいよ!」


「麦茶の時は我慢できませんでした」


「追い打ちまで!」


定休日の静かな店に、二人の笑い声が響く。


完全に利きコーヒーではなく、元警部補と元詐欺師の心理戦になっていた。


そして最終問題。


玲奈は少しだけ真面目な顔になる。


「では、最後です」


亮介も姿勢を正した。


「今度こそ本気のやつをお願いします」


「本気です」


「本当に?」


「はい」


「玲奈さんがそう言うと余計に怪しいんですよ」


「信用してください」


「元詐欺師にそれ言います?」


玲奈は小さな白いカップを置く。


亮介は香りを嗅いだ。


一口。


少し黙る。


もう一口。


玲奈は何も言わず待つ。


やがて亮介が言った。


「これ、玲奈さんのですよね」


玲奈の目が少しだけ細くなる。


「理由は?」


「いつものブレンド」


「それだけですか?」


亮介は目隠しをしたまま、ゆっくり言う。


「苦味はちゃんとあるけど、重く残らない」


「はい」


「最後に少し酸味がある」


「はい」


「あと、香りが少し甘い」


玲奈は黙っている。


亮介はさらに続ける。


「それと温度」


玲奈が少し驚く。


「温度?」


「玲奈さん、俺がすぐ飲まないの知ってるでしょう」


「はい」


「だから賄いで出す時、お客さんに出すより少しだけ温度低めですよね」


玲奈は、ほんの少し目を見開いた。


「よく分かりましたね」


「毎日飲んでますから」


その一言のあと、少しだけ沈黙が落ちた。


亮介自身が、二秒遅れてその響きに気づく。


「……コーヒーの話ですよ」


玲奈は平静を装う。


「何も言っていません」


「その沈黙が怖いんです」


「続けてください」


「毎日玲奈さんのコーヒーを運んで、香りを嗅いで、たまに飲んでるんです」


「はい」


「だから、これだけは間違えません」


玲奈はゆっくり、亮介の目隠しを外した。


明るい店内。


窓の向こうの海。


目の前には、いつもの「しおかぜ」のブレンド。


玲奈が言う。


「正解です」


亮介は少し得意げに笑う。


「やっぱり」


「五問中二問ですね」


「今その数字いる?」


「四割です」


「最後の感動を一瞬で点数にしないでください!」


玲奈は採点表へ書き込む。


第一問 インスタント――不正解


第二問 麦茶――不正解


第三問 浅煎り――正解


第四問 亮介式・薄めコーヒー――不正解


第五問 玲奈のブレンド――正解


最後に一行。


総評――コーヒー全般には弱いが、店主の味には強い。


亮介が横から覗く。


「書き方が危険ですよ」


「何がですか?」


「店主の味に強いって」


玲奈は紙を見る。


「では直しましょうか?」


「いや、そのままで」


「気に入ったのですか?」


「記念です」


「何の?」


「元敏腕警部補に四回騙されて、一回だけ玲奈さんを当てた記念」


「二問正解です」


「浅煎りは今どうでもいいんです」


「正解を一つ捨てましたね」


「男には優先順位があるんです」


「よく分かりません」


だが、本来の目的はここからだった。


玲奈は新しいブレンドを二種類並べる。


「では、本題へ戻ります」


亮介が目を丸くする。


「まだ本題があったんですか」


「新しい豆を決めるための試飲です」


「俺を騙す日じゃなかったんですね」


「違います」


「途中から絶対そうなってましたよね」


玲奈は答えず、カップを差し出した。


「こちらを飲んでください」


「俺の意見、参考になります?」


「正答率四割ですが」


「まだ言う!」


玲奈は少し笑って続ける。


「でも、毎日この店にいる方の意見も大切です」


亮介の表情が少し変わる。


「毎日?」


「はい」


「俺が?」


「亮介さん以外に誰がいるのですか?」


「いや、そうですけど」


玲奈は当たり前のように言う。


「お客様に好まれる味だけでなく、毎日ここで飲んでも飽きない味も大切ですから」


亮介は、その言葉をしばらく噛みしめていた。


「じゃあ、真面目にやります」


「お願いします」


「砂糖は?」


「なしです」


「そこは絶対譲らない!」


二人は横並びで新しいコーヒーを飲む。


一杯目。


二杯目。


今度は冗談ではなく、亮介もきちんと味を比べる。


「こっちは朝にいいですね」


「なぜ?」


「重すぎないから」


「では午後は?」


「もう一つのほうが黒糖プリンに合いそうです」


玲奈が少し意外そうに見る。


「きちんと考えているのですね」


「今の、今日一番失礼です」


「褒めています」


「褒め方が元警部補すぎる!」


結局、二人の意見は同じブレンドで一致した。


玲奈はノートへ候補を書き込む。


「では、こちらを第一候補にしましょう」


亮介は嬉しそうに言う。


「俺も、しおかぜの味づくりに参加したわけですね」


「はい」


「共同経営者に一歩近づいた?」


「利きコーヒー四割です」


「その成績、いつまで有効なんですか!」


玲奈がまた笑った。


亮介は、その横顔を見て少しだけ目を細める。


「でも、今日は楽しそうですね」


「そうですか?」


「いつもの玲奈さんより、かなり意地悪でしたけど」


「たまにはよいでしょう」


「元詐欺師を騙すのが?」


「はい」


「認めた!」


「亮介さんが自信満々だったので」


「俺が悪いんですか?」


「少し」


「何か今日、扱いが雑じゃありません?」


「普段どおりです」


「それが一番怖い!」


二人でカップを片づける。


亮介が洗い、玲奈が拭く。


妙に息が合っている。


「玲奈さん」


「はい」


「次は俺が問題出していいです?」


「何の?」


「利き黒糖プリン」


玲奈が振り返る。


「私に?」


「いや、俺がやります」


「また亮介さんですか?」


「今度は絶対当てますよ」


「先ほども同じことをおっしゃっていました」


「黒糖プリンは違います」


「なぜ?」


亮介はさらりと言った。


「玲奈さんの、いつも食べてますから」


玲奈が手を止める。


「いつもではありません」


「かなり頻繁に」


「そこは認めます」


「玲奈さんの黒糖プリンなら、目隠しでも分かりますよ」


玲奈の口元に、またあの小さな悪戯っぽい笑みが浮かぶ。


亮介はすぐ気づく。


「その顔、やめてください」


「何がですか?」


「麦茶を出した時と同じ顔です」


「気のせいです」


「絶対また何か仕込むでしょう」


「では、次の定休日に」


「怖い!」


「自信があるのでしょう?」


「玲奈さんが相手だと、自信を持つのが怖くなってきた!」


玲奈は楽しそうに笑いながら、最後のカップを棚へ戻した。


亮介もぶつぶつ言いながら、その横で布巾をたたむ。


誰もいない定休日の「しおかぜ」。


事件もない。


謎もない。


ただ、元敏腕詐欺師が元敏腕警部補にきれいに騙され、それを二人で笑っているだけの午後だった。


それでも最後に、亮介は一つだけ間違えなかった。


毎日運んで。


毎日香りを嗅いで。


何度も飲んで。


いつの間にか、自分の日常の一部になっていた一杯。


目隠しをしていても、玲奈が淹れたものだけは分かった。


玲奈も、それが少し嬉しかった。


だから亮介が見ていない隙に、採点表のいちばん下へ小さく書き足す。


第五問――正解。これは少し嬉しかった。


すぐに紙を二つ折りにする。


亮介が振り返る。


「玲奈さん、今何か書きました?」


「何も」


「元詐欺師の勘です」


「今日の正答率は四割でしたね」


「その数字を出されると、急に自信なくなる!」


玲奈が笑う。


白いカーテンも、潮風にふわりと揺れる。


二人の距離は、劇的には変わらない。


恋人にもならない。


夫婦でもない。


少なくとも、本人たちはそう言い張っている。


けれど、目隠しをしていても分かるくらいには、


相手の癖も。


相手の声も。


相手が淹れるコーヒーの温度まで。


もう、互いの日常へしっかり染み込んでいた。


遅すぎた恋はまだ名前を持たない。


ただその午後だけは、


いつものコーヒーより少し甘く、


黒糖プリンより、少しだけほろ苦かった。

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