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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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三十年遅れの、お子さまランチを二人で ――旗の立ったオムライスと、玲奈が子供の頃に欲しかったもの

定休日の「島カフェ しおかぜ」は、営業日よりも海の音が近い。


入口のベルは鳴らない。


コーヒーミルも回っていない。


白いカーテンだけが潮風に膨らみ、その向こうで南ぬ島の海が、午後の日差しを細かく反射していた。


玲奈はカウンターの端に帳簿を広げ、静かに数字を確認している。


そんな穏やかな店内に、今日はどうにも似つかわしくない音が続いていた。


厨房からである。


じゅうううっ。


がちゃん。


「あっ」


数秒後。


「まだ大丈夫」


さらに数秒後。


「……たぶん」


玲奈はペンを止めた。


厨房のほうを見る。


しばらく待つ。


また何かが油の中へ落ちる音がした。


「亮介さん」


「はい!」


妙に元気な返事だけが返ってくる。


「何をなさっているのですか?」


「料理です」


「それは分かります」


玲奈は落ち着いて続けた。


「何を作っているのかを聞いています」


少し間が空く。


「秘密です」


「そうですか」


玲奈は再び帳簿へ視線を戻した。


厨房から不満そうな声がする。


「気にならないんですか?」


「気にはなっています」


「でしょう?」


「火災報知器が鳴らないか」


「料理そのものを心配してください!」


亮介が定休日にもかかわらず朝から店へ来たのは、「試してみたい料理があるから」という理由だった。


玲奈は最初、


「でしたら、ご自宅でなさればよいのでは?」


と答えた。


しかし亮介は、


「家には、この店ほど調理器具がありません」


と食い下がった。


「それに、玲奈さんにも食べてもらいたいので」


最後の一言だけが妙に素直だったため、玲奈は厨房を使うことを許した。


ただし条件は一つ。


火事を起こさないこと。


亮介の料理の腕は、まったくできないというほどではない。


独身生活も長く、炒飯や焼きそば、簡単な肉料理くらいなら作れる。


だが、「しおかぜ」で客から代金をもらえる料理となると、話は別だった。


味つけは勘。


分量も勘。


焼き加減も勘。


しかも本人は、


「男の料理っていうのは、ちょっと豪快なくらいがうまいんですよ」


と主張する。


玲奈は、


「豪快さは調味料ではありません」


と返している。


そういう腕前だった。


厨房から、また声が飛んできた。


「玲奈さん!」


「はい」


「オムライスの卵って、途中で破れた場合は修復できますか?」


玲奈が顔を上げる。


「程度によります」


「中身が見えています」


「少しですか?」


「かなり堂々と」


「それは、もう包み直すより形を整えたほうがよいと思います」


「なるほど」


五分後。


「玲奈さん!」


「はい」


「ハンバーグが片方だけ膨らんでるんですけど」


「中央を少しくぼませましたか?」


沈黙。


「……今からでは遅いですか?」


「かなり」


「料理って、罠が多いですね」


「基本です」


「玲奈さんが言うと全部簡単に聞こえる!」


今度は油のはねる音。


「熱っ!」


玲奈はさすがに立ち上がりかけた。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫です! エビフライが抵抗しただけです!」


「エビフライは抵抗しません」


「今日のは気性が荒いです」


「火を弱めてください」


そんなやり取りが一時間近く続いた。


玲奈は帳簿を三ページ進めた頃、厨房からようやく静かな足音が聞こえてきた。


亮介が両手で大きな白い皿を持って現れる。


妙に誇らしげな顔だった。


「お待たせしました」


「注文した覚えはありませんが」


「本日の特別メニューです」


亮介は玲奈の前へ皿を置いた。


玲奈は、その料理をじっと見た。


まず中央に、オムライス。


丸みを帯びた形にしようと努力したことは分かる。


ただし卵の中央には一筋の亀裂が入り、そこからケチャップライスが堂々と覗いている。


横にはハンバーグ。


右側だけ少し厚い。


さらにエビフライ一本。


ポテト。


トマト。


少量のサラダ。


そして皿の端には、見慣れた黒糖プリン。


最も目立っているのは、オムライスの頂上だった。


そこに一本の旗が立っている。


料理に対して少し大きい。


玲奈は数秒眺めたあと、尋ねた。


「これは?」


亮介は胸を張った。


「お子さまランチです」


玲奈はもう一度皿を見る。


「……これが?」


「大人向けです」


「大人向けだから崩れているわけではありませんよね?」


「最初から厳しい!」


玲奈の視線が旗へ移る。


紙を爪楊枝へ巻きつけた手作りのものだった。


そこには黒いペンで、


れな


と書いてある。


ただし「な」の字が少し潰れていて、「れぬ」にも見える。


「亮介さん」


「はい」


「これは『れな』でしょうか」


「当然です」


「『れぬ』にも見えます」


亮介が旗を覗き込む。


「……料理で手が疲れていたんですよ」


「自分の名前くらい、もう少し丁寧に書いていただきたかったです」


「でも世界に一本ですよ」


「それは間違いありません」


玲奈の口元が少し緩んだ。


亮介はすぐ気づく。


「今、笑いましたね」


「少しです」


「もう半分成功です」


「まだ一口も食べていません」


「残り半分は味です」


玲奈は皿をもう一度眺めた。


「ところで、どうして急にお子さまランチなのですか?」


亮介は向かい側の椅子へ腰を下ろした。


「この前、アルバムを見たでしょう」


「はい」


定休日に二人で古い写真を整理した日のことだった。


高校生だった頃のみう。


玲奈の戦隊ヒロイン仲間。


神戸の純喫茶「霧笛」の女主人。


大城警部。


観光客。


そして奈央が撮影した、亮介の面白写真の数々。


「昔の玲奈さんの写真を見てて思ったんですよ」


「何を?」


「玲奈さんって、子供の頃から大人っぽかったんだろうなって」


玲奈は少し考える。


「よく言われていました」


幼い頃から成績はよかった。


学校の授業で困ることも少なく、本を読むのが好きだった。


教師には、


「岡本さんはしっかりしていますね」


と言われることが多かった。


友人たちが騒いでいても、少し離れたところから笑って見ているような子供だった。


「子供扱いされることを、あまり好まなかったのだと思います」


「ませてたんですね」


「大人びていたと言ってください」


「言い換えます」


玲奈は少し懐かしそうに続ける。


外食へ行っても、お子さまランチを注文することはほとんどなかった。


周囲の子供がそれを頼んでいても、


「私は普通のものがいい」


と言っていた。


「何を食べてたんです?」


「ハンバーグやオムライスですね」


亮介が目を丸くする。


「それ、お子さまランチの中身を別々に頼んでるだけじゃないですか」


玲奈は一瞬黙った。


「そう言われれば、そうですね」


「やっぱり本当は興味あったんでしょう」


「全くなかったとは言いません」


亮介が身を乗り出す。


「ほら」


「大声を出すほどのことではありません」


玲奈は窓の外へ目を向けた。


子供の頃、レストランの入口に置いてあった食品模型。


小さなオムライス。


ハンバーグ。


エビフライ。


プリン。


そして、その真ん中に立っていた旗。


「旗は、少し羨ましかったですね」


亮介が聞き返す。


「旗?」


「はい」


「料理じゃなくて?」


「料理自体は似たものを食べていましたから」


玲奈は淡く笑う。


「でも、自分のお皿だけに旗が立っているのは、少し特別に見えました」


「欲しいって言わなかったんですか?」


「言いませんでした」


「何で?」


玲奈は少し考えた。


「背伸びをしていたのでしょうね」


子供用ではなく、大人と同じものを食べる。


欲しいものがあっても、我慢できる。


そういう自分でいることが、少し格好いいと思っていた。


「子供らしくないですね」


「今、悪口ですか?」


「褒めてます」


「かなり危うい褒め方です」


亮介は目の前の皿を玲奈側へ少し押した。


「じゃあ、三十年遅れですね」


「何がですか?」


「玲奈さんのお子さまランチ」


玲奈は旗を見る。


少し歪んだ「れな」の文字。


「随分遅れましたね」


「この店、遅いものには慣れてるでしょう」


玲奈が亮介を見る。


「何の話でしょう」


「いろいろです」


「曖昧ですね」


「はっきり言うと危険なので」


亮介は笑った。


それから少しだけ真面目な顔になる。


「玲奈さんって、いつも作る側じゃないですか」


玲奈は黙って続きを待つ。


「この店でもそうです。料理を作る。コーヒーを淹れる。お客さんの話を聞く」


警察官だった頃も。


戦隊ヒロインだった頃も。


人を助け、守り、支える側だった。


「だから今日は」


亮介は少し照れくさそうに言う。


「何もしなくても玲奈さんの前に出てくるものを作ろうかなと思ったんです」


玲奈が静かに亮介を見る。


「私のために?」


「はい」


亮介はすぐに付け足した。


「ただし、味については責任を負いかねます」


玲奈が小さく笑う。


「そこで急に逃げますね」


「保険です」


「元詐欺師らしいですね」


「そこは今、関係ないでしょう!」


玲奈はスプーンを取った。


まずはオムライス。


破れた卵の端を少しすくい、ケチャップライスと一緒に口へ運ぶ。


亮介が食い入るように見る。


「どうです?」


玲奈はゆっくり噛む。


「ケチャップが多いですね」


「はい」


「玉ねぎも、もう少し細かく切ったほうがよいです」


「はい」


「卵は火が入りすぎています」


「見た目で分かっていました」


「ケチャップライスは、焦げる寸前です」


亮介が顔を上げる。


「寸前なら成功では?」


「料理では、その評価はしません」


「厳しい!」


ハンバーグを切る。


少し硬い。


エビフライを食べる。


衣が少し厚い。


ポテトは塩が強い。


トマトだけは、そのままなので問題ない。


玲奈は淡々と感想を述べる。


亮介はだんだん肩を落としていく。


「店には出せませんよね」


「出せません」


即答だった。


「一秒も考えなかった!」


「代金をいただく料理としては難しいです」


「俺、料理の才能ないのかな」


「練習すれば上達します」


「それ、かなり優しい言い方ですね」


「事実です」


「厨房担当を目指せますか?」


「まだかなり遠いと思います」


「優しさがすぐ終わった!」


それでも玲奈は、料理を残さなかった。


オムライスを一口。


ハンバーグを一口。


エビフライ。


ポテト。


少しずつ、丁寧に食べていく。


亮介は途中から心配になった。


「玲奈さん」


「はい」


「無理して全部食べなくていいですよ」


「無理はしていません」


「でも、さっきから微妙って顔してます」


玲奈は少し考えた。


「味は、かなり改善の余地があります」


「やっぱり」


「お客様には出せません」


「二回言いましたね」


玲奈はスプーンを置く。


それから、亮介を見る。


「でも、嬉しいですよ」


亮介が黙る。


玲奈はもう一度、旗を見る。


「私のために作ってくださったのでしょう?」


「まあ……そうですけど」


「でしたら、それは味とは別です」


亮介は何も言わなかった。


玲奈は少し照れたように目を伏せる。


「誰かが私のためだけに、お子さまランチを作ってくれたことはありませんから」


亮介の表情が柔らかくなる。


「三十年遅れですけどね」


「はい」


「しかも出来は微妙」


「かなり」


「そこまで言います?」


玲奈が笑う。


「でも」


もう一度、静かに言った。


「嬉しいです」


その一言だけで、亮介には十分だった。


料理を褒められたわけではない。


むしろ味については、ほとんど褒められていない。


それでも自分が作ったものを、玲奈が少し嬉しそうに食べている。


それだけで、亮介は厨房で卵を破ったことも、油を跳ねさせたことも、ハンバーグを妙な形にしたことも、全部報われた気がした。


「じゃあ」


亮介は少し調子に乗る。


「今後、玲奈さん専用メニューとして――」


「もう作らなくて結構です」


「一回で廃止!」


「次は私が横で教えます」


亮介が止まる。


「次があるんですか?」


「料理の練習です」


「二人で?」


「はい」


亮介の顔が少し明るくなる。


「次の定休日?」


「まだ決めていません」


「予約しておきます」


「従業員が定休日を予約しないでください」


亮介も、自分用に同じお子さまランチを作っていた。


ただし玲奈の皿へ集中したため、自分のものはさらに崩れている。


玲奈が見る。


「亮介さんのほうが、かなり形が悪いですね」


「玲奈さんのを優先しました」


「ご自分のものも丁寧に作ってください」


「愛情の差です」


言った瞬間、亮介が止まる。


玲奈も一瞬だけ止まる。


「……料理への、ですよ」


「何も聞いていません」


「今、空気が変わった気がしました」


「気のせいです」


「玲奈さん、ちょっと顔――」


「黒糖プリンを食べましょう」


「話を強制終了された!」


黒糖プリンだけは、いつもの完成度だった。


当然である。


玲奈が仕込んでいたものだからだ。


亮介が一口食べる。


「急にプロの味がします」


「私が作りましたから」


「この皿、最後だけ別の店みたいですね」


「最初から同じ店です」


「俺の料理部分だけ素人部門ですね」


「そうですね」


「少しくらい否定してください!」


二人は笑った。


客のいない定休日。


南ぬ島の海が見える窓際。


テーブルの上には、店では決して出せない少し不格好なお子さまランチが二つ並んでいる。


料理としては、成功とは言い難い。


けれど玲奈は、何度も小さな旗へ目を向けた。


食事を終えたあと、亮介が皿を片づけようとする。


玲奈は旗だけを抜いた。


「それ、捨てていいですよ」


「いいえ」


「取っておくんですか?」


玲奈は少し迷ったあと、頷いた。


「せっかくですから」


「そんなに気に入りました?」


「『れぬ』に見えるので、記念に」


「そこですか!」


玲奈は旗を持ってカウンターの奥へ向かった。


そこには、少し前に二人で撮ったツーショット写真が、小さな木製の写真立てに入れて置いてある。


客席からはほとんど見えない。


二人だけが、そこにあると知っている場所。


玲奈は、その写真立ての横へ小さな旗を置いた。


「そこに置くんですね」


「はい」


亮介が眺める。


二人の写真。


そして、手書きの「れな」の旗。


店を訪れる客は、おそらく気づかない。


気づいても意味は分からない。


けれど二人には分かる。


「いいですね」


亮介が言う。


玲奈も少しだけ眺めた。


「そうですね」


「じゃあ、次はもっと大きい旗を」


「必要ありません」


「今度は『玲奈さん専用』って書きます」


「もっと小さくしてください」


「作ること自体は許可された!」


「言っていません」


「今の会話、だんだん夫婦みたい――」


玲奈が振り返る。


「何か?」


「いえ。何でもありません」


「そうですか」


亮介は危機を回避した顔で皿を持ち上げる。


「洗い物をしてきます」


「お願いします」


厨房へ向かう亮介の背中を見ながら、玲奈はもう一度、小さな旗へ目を向けた。


子供の頃。


本当は少しだけ欲しかったもの。


けれど、自分には必要ないと言ったもの。


三十年ほど遅れて、それは南ぬ島の小さなカフェへ届いた。


形の崩れたオムライスと。


少し硬いハンバーグと。


衣の厚いエビフライと一緒に。


料理だけを採点すれば、店には出せない。


けれど、玲奈にとっては不思議なほど嬉しい一皿だった。


なぜならそれは、


「店主の玲奈」でも、

「元警部補の玲奈」でも、

「元戦隊ヒロインの玲奈」でもなく、

ただの玲奈一人のために作られた料理だったから。


亮介が厨房から声を上げる。


「玲奈さん!」


「はい?」


「このフライパン、焦げが取れません!」


玲奈は目を閉じた。


「今行きます」


「お願いします!」


「次回は、調理前に火加減から教えます」


「次回確定ですね!」


玲奈は思わず笑った。


「調子に乗らないでください」


定休日の「しおかぜ」に、二人の声が響く。


遅れて届いたお子さまランチ。


誰にも見えない場所へ置かれた、小さな旗。


そして、まだ誰も名前をつけていない二人の関係。


三十年遅れでも、遅すぎるとは限らない。


欲しかったものは、


少しくらい不格好でも、


誰かが自分のために一生懸命作ってくれたなら、


思っていたよりずっと嬉しい。


それはたぶん、お子さまランチも、


黒糖プリンより手のかかる恋も、


同じなのだった。

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