アルバムの最後に、二人だけがいなかった ――セルフタイマー十秒と、「しおかぜ」に初めて残す二人の写真
「島カフェ しおかぜ」の定休日は、妙に音が少ない。
客の話し声もない。
コーヒーミルの音もない。
入口のベルが鳴ることもない。
聞こえるのは、開け放した窓から入ってくる潮風と、それに揺れる白いカーテンの音くらいだった。
その静かな店内で、玲奈と亮介は朝から大掃除をしていた。
「定休日なのに働いてるって、何か納得いかないんですよね」
亮介は脚立の上から言った。
「昨日、亮介さんご自身が『棚の上まで俺が全部やりますよ』とおっしゃいました」
玲奈はカウンターの下から古い箱を引き出す。
「元ラガーマンの高さと筋力を活用しようと思ったんです」
「高さは、脚立のおかげです」
「俺の身長を全否定しないでください」
「脚立なしでは届きません」
「事実で追い込まないでください!」
店の倉庫には、長い間しまわれたままの物が多かった。
開店した頃に使っていたメニュー表。
昔の仕入れ帳。
少し色あせた観光パンフレット。
常連客が置いていった土産物。
誰かから届いた絵はがき。
中には、何に使ったのか二人とも思い出せない小さな木箱まである。
亮介がその箱を持ち上げた。
「これ、何ですか?」
玲奈が見る。
「覚えていません」
「玲奈さんにも、覚えていないものがあるんですね」
「ありますよ」
「元警部補なので、全部記憶しているのかと」
「人間ですから」
「たまに安心します」
「どういう意味でしょう」
さらに奥から、玲奈が一冊の大きなアルバムを見つけた。
表紙は少し日焼けし、角が柔らかく擦れている。
「あら」
玲奈の声が少しだけ弾んだ。
亮介が脚立から降りてくる。
「何です?」
「懐かしい写真です」
二人は掃除の手を止め、カウンターへ並んだ。
最初のページを開く。
そこには、今より少し新しい「しおかぜ」が写っていた。
店先の看板も色鮮やかで、テラスの椅子も現在とは違う。
その前に立つ玲奈も、今より少しだけ表情が硬い。
亮介が顔を近づける。
「玲奈さん、若いですね」
「それほど昔ではありません」
「いや、今も若いですよ。今も十分――」
玲奈が横目で見る。
亮介は一瞬で軌道修正した。
「この頃は髪型が違いますね」
「賢明な判断です」
「危なかった」
ページをめくる。
次の写真には、制服姿の少女が写っていた。
店の前で玲奈と並び、少し恥ずかしそうに笑っている。
亮介が目を細める。
「あ、みうちゃん!」
「懐かしいですね」
当時の彼女は高校生。
放課後や休日に「しおかぜ」で働き、島を離れた後は美容師を目指した。
今では尼崎の美容室で働いている。
亮介も、成長したみうとは何度か会ったことがある。
しかし、女子高校生だった頃の姿を見るのは珍しかった。
「みうちゃんにも、こんな時があったんですね」
「当然あります」
「制服、似合ってますね。可愛いなあ」
玲奈が亮介を見る。
「今度お会いした時に、そのままお伝えしてはいかがですか?」
「いや、今の大人のみうちゃんに『高校時代可愛かったね』って言ったら、俺が怪しいおじさんみたいでしょう」
「自覚はあるのですね」
「そこは否定してください!」
別の写真では、みうちゃんがエプロン姿で黒糖プリンを運んでいる。
かなり緊張した表情だった。
「最初の頃ですね」
玲奈が懐かしそうに言う。
「お皿を二枚持つだけで、落とさないか心配していました」
「今じゃ美容師ですからね」
「人は変わりますね」
亮介が少しだけ間を置く。
「俺も?」
玲奈は写真を見たまま答えた。
「かなり」
短い言葉だった。
けれど亮介は、それ以上聞かなかった。
次のページには、落ち着いた雰囲気の年配女性が写っていた。
古い純喫茶を思わせる店内。
濃い木目のカウンター。
磨き上げられたコーヒー器具。
その中央で、上品な女性が静かに微笑んでいる。
亮介が尋ねる。
「この方は?」
玲奈の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「神戸の純喫茶『霧笛』の女主人です」
「玲奈さんのお師匠さん?」
「はい」
玲奈が店を始める前、コーヒーの淹れ方や客との距離の取り方、店という場所の作り方を教わった人物だった。
「技術だけではなく、ずいぶん多くのことを教えていただきました」
「どんなことを?」
いぶん多くのことを教えていただきました」
「どんなことを?」
玲奈は写真を見ながら言う。
「お客様が話したい時には話を聞く。静かに過ごしたい時には、そっとしておく。店主が自分の都合で距離を決めないこと」
亮介が頷く。
「なるほど」
「それから、コーヒーは急いでも美味しくならないこと」
「玲奈さん、そこだけ今も絶対守りますよね」
「大切ですから」
「客が急いでても?」
「急いでいる方には、早く出せるものをご案内します」
「筋が通ってる」
亮介は写真をもう一度見る。
「会ってみたいですね」
「亮介さんは、最初の三分でかなり注意されると思います」
「何でです?」
「話しすぎるので」
「玲奈さんの師匠まで俺に厳しい想定!」
ページをめくると、今度は急に華やかになった。
赤嶺美月。
西川彩香。
白浜麻衣。
山本あかり。
玲奈の戦隊ヒロイン時代の仲間たちが、「しおかぜ」の店先やテラスで笑っている。
「うわ、懐かしいですね」
亮介が言う。
「亮介さんは、この頃はまだここにいませんよ」
「写真で懐かしい雰囲気を感じたんです」
「便利な感覚ですね」
一枚には、美月が玲奈の肩へ大胆に腕を回し、彩香が横から何か言っている姿が写っていた。
亮介が笑う。
「美月さん、距離近いですね」
「いつもあのような感じです」
「俺が同じことしたら?」
「避けます」
「考える時間すらない!」
「美月さんとは状況が違います」
「そこを詳しく」
「次を見ましょう」
「話を流された!」
観光客との写真も多かった。
一度きりの新婚旅行。
銀婚式で島を訪れた夫婦。
一人旅の青年。
卒業旅行の学生たち。
悪天候で飛行機が欠航し、予定になかった一日を島で過ごした家族。
写真の裏に名前が書いてあるものもあれば、もう誰だったか思い出せないものもある。
けれど、誰もが「しおかぜ」で笑っていた。
亮介は一枚一枚を眺める。
「一期一会ですね」
「そうですね」
「この人たち、もう二度と来ない人も多いんでしょうね」
「はい」
「でも、写真だけは残ってる」
玲奈が静かに頷く。
亮介は少し笑った。
「店って、面白いですね」
「どうしてですか?」
「毎日同じ場所にあるのに、来る人はずっと変わるでしょう」
玲奈は答えなかった。
ただ、その言葉を気に入ったように、もう一度写真へ目を落とした。
そして。
次のページを開いた瞬間。
亮介の顔から、穏やかな表情が消えた。
そこには、大城誠司警部がいた。
窓際の席。
テーブルには黒糖プリン。
玲奈はその隣に立っている。
大城はいつものように妙に決まった表情で、わずかに玲奈側へ体を傾けていた。
亮介が写真を凝視する。
「玲奈さん」
「はい」
「これは何ですか?」
「大城警部ですね」
「それは分かります」
「では、何でしょう」
亮介は写真を指差した。
「距離が近いです」
玲奈も見る。
「普通では?」
「普通じゃないですよ」
「どのあたりが?」
「警部さんの左肩が、玲奈さん側へ寄っています」
「そうですか?」
「七度くらい」
玲奈が亮介を見る。
「測ったのですか?」
「男には分かります」
「何がですか?」
「下心の角度です」
玲奈はアルバムを閉じようとした。
「掃除へ戻りましょう」
「待ってください! 重要資料です!」
亮介は慌ててアルバムを押さえる。
さらに次の写真。
大城が店の前で腕を組み、海を背に立っている。
玲奈は少し離れて隣にいる。
「これも自分から撮ってほしいって言いましたよね」
「確か、『記録として必要です』とおっしゃっていたと思います」
「記録!」
亮介は天井を仰いだ。
「警察官らしい言い訳を!」
「何をそんなに気にしているのですか?」
「気にしてません」
「ずいぶん長く見ていますが」
「敵情視察です」
「敵なのですか?」
「……競合です」
「何の?」
亮介は答えない。
玲奈は少しだけ笑った。
その笑みが、亮介にはさらに面白くない。
「玲奈さん、楽しんでません?」
「少し」
「認めた!」
やがて、大城の写真を過ぎる。
そこでようやく亮介自身の写真が出てきた。
ただし。
まともな写真が、ほとんどなかった。
一枚目。
亮介が黒糖プリンを二つ持ち、なぜか勝ち誇った顔をしている。
二枚目。
島野菜サンドを大きく掲げている。
三枚目。
店先で転びそうになった瞬間。
四枚目。
「千五百メートル四国八位」と自分で書いた紙を胸に貼り、満面の笑み。
五枚目。
黒糖プリンを喉につまらせ、水を飲んでいる。
亮介は額へ手を当てた。
「まともなのが一枚もない」
玲奈が平然と答える。
「奈央さんが撮影したものですね」
「奈央さん、俺の普通の瞬間を撮る気なかったんですか?」
「面白い時だけ撮っていたのでしょう」
「人を珍獣みたいに!」
別の一枚。
亮介がメニュー表を持って何かを熱弁し、玲奈が冷たい目で見ている。
「これ、いつです?」
「新メニューへ『四国八位セット』という名前を付けようとなさった日ですね」
「ああ……」
「却下しました」
「写真だけで記憶を刺してくるアルバムだ」
玲奈の写真も多い。
客と。
仲間と。
みうと。
大城と。
一人で店に立つ姿もある。
亮介の写真もある。
けれど。
アルバムを最後までめくったところで、亮介が手を止めた。
もう一度、最初から少し早めにめくり直す。
みう。
「霧笛」の女主人。
美月。
彩香。
麻衣。
あかり。
観光客。
大城。
奈央が撮った亮介。
「玲奈さん」
「はい」
「ないですね」
「何がですか?」
「俺と玲奈さんの写真」
玲奈も気づく。
二人でアルバムを見直す。
本当にない。
毎日のように同じ店で働いている。
朝、一緒に開店準備をする。
昼の忙しい時間を並んで乗り切る。
夜には片づけをする。
防犯訓練までした。
大型台風の夜を二人だけで過ごした。
何度も口喧嘩をし、何度も黒糖プリンを食べた。
それなのに。
玲奈と亮介だけで写っている写真は、一枚もなかった。
玲奈も少し意外そうだった。
「本当ですね」
「大城警部とはあるのに」
「まだ気にしているのですか?」
「そこは重要です」
「なぜ?」
「俺のほうが、この店にいる時間は圧倒的に長いでしょう」
「勤務時間です」
「勤続年数は写真へ反映されないんですか?」
「そのような制度はありません」
「作りましょう」
「必要ありません」
亮介はアルバムを見つめる。
「じゃあ、撮りません?」
玲奈が顔を上げる。
「二人でですか?」
「他に誰がいます?」
店内を見回す。
当然、定休日なので誰もいない。
亮介はスマートフォンを取り出した。
「セルフタイマーがあります」
「撮影できますか?」
「十秒あれば余裕ですよ」
この「余裕ですよ」が、この日の最大の誤算だった。
スマートフォンを窓際の棚へ置く。
背景には白いカーテン。
その向こうには海。
亮介は画角を念入りに調整する。
「完璧です」
タイマーを十秒へ設定。
ボタンを押す。
十。
亮介が走る。
九。
「玲奈さん、もう少し右へ!」
八。
「亮介さん、前を見てください」
七。
亮介が椅子を回り込む。
六。
足が椅子の脚へ当たる。
五。
「痛っ!」
四。
それでも玲奈の隣へ向かう。
三。
片足を上げる。
二。
玲奈が亮介を見る。
一。
シャッター。
二人で写真を確認する。
玲奈は、きちんと正面を向いている。
亮介は隣で片足を抱え、苦痛に顔を歪めている。
玲奈が言う。
「自然な一枚ですね」
「俺だけ救急搬送直前です!」
「思い出にはなります」
「もっと穏やかな思い出が欲しい!」
二枚目。
今度は二人とも最初から撮影位置へ立つ。
亮介が遠隔操作でタイマーを入れる。
撮影。
画面を見る。
二人の間には、人がもう一人立てそうな空間がある。
亮介が首を傾げる。
「離れすぎじゃありません?」
「普通に並びました」
「どう見ても離婚協議中の夫婦ですよ」
「結婚していません」
「例えです!」
「では問題ないですね」
「写真として大問題です!」
三枚目。
亮介が少し近づく。
今度は腕を組み、顎を引いて、斜めに立った。
撮影。
玲奈が画面を見る。
「中古車販売店の店長ですね」
「敏腕カフェマネージャーです」
「ウェイターです」
「写真の中まで肩書を訂正しないでください!」
四枚目。
亮介は冷蔵庫から黒糖プリンを二つ持ってきた。
「これを持ちましょう」
「なぜです?」
「『しおかぜ』の看板商品ですから」
玲奈も一つ受け取る。
二人で並ぶ。
タイマー。
十。
九。
八。
亮介が笑顔になる。
七。
六。
「玲奈さん」
「何ですか?」
五。
「看板商品と、看板夫婦ですね」
玲奈が無言で一歩横へ移動する。
四。
「玲奈さん?」
三。
さらに半歩離れる。
二。
「距離が広がってます!」
一。
撮影。
完成した写真では、二人の間に最初よりさらに大きな空間ができていた。
亮介が頭を抱える。
「言葉一つで距離が逆戻りした!」
「発言には責任を持ってください」
「写真撮影で人生訓を学ぶとは!」
五枚目。
亮介だけ目を閉じる。
六枚目。
玲奈だけ亮介の変なポーズを見ている。
七枚目。
亮介が間に合わず、右半分だけ写っている。
八枚目。
タイマーの設定を間違え、誰も写っていない。
九枚目。
亮介が急いで走り、カウンターへ腰をぶつける。
十枚目。
その姿がおかしくて、玲奈が思わず笑った。
だが、シャッターはまだ切れていない。
亮介が叫ぶ。
「今です!」
「何ですか?」
「玲奈さん、今の笑顔です! もう一回!」
「注文されて出せるものではありません」
「黒糖プリンより難しい!」
いつしか、撮影そのものが楽しくなっていた。
定休日の「しおかぜ」に、二人の笑い声が響く。
気がつけば、スマートフォンには二十枚以上の失敗写真が保存されていた。
最初は、アルバムへ一枚足そうとしただけだった。
ところが、玲奈まで少しずつ本気になる。
「亮介さん、もう十センチ左へ」
「玲奈さん、やる気になってますね」
「せっかくですから、きちんとした一枚を残したいです」
「そんなに俺との写真が欲しいですか?」
玲奈が無言で横へ一歩移動しようとする。
「すみません! 今のは忘れてください!」
夕方。
窓から入る光が、青から淡い金色へ変わり始めた。
白いカーテンも、柔らかな夕日の色に染まっている。
亮介はスマートフォンを窓辺へ置き直した。
「最後に一枚だけ」
「はい」
「もう、普通に撮りましょう」
「そうしましょう」
「変なポーズなし」
「はい」
「黒糖プリンなし」
「はい」
「夫婦という単語もなし」
「それが一番重要です」
「自分で条件に入れたのに、ちょっと悲しい!」
十秒。
二人は並ぶ。
今度は走らない。
ふざけない。
九。
玲奈がカメラを見る。
八。
亮介も隣へ立つ。
七。
さっきより少し近い。
六。
肩は触れていない。
五。
けれど、人一人が入れるほど離れてはいない。
四。
亮介が少し息を吐く。
三。
「玲奈さん」
「はい」
二。
「俺、ここに立ってていいんですよね」
その言葉だけは、写真の立ち位置について聞いたものではなかった。
かつて人の金を騙し取った男。
日本協和商事で犯罪に手を染めた男。
阪神国道で玲奈に逮捕された男。
刑務所へ入り、出所し、長い遠回りをして、この島まで来た男。
その亮介が今は、「しおかぜ」のエプロンを着け、玲奈の隣へ立っている。
写真の中に残ることは、
自分がここにいることを形にするようで、
ほんの少し怖かった。
玲奈はカメラを見たまま答えた。
「毎日、立っているではありませんか」
一。
亮介が笑う。
「そうでした」
その声につられたのか。
玲奈も、ほんの少し笑った。
シャッターが切れた。
二人でスマートフォンの画面を見る。
今度だけは、不思議なほど自然だった。
夕暮れの柔らかな光。
白いカーテン。
その向こうに見える南ぬ島の海。
少し照れた亮介。
いつもの落ち着いた表情の中に、小さな笑みを浮かべた玲奈。
肩は触れていない。
手もつないでいない。
それでも、二人の間に不自然な空白はもうなかった。
玲奈が言う。
「これにしましょうか」
「はい」
「アルバムへ入れます?」
亮介は少し考える。
「いや」
「どうしました?」
「これ、写真立てにしません?」
玲奈は少し意外そうに亮介を見る。
「店へ飾るのですか?」
「目立つ場所じゃなくていいんです」
亮介は、画面に写る二人を見る。
「何か……これは店の記録というより、俺たちの写真って感じがするから」
言った本人が、少し照れる。
いつもなら余計な一言を足す亮介だったが、今回は何も続けなかった。
玲奈も、からかわない。
「そうですね」
倉庫を探すと、小さな木製の写真立てが一つ見つかった。
派手ではない。
古くて、角に少しだけ傷がある。
でも、店の木製カウンターにはよく似合った。
二人はその写真を入れた。
置いた場所は、客席から一番目立つ棚ではない。
レジ横でもない。
カウンターの奥。
コーヒー豆の瓶と、古い伝票箱の間。
玲奈が豆を量る時。
亮介がカウンターの内側を拭く時。
ほんの一瞬だけ視界へ入る場所。
客から見れば、おそらく気づかない。
二人だけが、そこにあると知っている場所だった。
亮介は少し離れて眺める。
「いいですね」
「はい」
「大城警部の写真より、いい場所です」
玲奈が横を見る。
「まだ比較していたのですか?」
「警部さんはアルバムの中」
亮介は胸を張る。
「俺との写真は常設展示」
「お客様からは見えません」
「それがいいんですよ」
亮介は写真立てを見る。
「二人だけが分かれば」
玲奈も同じ写真へ目を向けた。
「そうですね」
その日の片づけを終えた頃、外はすっかり夕暮れだった。
アルバムは元の箱へ戻された。
女子高校生だったみう。
玲奈の師匠である「霧笛」の女主人。
美月。
彩香。
麻衣。
あかり。
大城警部。
奈央が撮った、亮介のろくでもない写真たち。
一度きりの観光客。
二度、三度と店へ帰ってきた人。
「しおかぜ」という小さな店を通り過ぎた、たくさんの人生。
写真とは、去っていく時間を少しだけ残しておくものなのかもしれない。
けれど、今日撮った一枚だけは違っていた。
去っていった人の写真ではない。
明日もまた、同じ店に立つ二人の写真だった。
店を出る前。
亮介は、もう一度カウンター奥の写真立てを見る。
「玲奈さん」
「はい」
「次に撮る時は、もう少し近くで撮りません?」
玲奈は戸締まりを確認しながら答える。
「来年、考えます」
「一年必要なんですか?」
「距離を縮めるには、時間が必要なのでしょう?」
亮介が止まる。
「玲奈さん」
「何ですか?」
「今、写真以外の意味も入ってません?」
「写真の話です」
「本当に?」
玲奈は答えなかった。
店内の照明を、一つ消す。
「帰りますよ」
「また逃げた!」
最後の照明が落ちる直前。
カウンターの奥。
誰にも気づかれない小さな写真立てへ、夕暮れの残光が差していた。
肩は、まだ触れていない。
恋人でもない。
夫婦でもない。
けれど最初の失敗写真より、確かに少し近いところで二人は笑っている。
アルバムの最後に足りなかった一枚は、その日ようやく撮影された。
そして「しおかぜ」の誰にも目立たない場所で、
遅すぎた恋もまた、
セルフタイマー十秒ぶんだけ、静かに前へ進んだ。




