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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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嵐が灯りを消した夜、帰る場所だけが残った ――停電した「しおかぜ」で、元詐欺師は自分を逮捕した女性に初めて過去を話す

数年に一度、南ぬ島には、海も空も道もまとめて持ち去ろうとするような大型台風が来る。


その年の台風は、島の人々が予報図を見るたびに口数を減らすほど大きかった。


中心気圧は下がり続け、暴風域は島をすっぽり覆うほどに広がっている。港では船が陸へ上げられ、商店の窓には板が打ちつけられた。スーパーの棚から水と乾電池が消え、町の防災無線は、何度も不要不急の外出を控えるよう呼びかけていた。


「島カフェ しおかぜ」も、台風接近前日の午後から臨時休業を決めた。


朝から玲奈と亮介は、店の内外を慌ただしく往復していた。


テラスの椅子を中へ運び、植木鉢を壁際へ寄せ、店先の黒板と看板を物置へしまう。窓には養生テープを貼り、その上から防風板を固定する。


玲奈の作業には無駄がなかった。


必要な道具をあらかじめ順番に並べ、留め具の数を確認し、避難経路へ物を置かないよう指示する。


一方の亮介は、大きな鉢植えを両腕で抱えながら、朝から何度も自分の存在価値を主張していた。


「こういう時こそ、元ラガーマンの筋力が必要なんですよ」


玲奈は窓枠の金具を締めながら答えた。


「その鉢植えは、店で二番目に軽いものです」


「重量だけで仕事を評価しないでください。安定した運搬技術を見てほしいんです」


「先ほど入口へぶつけましたよね」


「風向きを計算した軌道修正です」


「まだ、ほとんど風は吹いていません」


亮介は鉢植えを床へ下ろし、腰へ手を当てた。


「では、一番重いものを任せてください」


玲奈は迷わず、店先に立ててあった分厚い木製看板を指した。


「お願いします」


亮介は看板を見る。


厚い一枚板に黒い鉄製の脚がついた、明らかに一人で持ち上げる物ではない。


「これは二人で運ぶものでは?」


「元ラガーマンの筋力が必要なのですよね」


「人間は、自分の発言によって追い詰められるんですね」


「元詐欺師の方が、今になってお気づきになったのですか?」


「朝から言葉が鋭い!」


結局、二人で看板を運び込んだ。


昼を過ぎる頃には、空の色が変わり始めていた。


海はまだ見えている。


けれど、いつもの青ではない。


鉛を薄く溶かしたような灰色が、水平線の向こうから静かに広がっていた。


風は次第に強まり、白いカーテンが大きく膨らむ。


玲奈は最後の防風板を固定し、入口へ「臨時休業」の札を掛けた。


「これで外回りは終わりです」


「完璧ですね」


亮介は薄暗くなった店内を見回した。


外から運び込まれた椅子や鉢植えが客席を占領し、いつもの「しおかぜ」より狭く見える。


「何だか避難所みたいですね」


「非常用の水、保存食、懐中電灯、携帯ラジオ、救急用品は用意してあります」


「さすが元警部補」


「亮介さんが準備したものは?」


亮介は紙袋を掲げた。


「お菓子です」


「それだけですか?」


「非常時には糖分が必要です」


「黒糖プリンがあります」


「商品へ手を出してはいけないと思い、自分用を持ってきました」


「そこだけは感心しました」


「もっと全体的に褒めてもらえません?」


本来なら、夕方までにそれぞれ帰宅する予定だった。


だが午後四時を過ぎた頃には、道路へ折れた枝が散乱し、一部で冠水も始まっていた。


自治体からは、屋外へ出ないよう緊急通知が届く。


店の正面扉が、外側から何度も押されるように震えていた。


亮介はスマートフォンの画面を見る。


「もう帰るのは無理ですね」


「はい。今夜はここで過ごしましょう」


玲奈は最初から、その可能性を考えていたらしい。


店の奥から簡易マットと毛布を二組出してきた。


「準備が良すぎませんか?」


「備えるのは当然です」


「俺が帰れなくなるところまで計算してました?」


「亮介さんが『これくらいなら大丈夫です』と言って、無理に帰ろうとする可能性も考えていました」


「俺の行動が防災計画へ組み込まれている!」


玲奈は客席の中央へ簡易マットを敷いた。


一枚は窓側。


もう一枚はカウンター側。


二つの間には、テーブル一台分以上の距離がある。


亮介は無言でそれを眺めた。


「ずいぶん離しましたね」


「安全に休める距離です」


「何に対する安全ですか?」


「お互い、落ち着いて眠るためです」


「俺が夜中に何かすると?」


玲奈は少し考えた。


「冷蔵庫の黒糖プリンを確認しに行く可能性があります」


「俺自身ではなく、プリンへの警戒だった!」


日が暮れる前に、台風は島へ最接近した。


窓を覆う防風板の向こうで、風が低く唸っている。


金属らしき物が道路を転がる音。


遠くで何かが倒れる音。


激しい雨が壁と屋根へ叩きつけられ、店全体が細かく震えていた。


午後七時十二分。


天井の照明が一度、大きく明滅した。


次の瞬間、すべての灯りが消えた。


空調の音も、冷蔵庫の運転音も止まる。


暗闇の中に残ったのは、雨と風だけだった。


「停電ですね」


玲奈の声がした。


「玲奈さん、どこです?」


「カウンターの中です」


「声は冷静ですけど、姿が見えないと怖いですね」


「その場から動かないでください」


懐中電灯が点いた。


白い光が店内を横切り、亮介の顔を照らす。


「眩しいです」


「無事ですね」


「照らし方が容疑者確認なんですよ」


玲奈は電池式のランタンを二つ灯した。


橙色の柔らかな光が、客席の一部だけを照らす。


店の隅は暗く、見慣れた椅子やテーブルの影が、普段より大きく壁へ伸びていた。


玲奈は真っ先に冷蔵庫の温度計を確認する。


「黒糖プリンが二十四個あります」


亮介の表情が引き締まる。


「最重要保護対象ですね」


「明日以降の営業用です」


亮介は紙と太いペンを取り出した。


台風緊急対策本部

最重要保護対象――黒糖プリン二十四個


その下へ、少し小さな字で書き加える。


店主・岡本玲奈 一名


玲奈が紙を見る。


「順番が逆ではありませんか?」


「玲奈さんは自分で逃げられます」


「プリンは?」


「何もできません」


「亮介さんは?」


亮介は自分の名前を書き足そうとした。


「俺も保護対象へ」


「ご自分で動けますよね」


「玲奈さんと同じ条件です」


「では、私も保護対象から外してください」


「二人でプリンだけ守ってどうするんです!」


停電が長引けば、冷蔵庫の温度が上がる。


玲奈は氷と保冷剤を集め、大型保冷箱へプリンを移すことにした。


亮介は冷蔵庫の開閉時間を短くするため、一個ずつ容器を受け取る。


「一番、異常なし。二番、異常なし。三番、少し不安そうです」


「不安そうには見えません」


「食べてほしいと訴えています」


「目も口もありません」


「非常時で心細いんですよ」


「亮介さんが、ですか?」


「プリンが、です」


「早く蓋を閉めてください」


二十四個すべてを移し終えると、玲奈は保冷箱へ温度計を入れた。


試作として作っていた小さなプリンだけは、別の容器へ入れ、氷を多めに当てる。


「こちらは実験用にしましょう」


亮介が言う。


「何を実験するのですか?」


「黒糖プリンが、人間より先に台風へ適応できるか」


「意味のあることをしてください」


夕食は、パンと缶詰、常温で食べられるスープになった。


玲奈は紙皿へ丁寧に盛りつける。


店内を照らすのは、小さなランタンの明かりだけだった。


亮介は向かい側の玲奈を見た。


「こうして見ると、ちょっとロマンティックですよね」


「大型台風による停電中です」


「暗い店。外は嵐。中には男女が二人だけ」


「非常食の缶詰もあります」


「一つずつ現実を追加しないでください」


「安全を確認しながら朝を待つ夜です」


「映画なら、ここから二人の距離が縮まるんですよ」


玲奈は紙皿を持ったまま、床のマットを見る。


「物理的な距離は、先ほど空けてあります」


「そちらではありません!」


その時、強い突風が店を襲った。


防風板が激しく鳴り、天井から細かな埃が落ちる。


亮介の肩が、わずかに動いた。


玲奈は気づいていた。


「怖いですか?」


「まさか」


亮介は笑おうとした。


「俺は元ラガーマンですよ。台風くらいで――」


外で何か大きな物が倒れた。


鈍い音が、店の壁を伝って響く。


亮介の笑顔が止まった。


玲奈は何も言わず、ランタンを少しだけ亮介の近くへ寄せる。


「怖いと言ってもよいと思います」


「玲奈さんは怖くないんですか?」


「怖いですよ」


亮介は意外そうに玲奈を見る。


「元警部補で、戦隊ヒロインで、凶悪犯を一人で取り押さえる人でも?」


「怖くないことと、怖くても落ち着いて動けることは別です」


玲奈は携帯用の加熱器具で温めた缶飲料を、亮介へ渡した。


「怖い時ほど、するべきことを一つずつ確認します」


「玲奈さんらしいですね」


「亮介さんは、先ほどから風の音ばかり気にしています」


亮介は缶を両手で包んだ。


しばらく、その表面を見つめる。


ランタンの光が、指先の小さな震えを照らしていた。


「昔のことを思い出すんです」


玲奈は理由を急いで尋ねなかった。


ただ、亮介の向かいへ座り直した。


外では風が荒れている。


薄暗い店の中で、二人の間にだけ小さな明かりがあった。


「俺、最初から詐欺師だったわけじゃないんです」


亮介が静かに話し始めた。


若い頃、亮介は商品先物取引会社の営業マンだった。


電話営業で顧客を勧誘し、大豆や金、原油などの商品相場への投資を勧める。


成績は悪くなかった。


口が達者で、人の懐へ入るのが早い。


客の不安を和らげ、相場が上がる未来を信じさせることも得意だった。


「当時は、自分には才能があると思っていました」


契約を取れば褒められる。


手数料を稼げば評価される。


客が損をしても、相場の責任だと思えばよかった。


だが、ある時、亮介は大きな判断を誤った。


顧客から預かっていた資金を、正規の手続きを踏まず、勝手に大豆相場へつぎ込んだ。


相場が上がれば、損失を取り戻せる。


利益が出れば、後から帳尻を合わせればよい。


そう考えた。


「少し儲けて戻すつもりでした」


だが大豆相場は、亮介の予想とは逆へ動いた。


損失は膨らんだ。


取り戻そうとして、さらに金を入れた。


それでも相場は戻らない。


顧客の預かり金は、大きく減った。


背任として警察へ突き出されてもおかしくない行為だった。


「もう終わったと思いました」


会社へ発覚した時、亮介を呼び出したのが、当時の上司だった田宮という男だった。


田宮は亮介を叱責しなかった。


警察へ通報するとも言わなかった。


損失を社内で処理し、不正の記録を揉み消した。


亮介は救われたと思った。


「田宮は、恩人に見えました」


しかし、田宮は善意で亮介を助けたわけではなかった。


不正を揉み消した事実を握り、亮介を自分の支配下へ置くためだった。


やがて田宮は会社を去り、新たな投資会社を立ち上げる。


日本協和商事。


表向きは、高い収益を生む投資案件を扱う会社だった。


実態は、集めた金を別の顧客への配当や組織の維持へ回す投資詐欺会社である。


田宮は亮介へ声をかけた。


「お前の件を表へ出されたくなければ、俺のところへ来い」


断れるはずがなかった。


背任の事実が公になれば、逮捕される。


家族にも知られる。


社会人としての人生も終わる。


亮介は田宮のもとで働き始めた。


最初は電話をかけるだけだった。


次は客へ説明する役。


その次は、投資した金が順調に増えているように見せる資料を作る役。


やがて、解約を申し出る客を言葉で引き止め、さらに金を入れさせるようになった。


「一つやるたび、もう戻れないと思いました」


それでも、次の一つをやった。


不正を拒めば、田宮に過去を暴かれる。


会社を辞めれば、警察へ売られる。


そう自分へ言い聞かせた。


「でも、本当は違うんです」


亮介は言う。


「怖かっただけじゃない。金も欲しかった。営業成績を褒められるのも、田宮に必要とされるのも、嫌いじゃなかった」


玲奈は黙って聞いている。


かばうことも、責めることもしない。


亮介はその沈黙に甘えず、話を続けた。


日本協和商事が大きくなるにつれ、会社の中には説明のつかない金が増えていった。


突然連絡が取れなくなる社員。


夜中に処分される書類。


複数の名義を使った口座。


事務所へ出入りする、営業社員とは思えない男たち。


被害者からの電話は増え、警察や弁護士の名前を出す者も現れた。


「いよいよ怪しいというより、とっくに怪しかったんです」


ただ、ある時期から社内の空気が明らかに変わった。


田宮が事務所へ来なくなる。


幹部が私物を持ち帰る。


パソコンのデータが消される。


金庫から現金が運び出される。


誰も口にはしないが、全員が思っていた。


もうすぐ警察が来る。


「毎日、逮捕されることばかり考えていました」


亮介は安いビジネスホテルや会社の寮を転々とした。


自宅へ帰れば、張り込まれているかもしれない。


仲間と一緒にいれば、口封じをされるかもしれない。


一人になれば、すべての罪を押しつけられるかもしれない。


風の強い夜には、事務所の金属看板が不規則に鳴った。


今夜の「しおかぜ」の防風板と、よく似た音だった。


「外で何かが鳴るたび、警察が扉を叩いたと思いました」


だが、警察が来なければ来ないで、不安だった。


明日は何を命じられるのか。


誰を騙すのか。


どれだけの金を動かすのか。


田宮に切り捨てられるのはいつか。


「逮捕されたくない。でも、明日が来るのも怖い。どっちへ行っても逃げ道がなかったんです」


ある夜、田宮から直接指示が入った。


会社が保管している現金を、神戸から大阪へ運べ。


車を使い、指定された場所まで持っていけ。


中身を確認するな。


寄り道をするな。


誰から電話が来ても出るな。


後ろをつけられたと思ったら、受け渡し場所へは向かうな。


「普通の金じゃないことは、分かっていました」


それでも亮介は断らなかった。


大型のスポーツバッグを助手席の足元へ置き、夜の神戸を出発した。


目的地は大阪市内。


雨が降っていた。


阪神国道の濡れた路面へ、前を走る車の赤い尾灯が長く伸びていた。


信号で止まるたび、助手席のバッグが生き物のように見えた。


後ろに車がつくたび、警察ではないかと疑った。


「本当は、途中で全部捨てて逃げたかった」


玲奈が初めて問いかける。


「なぜ逃げなかったのですか?」


亮介は苦く笑った。


「逃げる勇気もなかったんです」


田宮から逃げれば、背任の件を警察へ渡される。


金を持って逃げれば、日本協和商事にも追われる。


警察へ自首すれば、すべてを失う。


ならば、指示どおりに運べば、その夜だけは生き延びられる。


亮介は、そう考えた。


「目の前の一晩を越えることだけ考えていました」


その時、後ろへ一台の車がついた。


何度曲がっても離れない。


速度を落とせば、相手も落とす。


さらに前方にも別の車が入り、進路を狭めた。


亮介は逃げる道を探した。


だが阪神国道沿いの信号で停止した時、運転席側の窓を強く叩かれた。


窓の外に立っていたのが、岡本玲奈だった。


当時の玲奈は、兵庫県警の警部補。


西日本特別諜報班――NSTの任務として、日本協和商事の資金移動を追っていた。


制服ではなく、捜査用の動きやすい服装。


雨に濡れた髪が頬へ張りつき、鋭い目で運転席の亮介を見ていた。


「窓を開けてください」


大声ではなかった。


それでも亮介には、雨音や車のエンジン音よりもはっきり聞こえた。


「あの時、アクセルを踏もうと思いました」


玲奈は静かに亮介を見る。


「前の車へぶつけて、強引に逃げられるかもしれない。細い道へ入れば振り切れるかもしれない。そう思ったんです」


「私が運転席の横にいました」


「はい」


亮介は缶飲料を握る手へ力を込める。


「この人を轢いたら、本当に戻れなくなると思いました」


警察へ捕まることより、目の前にいる玲奈を傷つけることのほうが、初めて恐ろしく感じられた。


亮介はエンジンを切った。


窓を開けると、雨と道路の音が一気に車内へ流れ込んできた。


玲奈は亮介へ、両手を見える位置へ置くよう命じた。


ドアを開けさせ、車から降ろした。


亮介の足は震えていた。


道路脇へ立たされ、両手を背中へ回される。


手錠が閉じる、短く乾いた音。


「今でも覚えています」


亮介は言った。


「あの時、すべて終わったと思いました」


仕事も。


金も。


自由も。


自分が積み上げた嘘も。


すべてが終わった。


「でも、不思議なもので」


亮介は、ランタンの明かりへ目を落とした。


「少しだけ、ほっとしたんです」


玲奈は何も言わない。


「田宮から、ようやく逃げられるかもしれないと思った」


もう田宮の電話へ怯えなくてよい。


誰かを騙すよう命じられなくてよい。


金を運ぶ必要もない。


仲間に切り捨てられる心配もしなくてよい。


自分のついた嘘から逃げ続けなくてよい。


逮捕によって自由を失ったはずなのに、亮介は初めて田宮の支配から外れたように感じた。


「取り調べの時、玲奈さんにも話しましたよね」


「はい」


玲奈は覚えていた。


逮捕直後の亮介は、強がったかと思えば急に黙り、田宮をかばったかと思えば、次の瞬間には激しく責めた。


何度も、自分は指示されただけだと訴えた。


しかし最後には、背任を揉み消してもらったことも、自分の意思で詐欺を続けたことも認めた。


「あの頃の俺、相当面倒だったでしょう」


「取り調べ対象としては、よくお話しになる方でした」


「今と変わりませんね」


「今より話が前後しました」


「犯罪者時代のほうが構成力まで低かった!」


玲奈の静かな突っ込みに、亮介は少しだけ笑った。


けれど、すぐに真顔へ戻る。


「玲奈さん」


「はい」


「あの時、俺を逮捕したのが玲奈さんで、よかったと思っています」


いつもの冗談ではなかった。


大げさな身振りもない。


照れ隠しの笑いもない。


「別の刑事だったら悪かった、という意味ではありません」


亮介は言葉を選びながら続ける。


「玲奈さんは、俺の言い訳を信じたふりもしなかった。でも、最初から全部嘘だと決めつけもしなかった」


玲奈は静かに聞いている。


「田宮に脅されたことと、俺自身が金を欲しがって詐欺をしたこと。その両方を分けて聞いてくれた」


亮介は、自分の罪を軽くするために田宮を利用していた時期があった。


すべて田宮のせいにすれば、自分は被害者に近づけると思った。


だが玲奈は、田宮の支配を認めながらも、亮介自身の選択まで消すことはしなかった。


「逃げ道をくれなかったんです」


亮介は穏やかに言った。


「でも、人間として戻る道は残してくれた」


玲奈の目が、ほんの少し揺れた。


「私は警察官として、必要な取り調べをしただけです」


「玲奈さんなら、そう言うと思いました」


「逮捕されたことを感謝する必要はありません」


「感謝とは少し違います」


亮介は窓を覆う防風板を見る。


外では、まだ風が唸っている。


「捕まった相手が玲奈さんだったから、自分が本当は何をしたのか、最後には話せたんです」


玲奈はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「亮介さんが話したのは、亮介さんご自身の判断です」


「また、俺の功績に戻しますね」


「逮捕や取り調べだけで、人は変わりません」


服役し。


出所し。


働き始め。


何度も失敗しながらも、逃げずに翌日を迎えた。


その積み重ねを選んだのは亮介自身だと、玲奈は言う。


「私がしたのは、亮介さんを止めるところまでです」


「その後は、自分で歩けと」


「はい」


「平塚美波さんなら、もっと荒っぽく言うでしょうね」


「どのように?」


「『捕まっただけで更生した顔すんな。外へ出てから働け』って」


「かなり厳しいですね」


「でも、効くんです」


外で、また強い風が鳴った。


けれど、亮介は先ほどのように肩を震わせなかった。


長く胸の奥へしまっていたものを言葉にしたことで、風の音が少し遠くなったように感じられた。


「日本協和商事にいた頃、帰る場所がなかったんです」


亮介は店内を見回す。


防風板で閉ざされた窓。


壁際へ集められた植木鉢。


積み上げられたテラスの椅子。


保冷箱へ避難させられた二十四個の黒糖プリン。


「会社の寮は、いつ追い出されるか分からない。実家には帰れない。仲間は信用できない。田宮からも警察からも逃げられない」


風の音を聞くたびに、何もかも失う直前の夜を思い出した。


「今は、ここにいらっしゃいます」


玲奈が言った。


「でも、ここは玲奈さんの店です」


「亮介さんが毎朝テーブルを拭き、お客様を迎え、閉店後に床を掃除している店でもあります」


「正面入口の鍵は、まだ持っていませんけど」


「物置の鍵はお預けしています」


「帰る場所が物置から始まった男ですね」


「段階がありますから」


亮介は少し笑った。


そして、冗談に逃げず、玲奈を見た。


「この店を、俺の帰る場所だと思ってもいいんですか?」


外では台風が荒れている。


島の灯りは消え、道路も海も見えない。


店の中には、玲奈と亮介しかいなかった。


ランタンの小さな明かりの中で、玲奈はすぐには答えなかった。


その短い沈黙が、亮介には長く感じられた。


「少なくとも」


玲奈は静かに言う。


「台風の夜に、亮介さんを外へ追い出すつもりはありません」


亮介は肩を落とした。


「もう少しロマンティックに言えませんか?」


「非常時ですから」


「『ここは亮介さんの帰る場所です』とか」


「亮介さんが、今ご自分でおっしゃいました」


「玲奈さんの声で聞きたいんです」


玲奈の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「毎朝、帰ってきているではありませんか」


亮介は黙った。


「亮介さんが店へ来ない日は、何かあったのではないかと思います」


「心配してくれるんですか?」


「営業に支障が出ます」


「急に業務の話へ戻った!」


「それに」


玲奈は少し間を置く。


「店が静かすぎます」


亮介は玲奈を見る。


「俺が必要という意味ですか?」


「話し声の量について申し上げました」


「一度持ち上げてから落とさないでください!」


それでも、亮介の顔には安堵が浮かんでいた。


夜十時を過ぎても、停電は続いていた。


玲奈が保冷箱の温度を確認すると、別容器へ入れていた試作プリンが、予定より早く固まっている。


「氷を当てすぎたようです」


亮介は容器を持ち上げた。


「では、品質確認をしましょう」


「一つしかありません」


「二人で分ければいいんです」


紙皿へ移そうとしたが、表面が傾き、きれいには外れなかった。


結局、容器へ二本のスプーンを入れて食べることになる。


亮介は、ランタン越しに玲奈を見る。


「これはかなりロマンティックでは?」


「形の崩れた試作品を無駄にしないためです」


「暗い店で男女が一つのプリンを」


「スプーンは別です」


「衛生管理が恋愛を阻む!」


亮介が一口食べる。


「少し固いですね」


「急激に冷やしたからでしょう」


「人生も、急に固めようとすると良くないんですね」


「黒糖プリンの話です」


「今夜は何でも人生へ結びつけたい気分なんですよ」


玲奈も一口食べた。


「でも、美味しいですね」


「はい」


「名前をつけますか?」


亮介は考えた。


「『嵐の夜の帰る場所プリン』」


「長いです」


「『二人だけの停電プリン』」


「販売しません」


「『元刑事と元詐欺師の――』」


「さらに販売できません」


「では、『台風夫婦プリン』」


「夫婦ではありません」


「停電中でも反応が速い!」


夜が深くなるにつれ、風は少しずつ弱くなった。


二人はそれぞれの簡易マットへ横になる。


間にはランタンが一つ。


距離は十分に空いている。


それでも、暗闇の中で互いの呼吸が聞こえる程度には近かった。


「玲奈さん」


「はい」


「眠れそうですか?」


「もう少し風が弱くなれば」


「俺は、今夜は眠れそうです」


「先ほどまで怖がっていましたよね」


「話したら、少し軽くなりました」


亮介は暗い天井を見つめる。


「いつか、玲奈さんには話さなきゃと思ってました」


「無理に話す必要はありませんでした」


「でも、自分を逮捕した人が、今は同じ店で寝てるんですよ」


「不思議ですね」


「不思議の一言で済ませます?」


「人生には、説明の難しいこともあります」


「遅すぎた恋とか?」


短い沈黙が落ちた。


「今の話に、恋は関係ありません」


「停電に紛れて聞いてみただけです」


「暗くても聞こえます」


「停電には音を消す効果がないんですね」


「ありません」


再び大きな風が店を揺らした。


亮介は反射的に上半身を起こす。


玲奈も起き上がり、天井と防風板の様子を確認した。


「店は大丈夫そうです」


「玲奈さん」


「はい」


「少しだけ、マットを近くへ移してもいいですか?」


玲奈が亮介を見る。


「怖いのですか?」


「店の状態を、一緒に確認しやすくするためです」


「怖いのですね」


亮介は諦めた。


「はい」


玲奈は自分のマットを、ランタンの近くへ少しだけ動かした。


亮介も反対側から近づける。


二人の間には、まだ人一人分ほどの距離があった。


それでも、最初よりは近い。


「これ以上は近づかないでください」


「分かっています」


「黒糖プリンを見に行く時も、私を起こしてください」


「最後まで俺よりプリンの心配ですか?」


「亮介さん自身は信用しています」


亮介は毛布の中から顔を出した。


「今、その言葉をさらっと言いました?」


「先日の防犯訓練でも申し上げました」


「二度目でも、ちゃんと嬉しいですね」


「静かに休んでください」


「はい」


しばらくして、亮介は小さな声で言った。


「玲奈さん」


「今度は何ですか?」


「ただいま」


玲奈は目を閉じたまま答えた。


「おかえりなさい」


それ以上、二人は話さなかった。


亮介は長い間恐れていた風の音を聞きながら、初めて安心して目を閉じた。


翌朝。


店の中へ、淡い光が差し込んだ。


風は弱まり、雨も小降りになっている。


停電はまだ続いていたが、携帯ラジオは、台風が島から離れつつあると伝えていた。


玲奈が防風板の隙間から外を確認する。


道路には枝や葉が散乱し、大きな水たまりもできている。


それでも、「しおかぜ」は無事だった。


窓は割れていない。


入口の扉も閉じている。


保冷箱の中の黒糖プリン二十三個も、適切な温度で守られていた。


試作品の一個だけは、昨夜、二人で食べた。


亮介は大きく伸びをした。


「一晩、店とプリンを守り抜きましたね」


「はい」


「功労者として、黒糖プリン一個無料でお願いします」


「昨夜、試作品を半分召し上がっています」


「玲奈さんも食べたでしょう」


「では、半額です」


「一晩店を守った男に半額請求します?」


「半分召し上がったので」


「感動と会計を分けてください!」


午前八時過ぎ。


店内の照明が突然点き、冷蔵庫が低い音を立てて動き始めた。


亮介は眩しそうに目を細める。


暗闇の中で長く話した夜が、電気の復旧とともに、少し遠い出来事のように感じられた。


玲奈は保冷箱のプリンを冷蔵庫へ戻していく。


亮介は入口に立ち、「臨時休業」の札へ手をかけた。


昨夜、初めて玲奈へ話したことを思い出す。


大豆相場へ勝手に投じた顧客の金。


損失を揉み消した田宮。


恩人に見えた男が、いつしか自分の支配者となったこと。


日本協和商事で重ねた詐欺。


現金の入ったスポーツバッグ。


雨の阪神国道。


運転席の窓を叩いた玲奈。


手錠の音と、その直後に覚えた奇妙な安堵。


亮介は小さく呟いた。


「ただいま」


背後で冷蔵庫の扉を閉めた玲奈が答える。


「昨夜も聞きました」


亮介が振り返る。


「聞こえてたんですか?」


「店内ですから」


「こういう言葉は、一度目だけ聞こえたことにしてくださいよ」


「二度目でも構いません」


玲奈は白いカーテンを開けた。


台風が過ぎた朝の光が、店の中へ差し込む。


「何度帰ってきてもよいのですから」


亮介は、また言葉を失った。


玲奈は何事もなかったように物置へ目を向ける。


「亮介さん。床が濡れていますので、モップをお願いします」


「今、かなり大事なことを言いましたよね?」


「お客様が滑ります」


「少し余韻をください!」


「午後から営業できるよう、片づけましょう」


「現実が強い!」


亮介は笑いながら、青いタグの付いた物置の鍵を取り出した。


扉を開け、モップを持って店内へ戻る。


もう、鍵の向きを間違えることはなかった。


台風は南ぬ島の灯りを消した。


木々を折り、道路を水で覆い、海と空の境目さえ奪っていった。


それでも、消せなかったものがある。


失敗しても戻ってこられる場所。


過去を初めて語っても、翌朝には同じようにモップを渡してくれる人。


黒糖プリンは、予定より少し早く固まった。


二人の関係は、まだ名前をつけられるほど簡単には固まらない。


恋と呼ぶには、遠回りをしすぎていて。


家族と呼ぶには、まだ少し照れくさい。


それでも亮介には、もう分かっていた。


帰る場所とは、建物のことではない。


嵐の暗闇で「ただいま」と言った時、


「おかえりなさい」


と答えてくれる人がいる場所なのだ。


その朝、「しおかぜ」は大型台風を越え、いつものように新しい一日を始めた。


元詐欺師を逮捕した女性と。


その女性の店へ、毎朝帰ってくるようになった男と。


まだ少し固まりきらない、遅すぎた恋を抱えたまま。

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