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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第3章 遅すぎた恋は、黒糖プリンより手がかかる

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三秒で床に沈んだ強盗へ、玲奈は店の鍵を渡した ――元警部補の防犯訓練と、元詐欺師が初めてもらった「信用しています」

「島カフェ しおかぜ」に強盗が入ったことは、一度だけある。


亮介が買い出しのため店を離れ、玲奈が一人で営業していた午後だった。


客の波が途切れ、白いカーテンだけが潮風に揺れていた時、刃物を手にした男が店へ押し入ってきた。


男は逃走中の凶悪犯だった。


玲奈へ刃物を突きつけ、レジの現金を出すよう要求した。


しかし相手が悪かった。


玲奈は兵庫県警の元警部補であり、かつては戦隊ヒロインとして特殊な訓練も受けている。


男が刃物を振り上げた瞬間、玲奈は半歩だけ体をずらした。


手首を外側へ流し、重心を崩し、腕を制御する。


男が状況を理解するより早く、刃物は床へ落ちていた。


次の瞬間には、凶悪犯の頬が店の床についていた。


買い出しから戻った亮介が目にしたのは、玲奈が犯人の腕を背中側へ固定し、いつもと変わらない落ち着いた声で、


「暴れないでください」


と注意している姿だった。


亮介は慌てて大城警部へ連絡した。


ほどなく警察官が到着し、事件は大事に至らず解決した。


それ以来、亮介はことあるごとに、


「俺があと三分早く戻っていれば、元ラガーマンの突進力で犯人を――」


と言っていた。


そのたびに玲奈は、


「店の入口で、買ってきた牛乳を落としていましたよね」


と事実を添えた。


「緊急事態だったんです」


「牛乳が二本、駐車場へ転がっていきました」


「そこは記憶から消してください」


「一本は車の下へ入りました」


「詳細に保存しないでください!」


強盗事件からしばらくたった、ある日の閉店後。


最後の客を見送り、亮介が店先の黒板を中へ運び込むと、玲奈がカウンターの奥から一冊のノートを持ってきた。


青い表紙には、端正な文字でこう書かれていた。


『島カフェ しおかぜ 防犯訓練実施計画』


亮介は、黒板を抱えたまま動きを止めた。


「玲奈さん」


「はい」


「その表紙を見ただけで、今日の帰宅が遅くなることが分かりました」


「以前、後日きちんと防犯訓練を行いましょうと申し上げました」


「確かに聞きました。でも、戸締まりの確認や、通報先を壁へ貼るくらいだと思っていました」


玲奈はノートを開く。


中には店内の見取り図、避難経路、通報手順、客を安全に誘導するための動線が、細かな字でまとめられていた。


「翌日の閉店後に実施します」


「翌日?」


「はい」


「今日、予告する必要はありました?」


「亮介さんにも心の準備が必要かと思いまして」


「準備が必要なほど本格的なんですね」


「想定事案を四つ用意しました」


「小さなカフェの訓練ですよね?」


「第一想定。営業時間中、正面入口から刃物を持った強盗が侵入」


「実際にあった事件ですね」


「第二想定。閉店作業中、裏口から不審者が侵入」


「急に怖くなってきました」


「第三想定。客を装った人物が、店内を下見したうえでレジを狙う」


「元詐欺師の俺でも、そこまで丁寧に計画しませんでしたよ」


「反省の言葉として受け取っておきます」


「犯罪手口の未熟さを反省したわけではありません」


玲奈は次のページをめくった。


「第四想定。亮介さんが訓練中に余計な行動をする」


亮介はノートをのぞき込む。


本当に書かれていた。


「最初から俺だけ名指しですか?」


「過去の傾向から、発生する可能性が最も高い事案です」


「強盗より俺が警戒されている!」


「不測の事態に備えるのが訓練です」


「夫婦間の信頼を先に訓練しませんか」


「夫婦ではありません」


「そこだけ反応が速い!」


翌日の営業終了後。


「しおかぜ」は、いつもの穏やかなカフェとは少し違う姿になっていた。


入口には玲奈が用意した、


防犯訓練中


の札。


テーブルの上には、模造紙幣、柔らかなゴム製の模擬ナイフ、救急用品、懐中電灯、警報装置の確認表が並べられている。


玲奈は長い髪を後ろでまとめ、白いシャツに動きやすい黒いパンツを合わせていた。


立ち姿に無駄がない。


店主というより、現場へ戻った警察官のようだった。


亮介は頭へ黒いタオルを巻き、目元だけを出している。


「どうですか」


玲奈は亮介を上から下まで見た。


「どう、とは?」


「強盗らしいでしょう」


「台所で玉ねぎを切っている途中の方に見えます」


「犯人役です!」


「黒いタオルにした理由は?」


「正体を隠すためです」


「顔がほとんど出ています」


「では、低い声で迫力を出します」


亮介は喉を整えた。


「金を出せ……」


玲奈が少し首を傾げる。


「風邪ですか?」


「悪役の声です」


「喉へ負担をかける必要はありません。普段どおりに話してください」


「強盗の自然な演技まで指導されるんですか?」


「演技に集中して、手順を忘れられては困ります」


「手順どおりに強盗をするというのも妙な話ですね」


玲奈はストップウォッチを手にする。


「それでは第一想定を始めます。亮介さんは正面入口から侵入し、レジの現金を要求してください」


「俺が本気を出しても知りませんよ」


「始めてください」


「少しは警戒してください」


「すでにしています」


亮介はいったん店の外へ出た。


数秒後、勢いよく扉を開ける。


ベルが激しく鳴った。


亮介は模擬ナイフを玲奈へ向ける。


「動くな! 金を――」


最後まで言えなかった。


玲奈が半歩、斜め前へ出た。


模擬ナイフを持つ手首を外側へそらし、亮介の体の向きを変える。その腕を背中側へ送り、軽く重心を崩した。


亮介の上半身がレジ台へ伏せる。


頬が、カウンター脇に置かれていた本日のおすすめメニューへ押しつけられた。


「痛い、痛い! 玲奈さん、訓練です!」


「犯人も、訓練だから待ってくださいとは言いません」


「俺は最初から犯人役だと名乗っています!」


「模擬ナイフを離してください」


「ゴムですよ!」


「離してください」


「はい!」


模擬ナイフが床へ落ちる。


玲奈は亮介を解放し、ストップウォッチを見る。


「二秒八七」


亮介は手首をさすりながら玲奈を見る。


「三秒かかってないじゃないですか」


「以前の犯人より接近が直線的でした」


「俺、凶悪犯より弱いんですか?」


「弱いというより、分かりやすいです」


「元詐欺師としての自尊心まで傷つきます」


玲奈はノートへ結果を記入した。


第一想定。犯人、二秒八七で制圧。


亮介が横からのぞく。


「店側の訓練になってませんよ」


「玲奈店主の対応は良好です」


「ご自分でご自分に丸をつけた!」


「亮介犯人役は、不必要に大声を出して接近を知らせていました」


「強盗役に迫力を求めたのは玲奈さんでしょう」


「迫力と無計画は違います」


「犯罪者役の才能まで否定された!」


第一想定を終えた時点で、亮介はすでに疲れていた。


だが、玲奈の計画書には、まだ三つの想定が残っている。


第二想定は、閉店作業中の裏口侵入だった。


亮介は店の外へ出て裏口へ回る。


足音を消し、そっとドアノブへ手をかけた。


回す。


開かない。


もう一度回す。


やはり開かない。


中から玲奈の声が聞こえる。


「どうかなさいましたか?」


「鍵がかかっています」


「閉店後ですから」


「入れません」


「施錠確認は良好ですね」


「訓練が始まりませんよ!」


玲奈が裏口を数センチだけ開けた。


「不審者が施錠された扉から、必ず侵入できるとは限りません」


「では、犯人役の俺はどうすれば?」


「諦めてください」


「犯人が諦めたら訓練終了でしょう!」


「第二想定。裏口からの侵入を阻止」


玲奈はノートへ丸をつける。


亮介は扉の外で抗議した。


「これ、玲奈さんが自分の防犯体制を確認して満足する会になってませんか?」


「安全が確認できたのですから、よい結果です」


「そのために俺を外へ締め出す必要はあります?」


「不審者役ですから」


「従業員役へ戻してください。潮風が冷たいです」


ようやく店内へ戻された亮介は、両腕をさすった。


「温かいコーヒーを一杯お願いします」


「訓練終了後にしましょう」


「防犯の前に、従業員の体温を守ってください」


「第三想定で、客を装ってコーヒーをご注文いただきます」


「飲めるんですね」


「代金はいただきます」


「訓練用のコーヒーまで有料!」


第三想定。


今度の亮介は、閉店間際に現れた怪しい客の役だった。


サングラスをかけ、シャツの襟を立てている。


玲奈は入口で亮介を迎えた。


「いらっしゃいませ」


亮介は低い声を作る。


「まだ、コーヒーは飲めるか」


「はい。お席へどうぞ」


亮介は格好よく店内へ入ろうとし、すぐ椅子の脚へつまずいた。


両手をテーブルにつき、どうにか転倒を免れる。


玲奈は落ち着いて尋ねる。


「大丈夫ですか?」


「犯人役を心配しないでください」


「まだお客様役です」


「設定に忠実ですね」


「夜の店内でサングラスをかけているため、足元が見えにくいのではありませんか?」


「正体を隠すためです」


「先ほど、裏口で顔を合わせました」


「正体が最初から割れている!」


亮介はサングラスを外し、窓際の席へ座った。


玲奈が本当にコーヒーを淹れる。


店内へ豆の香りが広がった。


亮介は演技を忘れ、運ばれたコーヒーを一口飲む。


「ああ、うまい」


「訓練中です」


「玲奈さんが本気で淹れるからです」


「客を装う想定ですから」


「これ、飲食代は?」


「通常料金です」


「強盗をする前に正規の売上へ貢献してる!」


玲奈がカップを片づけるため、いったん厨房へ入る。


亮介は周囲をうかがった。


今だ。


静かに立ち上がり、レジへ近づく。


引き出しへ手を伸ばした。


背後から、玲奈の声がした。


「何をなさっていますか?」


亮介の肩が跳ねる。


振り返ると、玲奈はすぐ後ろに立っていた。


「いつ戻ったんです?」


「亮介さんが『ああ、うまい』とおっしゃった頃です」


「まだ飲んでる途中ですよ!」


「立ち上がる気配がありましたから」


「足音が全くしませんでした」


「亮介さんの鼻歌のほうが大きかったのだと思います」


「鼻歌なんか歌ってました?」


「『俺は怪しい客』という即興曲を」


亮介は顔を覆った。


「無意識に犯行予告していた……」


「分かりやすくて助かりました」


玲奈はレジへ伸ばされた亮介の腕を取り、軽くひねる。


再び亮介の上半身がカウンターへ沈んだ。


今度は頬のすぐ横に、黒糖プリンの写真があった。


「痛い! もう犯人は反省しています!」


「まだ何も盗んでいません」


「未遂の段階で更生しました!」


「第三想定。犯人、コーヒー代を支払ったうえで制圧」


「ただ損をした客じゃないですか!」


玲奈はノートへ丸をつけた。


三度目の訓練を終えた亮介の姿は、凶悪犯というより、店主に何度も叱られた哀れな従業員にしか見えなかった。


黒いタオルは片方へずれ、シャツの襟も左右で高さが違う。


模擬ナイフを握っていた手には、冷却用の保冷剤が当てられている。


「玲奈さんが強すぎるんですよ」


亮介はカウンター席へ腰を下ろした。


「抵抗して制圧することは、一般的な対応として推奨していません」


「では、どうして毎回俺を取り押さえるんです?」


「簡単にできましたから」


「哀れみくらい持ってください」


「お怪我はありませんか?」


「心に少し」


「救急箱には対応できるものがありません」


「元警部補らしい冷静な診断ですね!」


亮介はため息をつく。


「これでは、夫婦喧嘩になっても俺は絶対勝てません」


「夫婦ではありません」


「取り押さえたまま否定した前回よりは優しい!」


玲奈は計画書の最後のページを開いた。


「それでは、第四想定へ移ります」


亮介は身構える。


「俺が余計なことをする想定ですね」


「内容を変更します」


「もっと嫌な予感がします」


玲奈は、テーブルと椅子を元の位置に戻した。


「次は私が犯人役になります」


亮介の顔から、わずかに血の気が引いた。


「玲奈さんが?」


「亮介さんが従業員として、適切に対応できるか確認します」


「元警部補で戦隊ヒロインで特殊訓練を受けた人が犯人役なんて、想定が強すぎません?」


「模擬訓練です」


「俺を三回制圧した人が言っても安心できません」


玲奈は模擬ナイフを持ち、店の外へ出た。


亮介は一人、店内に残る。


想定上は、閉店間際の店内に数人の客が残っている。


玲奈は店主ではなく、一人の客という設定だった。


入口のベルが鳴る。


玲奈が入ってくる。


表情を消し、模擬ナイフを見せる。


「レジのお金を出してください」


声は静かだった。


亮介は思わず一歩下がる。


「低い声を出していないのに、俺より怖いです」


「余計なことを言わず、お金を出してください」


「はい」


亮介はレジへ近づいた。


現金を出すふりをしながら、店内の位置関係を確認する。


玲奈は入口と客席の間に立っている。


このままでは、想定上の客たちが裏口へ逃げられない。


亮介はゆっくりとテーブルを動かした。


犯人と客席の間へ、障害物を作る。


「何をしていますか」


「お金を出すための場所を空けています」


「妙な動きをしないでください」


「分かりました」


亮介は玲奈の注意を自分へ引きつけながら、裏口までの通路を空けていく。


「皆さん」


亮介は想定上の客へ声をかける。


「慌てず、裏口から外へ出てください」


犯人役の玲奈が一歩近づいた。


「動くなと言いました」


「金は出します。だから、客には手を出さないでください」


「あなたも逃げるつもりですか?」


「いいえ」


「なぜですか?」


「従業員だからです」


玲奈の視線が、ほんの少し変わる。


「店主はどうするのですか?」


「玲奈さんも、先に裏口へ行ってください」


「亮介さんは?」


「俺は残ります」


「危険です」


「そうですね」


亮介は少し笑った。


いつもの大げさな笑いではなかった。


「でも俺は昔、人を盾にして、自分だけ逃げる側でしたから」


閉店後の店内へ、遠い波音が入ってくる。


「今度くらいは、逆でもいいでしょう」


玲奈は、しばらく亮介を見ていた。


やがて模擬ナイフを下ろす。


「訓練を終了します」


亮介は肩の力を抜いた。


「俺、今の対応は何点です?」


玲奈はすぐには答えなかった。


模擬ナイフをテーブルへ置き、閉じていたカーテンを少し開ける。


夜の海に浮かぶ月明かりが、細い線となって店内へ差し込んだ。


亮介はカウンターへ寄りかかる。


「玲奈さん」


「はい」


「以前、強盗が入った時のことなんですけど」


玲奈が振り返る。


「あの日、俺が買い出しに行っている間に犯人が入ったでしょう」


「はい」


「戻った時には、玲奈さんが全部終わらせていました」


亮介は苦笑する。


「俺は大城警部へ電話しただけです。牛乳まで落として」


「通報してくださったことは助かりました」


「でも、店を守ったのは玲奈さんです」


亮介はレジへ目を向けた。


「あの時、少し思ったんです。俺はこの店に必要なのかなって」


「亮介さん」


「玲奈さんは強い。頭もいい。一人でも何でもできます」


「何でもはできません」


「少なくとも、強盗役の俺を三秒以内で床へ沈められます」


「二秒八七です」


「正確に訂正すると、もっと哀れになります!」


玲奈の口元が少し緩む。


それを見て、亮介も笑った。


だが、すぐに表情を戻す。


「それに俺は、元詐欺師です」


玲奈は何も言わず、続きを待った。


「店のお金がなくなったら、一番先に疑われる経歴です。俺が何もしていなくても、昔のことを知っている人なら、またやったと思うでしょう」


強盗へ襲われた時よりも、亮介の声は弱かった。


「防犯を考えるなら、店の中で一番危ない過去を持っているのは、俺です」


「そうですね」


玲奈は安易に否定しなかった。


亮介が傷ついたような顔をする。


「そこは少し迷ってから答えてください」


「亮介さんが過去に人のお金を騙し取ったことは、事実ですから」


「正直ですね」


「ですが」


玲奈は続ける。


「過去が事実であることと、今の亮介さんをどう見るかは別のことです」


亮介が顔を上げる。


「初めてお会いした頃の亮介さんなら、店のお金をすべて任せることはできなかったと思います」


「やっぱり信用されてなかったんですね」


「人の話を最後まで聞いてください」


「はい」


「亮介さんは、最初から信用できる方だったわけではありません」


「もう少し包んでください」


「ですが、毎朝きちんと店へ来ました」


玲奈は、静かな声で一つずつ挙げていく。


「失敗して叱られた次の日も来ました。お釣りを間違えた時は、自分のお金で補おうとしました。お客様が困っていれば、頼まれなくても動きました」


「余計なことも、かなりしましたけど」


「かなりしました」


「そこは否定してください」


「事実ですから」


玲奈は小さく笑った。


「それでも、失敗した時に逃げなくなりました」


亮介は黙る。


「以前の亮介さんは、不都合なことが起きると、嘘を重ねて逃げようとしたのでしょう」


「はい」


「今は、失敗すれば言い訳をして、そのあとで戻ってきます」


「言い訳はするんですね」


「長めにします」


「改善点として受け取ります」


玲奈は亮介をまっすぐに見る。


「私は、今の亮介さんが店のお金を持って逃げるとは思っていません」


亮介の表情から、冗談が消えた。


「私は、今の亮介さんを信用しています」


普段なら、すぐに何かを返す男だった。


頼まれていなくても喋り続け、短い言葉を勝手に広げ、最後には自分を褒める話へ持っていく。


しかし、この時だけは何も言えなかった。


玲奈が不思議そうに見る。


「どうかなさいましたか?」


「もう一度、言ってもらえませんか」


「聞こえませんでしたか?」


「聞こえました。今度は心の準備をして聞きます」


「同じ言葉は二度申し上げません」


「一生に一度の貴重な台詞だった!」


「忘れないでください」


「録音しておけばよかった」


「防犯訓練を録音する必要はありません」


「訓練ではなく、玲奈さんの『信用しています』を保存したかったんです」


「心に保存してください」


「さっき故障していると言われた気がします」


「まだ申し上げていません」


「これから言う予定でした?」


いつもの調子が少しずつ戻ってきた。


亮介は胸を張る。


「つまり、共同経営者に昇格できる程度には信用されているわけですね」


「そこまでは申し上げていません」


「信用していますと言った直後に線を引かないでください」


「信用と経営能力は別です」


「俺には経営能力がないと?」


「昨日、島野菜サンドのお会計を四十円少なく受け取っていました」


「観光客への特別サービスです」


「計算間違いです」


「地域経済への還元です」


「店の利益を無断で地域へ還元しないでください」


「では、この信用は何に反映されるんですか?」


玲奈はカウンターの引き出しを開けた。


中から、小さな銀色の鍵を一つ取り出す。


青いタグが付いている。


それを、亮介の手のひらへ置いた。


「こちらをお預けします」


亮介の目が輝いた。


「店の合鍵ですか?」


「はい」


「ついに!」


亮介は鍵を頭上へ掲げる。


「俺も正式に『しおかぜ』の一員として認められたんですね!」


「裏の物置の鍵です」


亮介の手が止まる。


「物置?」


「モップ、洗剤、予備の椅子を保管している部屋です」


「店の入口を開ける鍵では?」


「入口の鍵は、まだ私が管理します」


「信用の扉が物置から始まった!」


「段階が必要です」


「物置の次は厨房ですか?」


「冷蔵庫に黒糖プリンがありますので、まだ早いです」


「俺を泥棒として警戒している対象が、店の金からプリンへ変わった!」


「店のお金を持ち逃げしないことは信用しています」


「プリンについては?」


玲奈は少し考えた。


「夜中に一つ召し上がる可能性があります」


「一つくらいなら、かわいいものでしょう」


「二つ目も召し上がりますね」


「信用が具体的に崩れている!」


玲奈は訓練用具を片づけ始めた。


亮介は青いタグの鍵を、手の中で何度も裏返す。


店の入口には使えない。


厨房にも、レジにも入れない。


開けられるのは、掃除道具と予備の備品が入っている小さな物置だけ。


それでも、玲奈が初めて亮介へ預けた「しおかぜ」の鍵だった。


「ありがとうございます」


亮介が言う。


今度は、ふざけなかった。


玲奈も手を止める。


「鍵を持つということは、責任を持つということです」


「分かりました」


「毎朝、モップと洗剤の在庫を確認してください」


「信用に業務が付いてきた!」


「物置の管理をお願いします」


「感動が急に現実的になりました」


「現実の積み重ねが信用ですから」


亮介は鍵を強く握った。


「責任を持って守ります」


「お願いします」


「強盗が物置を狙った場合は、俺が体を張って――」


「警察へ通報してください」


「俺が取り押さえて、玲奈さんに褒めてもらう展開は?」


「危険ですから、ありません」


「俺も元ラガーマンですよ」


「訓練では三回とも二秒台でした」


「記録を残さないでください!」


片づけを終えると、玲奈は冷蔵庫から黒糖プリンを二つ取り出した。


一つを亮介の前へ置き、自分も向かい側へ座る。


「訓練、お疲れさまでした」


「無料ですか?」


「はい」


「信用の記念ですね」


「形が少し崩れた試作品です」


「必ず現実的な理由を足しますね」


「美味しさに問題はありません」


「では、信用の味としていただきます」


「黒糖の味です」


「余韻を残してください!」


客のいない、閉店後の「しおかぜ」。


店内の照明は半分だけ落とされている。


遠くから届く波音と、スプーンが小さな皿へ触れる音だけが聞こえた。


亮介はプリンを一口食べる。


いつもと同じ、優しい甘さだった。


「玲奈さん」


「はい」


「俺、もう人を盾にして逃げたりしません」


玲奈はプリンへ視線を落としたまま答える。


「知っています」


「この店を守ります」


「無理はなさらないでください」


「玲奈さんも守ります」


玲奈が顔を上げた。


亮介は少し照れたように笑う。


「まあ、玲奈さんなら俺が守る前に、三秒で相手を床へ沈めるでしょうけど」


「二秒八七です」


「また訂正した!」


「事実ですから」


「そこは『お願いします』でいいでしょう」


「では、店をお願いします」


「俺ではなく、店だけですか?」


「亮介さんも、怪我をしないでください」


それは玲奈にしては、少し遠回りな言い方だった。


亮介は一瞬だけ驚き、すぐ笑った。


「はい。玲奈さんも」


「はい」


夫婦ではない。


共同経営者でもない。


恋人と呼べるほど、素直に気持ちを伝え合っているわけでもない。


それでも二人は、閉店後の小さな店で向かい合い、同じ場所を守る話をしながら、同じ黒糖プリンを食べていた。


店の正面扉を開ける鍵は、まだ玲奈が持っている。


亮介へ渡されたのは、物置の鍵一本だけだった。


だが、その銀色の鍵は、亮介がこれまで手にしたどんな高価な物より重かった。


盗んだ金で買ったものではない。


巧みな言葉で騙し取ったものでもない。


毎朝店へ来て。


テーブルを拭き。


お釣りを間違え。


余計なことを言って叱られ。


それでも翌朝には、また店の扉を開ける。


その繰り返しの先で、初めて誰かから手渡されたものだった。


翌朝。


玲奈が「しおかぜ」へやって来ると、亮介が裏の物置前で立ち尽くしていた。


右手には、昨夜渡された青いタグの鍵。


「どうかなさいましたか?」


「開きません」


玲奈は鍵を受け取る。


「差し込む向きが逆です」


「最初に説明してください!」


「普通は、一度試せば分かります」


玲奈は鍵を反対向きに差し込み、回した。


物置の扉が簡単に開く。


亮介が時計を見るふりをした。


「三秒ですね」


「何がですか?」


「俺が信用の鍵に制圧されるまでです」


「今日も防犯訓練を行いましょうか」


「もう勘弁してください!」


亮介の声が、朝の店内へ響いた。


玲奈は小さく笑い、白いカーテンを開ける。


柔らかな朝の光が、テーブルとレジ、冷蔵庫の中の黒糖プリンを照らした。


昨日までと変わらない店。


けれど、亮介のポケットには、小さな青い鍵が入っている。


そして玲奈の中には、亮介本人が気づくよりずっと前から、少しずつ彼へ預け始めていたものがあった。


それは、目には見えない。


一度の訓練で身につくものでもない。


黒糖プリンより固まるのが遅く、遅すぎた恋よりも扱いにくい。


けれど一度育てば、刃物よりも、過去の疑いよりも強く、二人が帰る場所を守ってくれる。


――信用という名の、世界で一番あたたかな防犯装置だった。

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