金髪の客は、会計より先に命をつないだ ――湘南の毒舌ライフセイバーと、元受刑者が思い出した“岸へ戻る言葉”
昼前の「島カフェ しおかぜ」に、その女性が現れたのは、まったくの偶然だった。
誰かを訪ねてきたわけではない。
戦隊ヒロイン時代の知人を探していたわけでもない。
南ぬ島を一人で歩いている途中、海沿いの道に立つ小さなカフェを見つけ、入口の黒板に描かれた島野菜サンドが少し美味しそうに見えた。
ただ、それだけの理由だった。
扉のベルが鳴る。
入ってきた女性を見た瞬間、亮介はテーブルを拭く手を止めた。
健康的に焼けた小麦色の肌。
潮風に大きく揺れる、目にも鮮やかな金髪。
顔の半分を覆うサングラス。
ノースリーブのシャツから伸びた腕には、海辺で長く鍛えた人間らしい、しなやかな筋肉がついている。
派手だった。
南ぬ島にも開放的な格好の観光客は多いが、その女性は店へ一歩入っただけで、周囲の空気を自分の色へ変えてしまうような存在感を持っていた。
「ここ、まだ飯いける?」
明るく、よく通る声だった。
カウンターの奥にいた玲奈が、いつもの穏やかな表情で答える。
「はい。島野菜サンドでしたら、すぐにご用意できます」
「じゃ、それとコーヒー。濃いめで頼むわ。薄かったら、海水で割ってるって湘南まで言いふらすかんね」
荒っぽい言葉だったが、口元には笑みがある。
玲奈は特に動じなかった。
「濃いめでお作りします」
「話が早くて助かるわ」
女性は窓際の席へ向かった。
迷いのない歩き方だった。
自分の体の動かし方を、よく知っている人間の足取りである。
亮介は注文票を握ったまま、その後ろ姿を目で追った。
「玲奈さん」
「はい」
「あの人、どこかで見たことがある気がするんですよ」
玲奈はコーヒー豆を量りながら、一度だけ女性へ視線を向けた。
「以前のお知り合いではありませんか?」
「知り合いだったら、あの金髪は忘れませんよ」
「亮介さんが以前、騙した方では?」
「すぐ俺の犯罪歴へ結びつけないでください」
「可能性の一つです」
「そんな派手な人を騙したら、たぶん今ここにいません」
「では、取り立てに来られた方でしょうか」
「さらに危険な方向へ進んだ!」
窓際から女性の声が飛んできた。
「お兄さん。さっきから、何チラチラ見てんの?」
亮介の背筋が伸びる。
「すみません。どこかでお会いしたような気がして」
女性はサングラスを少し下げた。
日に焼けた顔に、意志の強そうな目が現れる。
「それ、女へ声かける男が最初に使うやつじゃん」
「本当に違います」
「“本当に”って言う男は、だいたい怪しいべ」
「まだ何もしてません!」
「“まだ”って言ったね」
亮介が言葉に詰まったところへ、玲奈がコーヒーを運んだ。
「お待たせしました。濃いめのコーヒーです」
女性はカップを持ち上げ、香りを確かめる。
一口飲むと、満足そうに頷いた。
「うん。ちゃんと濃い。お姉さん、腕いいね」
「ありがとうございます」
「そっちのお兄さんの教育は大変そうだけど」
玲奈は一拍置いた。
「毎日が実地訓練です」
「玲奈さんまで!」
女性は豪快に笑う。
「いいコンビじゃん。夫婦?」
「違います」
玲奈の返事は、迷いなく速かった。
亮介は傷ついた顔をする。
「もう少し考えてから否定してもらえません?」
「考える必要がありません」
「お姉さん、結構きついねえ」
女性は面白そうに笑った。
「でも、こういう男は甘やかすと、すぐ調子乗るから。それで正解だべ」
「湘南の方ですか?」
玲奈が尋ねる。
「ああ。平塚の海っぺり」
女性は窓の外へ目を向けた。
「潮風と渋滞と、夏だけ急に増える調子乗った若いのに囲まれて暮らしてんよ」
「率直ですね」
「海なんて、離れて見てりゃ綺麗だけどさ。毎日そこで働いてっと、そんなロマンチックなもんでもねえから」
それ以上、女性は自分のことを話そうとしなかった。
名前も名乗らない。
仕事も明かさない。
玲奈も必要以上には聞かなかった。
女性の名は、平塚美波。
地元・湘南の海岸で活動する現役ライフセイバーにして、異色の戦隊ヒロインだった。
任務では戦闘の最前線より、負傷者の救護や避難誘導、後方支援を得意とする。
毒舌で口は悪い。
けれど、人が苦しんでいる時には誰より早く動き、決して置き去りにしない。
さらに大宮麗奈とともに、養護施設、老人ホーム、小児終末ケアセンター、刑務所などを訪問し、ほとんど手弁当で慰問活動を続けていた。
しかし、美波の主な活動地域は東日本。
玲奈は西日本を中心に任務へ参加していた。
同じ戦隊ヒロインに所属していた時期はあっても、二人にはほとんど接点がなかった。
大規模な催しや集合写真で姿を見かけたことはあったかもしれない。
だが玲奈の記憶の中で、「湘南の毒舌ヒロイン」と、目の前でコーヒーを飲む派手な観光客は結びつかなかった。
美波も同様だった。
玲奈の名前も顔も、どこかで見た覚えがあったかもしれない。
だが、警察官時代とも戦隊ヒロイン時代とも雰囲気の違う、南ぬ島の静かなカフェ店主を見て、岡本玲奈だとは気づかなかった。
島野菜サンドが運ばれる。
美波は一口かじり、少し目を見開いた。
「うまいじゃん」
「ありがとうございます」
玲奈が答える。
「野菜ばっか挟んで、ヘルシーって言っときゃ味薄くても許されると思ってる店、多いんだよ。ここはちゃんと食った気になる」
亮介が首を傾げる。
「それ、褒めてますよね?」
「褒めてんよ。お兄さん、言葉の裏ばっか読んでると人生面倒になるべ」
「初対面で人生まで分析されました」
「顔に書いてあんじゃん」
「何と書いてあります?」
「遠回りしてきました、って」
亮介の表情が、一瞬だけ止まった。
美波は気づかず、島野菜サンドをもう一口食べる。
派手な外見とは対照的に、食事の仕方は静かだった。
携帯電話にもほとんど触れず、時折コーヒーを飲み、窓の向こうの海を眺める。
ライフセイバーにとって、海は休息の場所であると同時に、常に誰かの命へ目を配る職場でもある。
南ぬ島まで来て、ようやく誰の様子も気にせず、ただ海を見ていられる。
美波にとっては、そんな短い休日だったのかもしれない。
島野菜サンドを食べ終えた美波が、伝票へ手を伸ばす。
その時だった。
近くの席から、スプーンが床へ落ちる音がした。
高齢の女性観光客が、胸元を押さえている。
向かいに座っていた娘らしい女性が、不安そうに立ち上がった。
「お母さん?」
高齢女性は答えない。
呼吸が浅い。
肩が大きく上下し、顔色は急速に青白くなっている。額には脂汗が浮かんでいた。
「苦しい……」
かすれた声を出し、椅子から崩れ落ちそうになる。
美波は伝票を置いた。
サングラスを外す。
次の瞬間には、高齢女性のそばへ移動していた。
「おばあちゃん。聞こえる? あたしの顔見て」
先ほどまでの豪快な声とは違う。
大きく、明確で、相手を安心させる声だった。
美波は女性の体を支え、床へ倒れないよう椅子を動かす。
呼吸。
脈。
意識。
顔色。
胸の痛み。
手足のしびれ。
迷いなく確認していく。
「お姉さん!」
美波は玲奈へ声を飛ばした。
「救急車! 胸の苦しさと冷や汗。意識はある。始まったのは今から一分くらい前って伝えて!」
「分かりました」
玲奈は即座に電話を取った。
美波は次に亮介を見る。
「そっちのお兄さん!」
「はい!」
「入口のテーブルと椅子どけて! 救急隊が真っすぐ入れるようにして、外で誘導!」
「分かりました!」
「返事一回でいいから、さっさと動く!」
「はい!」
亮介はすぐに店内を片づけ始める。
普段なら、言い方がきついと一言くらい返していたかもしれない。
だが美波の声には、考える前に体を動かさせる力があった。
玲奈は救急へ状況を伝えながら、娘から持病について聞き取る。
「心臓のご病気はありますか?」
「狭心症があります。薬が鞄の中に……」
震える手で、娘が鞄を探す。
玲奈は薬の名前を確認し、救急の指示を仰いだ。
美波は女性の衣服を緩め、呼吸しやすい姿勢を取らせる。
「おばあちゃん。寝ちゃ駄目だよ」
女性のまぶたが重くなる。
美波は手を強く握った。
「ほら、あたしの髪見て。こんな派手な金髪、目を閉じたら損だべ」
女性の口元が、わずかに動く。
「そうそう。笑えんなら、まだ大丈夫」
「苦しい……」
「分かってる。救急車はすぐ来る。今はあたしの声だけ聞いてな」
娘が泣きながら母親の名前を呼ぶ。
美波は強い口調で言った。
「娘さん。泣くのは後」
「はい……」
「今は普段通りに話しかけて。旅行で何を食ったとか、帰ったら何する予定だったとか。何でもいいから」
娘は涙を拭った。
「お母さん。帰ったら、お父さんに写真を見せるって言ってたでしょう」
高齢女性が小さく頷く。
美波も話し続ける。
「この店の島野菜サンド、結構うまいよ。元気になったら食べな」
玲奈が電話の向こうと話しながら告げる。
「黒糖プリンもございます」
「だってさ。まだ黒糖プリン食ってないんだべ? じゃあ、今ここで寝てる場合じゃねえよ」
高齢女性は苦しそうにしながらも、美波の声へ反応していた。
何度も呼びかけ、手を握り、目を開けるよう促す。
その横顔を見た時だった。
亮介の記憶の奥で、長く沈んでいた一つの光景が浮かび上がった。
派手な金髪。
荒っぽい言葉遣い。
人を笑わせながらも、決して突き放さない声。
刑務所にいた頃。
慰問に訪れた、一人の女性。
講堂の壇上に立った美波は、大勢の受刑者を前にしても、少しも遠慮しなかった。
「暗い顔して並んでっと、全員同じ顔に見えんだよ。反省してますって顔だけ作っても、何の意味もねえからな」
講堂にざわめきが起きた。
美波は構わず続けた。
「あたしも昔は、湘南でちっとは名前の売れたワルだったんよ」
地元のレディースを率い、夜の海岸を走り回った。
喧嘩。
警察との追いかけっこ。
家族や地元の人々へ、数え切れないほど迷惑をかけた。
美波は自分の過去を隠さなかった。
むしろ、笑い話のように語った。
「昔の写真なんか見せらんねえよ。髪は今より高いし、眉毛は今より細いし、自分でも何と戦ってたのか分かんねえ顔してっから」
受刑者たちの間から、笑いが漏れた。
だが、ある夜の話になると、美波の表情が変わった。
仲間が海で溺れかけた。
喧嘩では負けない。
バイクでは誰より速い。
自分は強い人間だと思っていた。
それなのに、波にさらわれる仲間を前にして、何一つできなかった。
救助に来たライフセイバーの姿を見て、自分が誇っていた強さが、人一人の命すら救えないものだったと知った。
その日を境に、美波は救命を学び始めた。
やがてライフセイバーとなり、迷惑をかけた湘南の海を守るようになった。
美波は壇上から受刑者たちを見渡した。
「過去は消えねえよ。消せると思ってんなら甘い」
講堂が静かになる。
「迷惑かけた奴が、急にいい人になりましたって言ったところで、誰も簡単には信じねえ。当たり前だべ」
亮介は俯いていた。
まるで、自分へ向けて言われているようだった。
「でもさ。波にさらわれても、岸へ向かって泳いでる奴まで、あたしは笑わねえよ」
美波は笑った。
「格好悪くても、何回水飲んでも、岸へ戻ろうとしてんなら、まだ終わってねえ」
そして、少し乱暴に言い放った。
「戻ったら働け。謝れ。誰かの役に立て。口じゃなくて、毎日で見せろ」
最後には、少し照れたように顔をそらした。
「やり直す奴は、あたしが勝手に応援する。頼まれてなくてもな」
あの言葉が、亮介の胸へ残った。
出所したところで、自分は元詐欺師だった。
誰も信用してくれない。
自分自身すら、信用できなかった。
それでも、岸へ向かって泳いでいる人間まで笑わないと言ってくれた人がいた。
亮介が門司港で働き始め、南ぬ島へ流れ着き、玲奈の店で働くようになるまで。
あの言葉は、何度も心の底から浮かび上がった。
「この人だ……」
亮介が呟いた。
救急との通話を終えた玲奈が振り返る。
「ご存じなのですか?」
「刑務所へ、慰問に来てくれた人です」
玲奈は改めて美波の顔を見る。
だが、それでも戦隊ヒロイン時代の記憶とは結びつかなかった。
「そうなのですか」
それ以上話す時間はなかった。
遠くからサイレンが近づいてくる。
亮介は店の外へ飛び出し、救急車を誘導した。
救急隊が到着すると、美波は簡潔に状況を伝える。
「七十代女性。数分前から胸部の苦しさと冷や汗。意識あり。呼吸は浅い。狭心症の既往あり。薬は本人の鞄。大きな意識低下はなし」
説明には無駄がなかった。
救急隊が処置を引き継ぎ、高齢女性は担架へ移される。
娘は美波へ何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
美波はサングラスをかけ直した。
「礼はいいから、お母さんについてってやんな」
「はい」
「元気になったら、ちゃんと病院の先生の言うこと聞かせな。年寄りって、元気になるとすぐ無茶すっから」
担架の上の女性が、かすかに笑った。
「聞こえてるわよ……」
「聞こえてんなら大丈夫だな」
美波は明るく手を振った。
救急車が「しおかぜ」を離れる。
後ほど病院から連絡が入り、早い処置が功を奏し、大事には至らない見込みだと伝えられた。
店内に、ようやく安堵の空気が戻った。
美波は床に落ちていた伝票を拾う。
何事もなかったようにレジへ向かった。
「じゃ、会計お願い」
玲奈が金額を伝える。
「先ほどは、ありがとうございました」
「別に。体が勝手に動いただけ」
「適切な処置でした」
「海で人を見てっと、嫌でも覚えるんよ。助ける時に格好つけてる暇なんかねえからさ」
玲奈は、美波の顔を静かに見た。
ほんの一瞬。
どこかで会ったことがあるような気がした。
「以前、どこかでお目にかかったことはありませんか?」
美波は首を傾げる。
「さあ。あたし、こういう見た目だから、似たような金髪見たら全部あたしに見えんじゃない?」
玲奈も深く追及しなかった。
「失礼しました」
「気にしなくていいよ」
美波は最後まで、玲奈が元警部補であり、元戦隊ヒロインの岡本玲奈だとは気づかなかった。
玲奈も目の前の女性が、湘南の毒舌クイーンと呼ばれる戦隊ヒロイン、平塚美波であることに気づかない。
二人はただ、一人のカフェ店主と、一人の観光客として別れようとしていた。
亮介はレジのそばへ近づいた。
伝えたい言葉は、いくつもあった。
刑務所で話を聞いたこと。
あの言葉に救われたこと。
出所後、門司港で働いたこと。
何度も失敗しながら、今は南ぬ島の店で働いていること。
まだ岸へ戻る途中かもしれないが、以前より少しは誰かの役に立てるようになったこと。
「あの……」
美波が振り返る。
「何?」
普段なら頼まれなくても、いくらでも喋る亮介だった。
しかし、肝心な時には言葉が見つからない。
美波は少しだけ亮介を見る。
店のエプロン。
救急隊のために移動されたテーブル。
入口まで走って誘導した時に浮かんだ汗。
何かを察したのかもしれない。
何も気づいていなかったのかもしれない。
美波は玲奈へ代金を渡した。
「美味しかったですよ」
それだけを言った。
コーヒーと島野菜サンドへの感想だろう。
ただの一言に違いない。
それでも亮介には、今の自分が働いている場所まで肯定されたように聞こえた。
「ありがとうございます」
玲奈が答える。
美波はサングラスを上げた。
「じゃあね」
入口へ向かいかけ、亮介を振り返る。
「お兄さん」
「はい」
「もうちっとシャキッとしな。せっかく、いい店で働いてんだからさ」
亮介は目を見開いた。
「はい」
「返事だけはいいね」
美波は笑い、店を出ていった。
派手な金髪が潮風になびく。
歩き方は軽く、振り返らない。
一人の命をつないだことも、元受刑者の古い記憶を呼び起こしたことも、大したことではないと思っているようだった。
閉店後。
亮介はカウンター席へ座り、美波のことを玲奈へ話した。
刑務所へ慰問に来た派手な女性。
かつて湘南で名を知られたレディースの総長だったこと。
喧嘩や暴走を繰り返し、家族や地元へ散々迷惑をかけたこと。
それでも自分の過去から逃げず、ライフセイバーとなって、今は地元の海を守っていること。
戦隊ヒロインとして活動しながら、大宮麗奈とともに養護施設や老人ホーム、小児終末ケアセンター、刑務所を慰問していること。
玲奈は記憶を探るように目を細める。
「平塚美波さん……」
「知っているんですか?」
「戦隊ヒロインに、そのようなお名前の方がいらしたような気がします」
「今日の人ですよ」
玲奈は少し驚いた。
「そうだったのですか」
「最後まで気づきませんでしたね」
「活動地域が違いましたから。きちんとお話ししたこともなかったと思います」
「向こうも玲奈さんだって、全く気づいてませんでした」
「お互い、戦隊ヒロインだった頃とは違う姿で会ったのですから、それでよいのではありませんか」
亮介は、美波が刑務所で話した言葉を伝えた。
過去は消えない。
簡単には信用されない。
それでも、岸へ戻ろうとしている人間まで笑わない。
「当時の俺は、出所しても、何をすればいいのか分かりませんでした」
亮介は自分の手を見る。
「外へ出ても、元詐欺師です。誰も信用しない。俺も、自分を信用してませんでした」
玲奈は黙って耳を傾ける。
「でも、あの人が言ったんです。戻っている途中なら、まだ終わってないって」
「その言葉に、勇気をもらったのですね」
「はい」
亮介は照れたように笑った。
「言い方は、かなり乱暴でしたけど」
「どのようにおっしゃったのですか?」
「『反省してますって顔が全員同じで気持ち悪い。本当に反省したなら、外へ出てから働け』って」
玲奈が少し目を見開く。
「かなり厳しいですね」
「講堂が一瞬で静かになりました」
「そうでしょうね」
「でも、最後に言ってくれたんです。『やり直す奴は、あたしが勝手に応援する』って」
亮介は窓の向こうを見る。
「勝手に応援されて、俺も勝手に勇気づけられました」
玲奈は静かに微笑んだ。
「美波さんの一言で、亮介さんが岸へ戻る勇気を持てたのでしたら、それは素晴らしいことですね」
「岸へ戻って、この店まで来ました」
「かなり遠回りをされましたね」
「感動的なところで、移動距離を指摘しないでください」
「でも、たどり着かれました」
亮介が顔を上げる。
玲奈は、救急隊のために動かしたテーブルを元の位置へ戻しながら言った。
「美波さんは今日、観光客の方の命をつなぎました」
「はい」
「以前には、亮介さんの人生も少しだけ岸へ引き戻していたのですね」
亮介は胸へ手を当てる。
「俺は毒舌で蘇生された男なんですね」
「まだ効果が足りないように見えます」
「これ以上強い言葉を浴びたら、心が止まりますよ」
「亮介さんなら、大丈夫です」
「急に信頼が雑です!」
翌朝。
玲奈が店へ来ると、亮介が入口へ紙を貼ろうとしていた。
湘南から来た金髪のライフセイバー様へ
元受刑者のウェイターが、お礼を言いたがっています。
再来店時、四国八位の特別接客あり。
玲奈は無言で紙を剥がした。
「何をするんですか」
「また来てくれた時のためです」
「四国八位の特別接客とは?」
「注文を受けてから、通常より速く運びます」
「店内を走らないでください」
「では、黒糖プリンを無料で」
「亮介さんの給与から差し引きます」
「恩人への感謝まで自腹ですか?」
「亮介さんの恩人ですから」
「理屈が完璧で反論できない!」
玲奈は紙を折りたたんだ。
「また偶然、いらっしゃるかもしれません」
「その時は、ちゃんとお礼を言います」
「はい」
「俺が今、岸へ戻って働いてるって」
玲奈は小さく頷いた。
前日の金髪の客は、自分の名前を残さなかった。
戦隊ヒロインだったことも。
多くの施設を慰問していることも。
湘南の海で人を救い続けていることも語らなかった。
残したのは、飲み終えたコーヒーカップ。
空になった島野菜サンドの皿。
そして、
「美味しかったですよ」
という、ごく短い言葉だけだった。
それでも亮介には、十分だった。
かつて岸へ戻れと言ってくれた人が、長い遠回りの末に自分がたどり着いた店で食事をし、美味しかったと言ってくれた。
自分を覚えていなくてもよい。
名前を知られなくてもよい。
あの日の言葉を受け取った男が、今は誰かのためにテーブルを動かし、救急車の通る道を作れるようになっている。
それこそが、美波への一番の返事なのかもしれなかった。
朝の潮風が白いカーテンを揺らす。
南ぬ島の海は、静かに光っている。
湘南の毒舌ライフセイバーは、もう次の場所へ向かっているのだろう。
きっとそこでも、少し荒っぽい言葉で誰かを叱り、誰にも頼まれていないのに勝手に応援し、必要とあれば会計より先に命をつなぐ。
そして「しおかぜ」には、昨日よりほんの少しだけ胸を張ったウェイターが立っていた。




